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御神楽岳・栄太郎新道との折合い①

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御神楽岳に「栄太郎新道」が切り拓かれたのは・・・いつ頃 どんな目的だったのか?

その前に「栄太郎新道」とは・・・トラさんのブログへ飛びます > ソロで生きる

調べ物をしていたら・・・ひょんなことから 当時に関する資料が出てきた。南会津山の
会「いろりばた 68号」に会員の滝沢芳章さんが記していた。「1985年9月14日、
偶然に栄太郎さんのキリツケ遭遇」の記事、標題は「笠倉山二つ」です。ここでいう笠倉
山は御神楽のぐるっと峰続きに広谷川を挟んで対峙する山です。もう一つの笠倉山は只見
塩沢の蒲生岳の北東の山を指しています。

「登山道切開キ記念 昭和三十四年七月中 熊倉栄太郎五十九才」

1959年・・・ この年って、どんな時代背景があったんだろう? 三井・三池闘争後の
60年安保闘争で全国的に政治闘争化していた時代背景? 市民のリクリェーションはどんな
感じなのか? 当時小学校4年生だった私では覚えもない。ただ吾妻スカイラインが開通し
て結構な盛り上がり感を感じていた。翌年、夏休みの宿題で 吾妻小富士を一切経側から眺
めた絵に金賞が貼られていたのをしっかり覚えている(笑)

「この齢をしてあの険しい栄太郎新道を切り拓いた情熱にはただ脱帽するのみ」と滝沢さん
は書かれていました。ただし・・・、滝沢さんが「あの険しい」と表現したのは 湯沢入口
のスモ平から高頭までのことを意味してるのだろうと思います。

1985年(昭和60年)の栄太郎さんが直筆?のキリツケ発見まで 26年間には会津山
岳会、峡彩や新潟山岳会、特に「わらじの仲間」等 登っていたんだろうとは想像しますが、
栄太郎さんがいつから どういう動機で 何のために切り拓いたのかを検証する文献が一つ
もネット上には出てきません。新潟では「栄太郎新道」について あれこれと調べつつ山に
登っている若者はいないのだろうか?と訝るほど。地元山岳会としても「文化的な踏査」は
しないのだろうか?疑問をもっていた。新潟山岳会は後がまで、登山史の調査に関して信の
おける山岳会は?となると峡彩山岳会しかないでしょうからその弱体化がとても悔やまれます




「いろりばた」の記事に出たキリツケ発見場所は、、、霧来沢から大鍋又沢をつめ赤綿尾根
に上がって そこから左へ月山平の藪をゆき笠倉山に登り 帰り道は三角点から尾根通しに
戻っていますが その途中でキリツケを発見したそうです。それにしても 還暦前にしてこ
の険しい道を拓いたというのですから 私も驚いてしまいました。

それと開削目的が「登山道切開キ記念」となっていましたから ゼンマイ採りではなかった
ようですし、ヒメコマツの根元にマツタケが生えるということは知ってはいましたが、それ
でもないようです。もっとも ゼンマイにマツタケは書けないですよね。極秘にするのは当
然でしたでしょうから(笑)

昭和32年(1957年)といえばようやく峡彩山岳会が飯豊の沢登りを開始したころでしょ
うか? 新潟山岳会も御神楽を登り始めたのは昭和40年ごろ・・・ですから 熊倉栄太郎
さんの御神楽開拓はそれらより5年ほど以前に始まっていた という背景でしょうか。
逆に言えば、新潟にジャルピニズムが浸透しだす前に「登山道」という名の開削をしたこと
になりますね。



ここで驚いてばかりいても始まらないので 霧来川の本名村三条集落が越後からみて 歴史
的にどんな位置関係だったのか交易の面から見ていきますと・・・ じつは 栄太郎さんが
登山道を開拓する以前に 室谷からは御神楽を抜けて三条に住み着いた人たちの道なき道が
あったと思われます。(前項 三条木地師・マタギの話)




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by tabilogue2 | 2015-11-23 22:03 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)