大山越 ①

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新潟県津川町 「狐の嫁入り」祭り




金山谷と峠

福島県大沼郡金山町の金山町文化財調査委員会が編集した「金山町の文化財」によれば、
「㉜塩の道 大山越」の歴史に目を通すことができる。
国土地理院の地図で 北緯「37度30分38.57秒」 東経「139度32分38.73秒」 
沼越峠を中間点とする南北の破線路を「大山越」という。
その西側は、スラブに遊ぶ「御前ヶ幽窟」。 歴史に遊ぶ、古道「大山越」とは一山ちがい。

また先述の「金山史談」に記載された「塩」に関する記述を抜粋して・・・、「大山越」の
歴史的 生活交易的 宗教・文化的側面を学んでいきたいと思う。



金山町宮崎より只見川を舟で渡り(現在は上田ダムを渡る)、関根より北ノ子沢(北の湖沢)
を越えて、急峻な道を登り国土山を尾根伝いに行くと、新潟県境に大山祇神社の石の祠が立
っている。そこから県境の稜線を登るとほどなく沼越峠(鉾峠)となる。標高830m、こ
こまで関根から一里半6kmの道程である。

それより再び急峻な坂道を下ると柴倉川の支流・大川前沢につく。さらに二つの小さな峠を
越えると 最初の村落である柴倉に着く。ここは大倉峠からの径もあわさる。この柴倉まで
が峠より一里半の道程である 現在は4キロほど行くと林道となっている。

この三里の道を 大山越(おおやまごえ)とよんでいる。現在は東北電力の送電線:新潟幹
線と鹿瀬線が通っているので 道は狭いながらも良く刈り払われている。

奥会津から越後へ越す峠径は南から六十里越、八十里越、御神楽越、貉ヶ森越とあり、六十
里、八十里はそれぞれ六里、八里を歩いて越後の村落に抜けているが、この大山越はそれら
の半分以下で越後の村落に着くことが出来た。

大山越は 寛文年間(1661年~)には会津藩郡奉行:関藤右衛門によって改修された「歴史
の道」でもある。日常全て足に頼った時代の極めて大切な道である。
金山北部からは、、、袴腰、九才坂峠、大倉越などが交易で使われていた。



他に大山越の逸話として拾える話、記録は・・・

天正六年(1578)には野沢城主:大槻太郎左衛門政道が芦名氏に滅ぼされて この「
大山越」で越後に逃げている。

寛文年間(1661年~)には当時の会津藩郡奉行:関藤右衛門によって改修された歴史の
径でもある。

さらに江戸時代、寛永十九年(1642)には時の会津領主加藤明成の過酷な年貢の収奪に
耐え兼ね、沼沢、大栗山、坂下の多くの農民が大山越から越後へ逃げ散っている。



*「天領 南山御蔵入」

幕府の直轄地を天領と言った。そこの土地で穫れた米は江戸に廻され、幕府の米蔵に蓄え
られた(御蔵入)。浅草辺りだったというが そこまで運ぶのでさえ大変な労役だった。

山と谷しかない土地。それがゆえに、戦での要衝の地を務めたが、普段に生きる民百姓に
とっては過酷な地と言っても言いすぎることはない。江戸時代中期に年貢負担に苦しむ百
姓たちの一揆が起こってもいる。

享保五年(1720)、全国の天領地において初めての百姓一揆が勃発した。この一揆で
首謀者として 6人の斬首・さらし首、23人の入牢(9人の牢死)、処罰36人 の犠
牲者がでており「人別帳」に書き込まれている。農地没収、家財没収、親兄弟まで連座制
で責任を取らされた。

のちのち「御蔵入騒動」に関しては いまよりも一層勉強して ブログに書き込みたい。



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by tabilogue2 | 2015-11-27 15:15 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)