御神楽岳・栄太郎新道との折合い②

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滝谷川 斬伏峠への分岐付近




金山・本名からの交易ルートは 鞍掛沢と大鍋又沢との中間尾根から登って御神楽赤綿尾
根にあがり、赤綿平(1091m)-白山ヤシキ(914m)-月山平-笠倉山-笠倉沢(754
m)地点-スモ平-蝉ヶ平という交易ルートがあったと思われます。

越後・室谷からの交易ルートは 明治時代から日尊倉(ヒソノクラ)を経由しており、塩
や魚が 幕岩の西側鞍部を通っていく道で距離はここが一番短かく、険しくもあったと既
に言われていました。明治十年ごろの記録によれば9時間もかかったとされています。

新潟県の室谷から大久藏沢を登って、会津側の大石田沢を下り三条・本名まで、。或いは
蒲生川の沢どおしに滝沢・大塩集落までのルートがあったと記されています。


もっとも、領有権などの争いがあって、国境となる山の確認がありそれを名主たちが了承す
るという一連の「国境山論」があったと記されています。陸奥と越後の二国・四郡・十三箇
村の国境の詮議があったと。領有権で問題となるのは木材、山菜、狩猟、漁業、金銀鉱など
の鉱物などの資源ですね。

とくに会越山脈は粗鋼といえども金鉱 銀鉱 黄銅鉱が産出されており、金鉱は1トン当た
り3ないし4グラムと粗鉱だが、代わりに黄銅鉱は60グラムほど採掘できた良鉱だったと
いわれています。金石ヶ鳥屋山では金石が産出されます 金石とは鉛鉱のことで「鉛の溶け
込んだツララを発見したことがキッカケです。かつて会越山脈中ノ又山に登った時もそちこ
ちに多々羅精錬のボタの跡があり青紫色になって捨てられていたのをこの目でみています。


なので、山の区界を決めるということは現地にとってとても大きな意味があったのでしょう。
また マタギにおいても口伝は沢山残っており 山の〇〇渓より先には入ってはならぬという
「掟」が存在していました。こっちのマタギとあっちのマタギとのやり取りがあったと思われ
ます。いわゆる縄張りを決めていたようです。金山町の”談合峰”という山も縄張りの結果だっ
たんでしょうね。

それら交易の道は中世の租庸調、江戸時代の年貢などの「税制度」の明確化に連れて発達して
きたと思われます。年貢米で納める、金銭で納める、漆などの特産物で納めるなど「天領南山
御蔵入地」であった西・南会津地方は幕府直轄地であったため 仔細に渡って村々の年貢上納
の書き付けが残されておりました。話は変わりますが・・・のちの 農民一揆「南山お蔵入り
騒動」の話は まことに仔細に渡り記録され 弾圧と一揆勃発、処刑・斬首の顛末記となって
残されています。



宗教的に見ますと・・・、金山史談会発行の「金山史談 4号」に記された記録によれば、、、
「神鏡 御神楽嶽と其の史的研究」という本に 会津の伊佐須美神社主典 佐治虎雄氏の一行
9名が当時未知の秘境だった御神楽の紹介と植物の調査研究を目的に登山されたときの記録で 
昭和5年に「余等一行9人 八月四日に登拝せんとして出発に際し御神楽岳の信仰者に『登山
すると必ず山が荒れて作物が不作になる 登山を許すことは相ならん』という苦言が本名区長
にあったほどで、この山とこの地方民とは極めて密接な関係が今なお存している」と記してあ
りました。登拝の時以外は登山道というか、交易道さえも本名御神楽、御神楽岳を外していた
のではないかとさえ思えます。

昭和5年(1930年)ごろまでズゥーっと、外界からの侵入を拒んでいたわけですね。ある意味、
この事実は凄いことを含んでおります。ごく最近まで つまり歴史的事実が虚偽のない真実で
あったことです。


かつての交易道を御神楽に辿れば、、、新潟山岳会 現会長の阿部信一さん手書きの地図には
御神楽~雨乞峰~湯沢の頭までは「バアラ曽根」と記され、湯沢の頭~高頭~覚道の頭~蝉ヶ
平の尾根は「楢山曽根」と称されてきた経緯があります。どちらも春先の熊撃ちに使われてい
たことでしょう。キノコ雪が着く瘠せ尾根ですから、山岳会であっても冬季合宿以外に登られ
ることは極く稀だったろうと思われます。

とすれば 夏山登山用に新規に開拓しなければならなかったのは湯沢出合いであるスモ平から
高頭(コウツムリ)までの支稜線の開拓だったであろうと考えられます。登ったことがある人
なら分かると思うのですが よくこんな所にルートなんかあるなあ と思えるところです。

栄太郎さんは越後広谷川の蝉ヶ平の出身。蝉ヶ平も会津側の三条集落と同様に平家の落人部落
と世間から見られてきました。いや、そうではない!と言ってはみても 風評には抗えない部
分もあったのでしょう。それは三条集落の歴史としても前記しました。三条と蝉ヶ平とが同じ
ような木地師集団としますと・・・、
栄太郎さんがかつての狩猟の道を辿って、中世からの「歴史の道」を復元する真の意味は、厳
しい生活を強いられながらも この地で生き抜いてきた祖先への敬意と今の暮らしへの感謝だ
と推察しますが いかがなものでしょう。


御神楽岳の記事へ飛びます ・・・ 御神楽岳水晶尾根

栄太郎新道の以前にあった交易道について・・・ 原稿未了 加筆・訂正中





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by tabilogue2 | 2015-11-24 00:18 | 会津・越後 | Comments(0)