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大山越 ②

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津川町 「狐の嫁入り祭」花嫁の草履 (7枚重ねで編んでいる)




塩と峠

奥会津は名の通り山に囲まれている山国である。どこへ出るにも 何処から物資を運び込
むにも山を越えねばならない。それは今も昔も変わらない。

江戸時代の初めまで会津地方の「塩」は小名浜一帯と相馬から仙台にかけての浜から採れ
「東入り塩」が中心だった。その後、大阪から日本海を通る西廻り船で播州や尾道で採
れた良質な塩が新潟に陸揚げされた。それが「西入り塩」である。

あまり聞いてはいない話だが、幕末に京都守護職になった会津の殿様:松平容保が幕府か
ら領地を加増された際に、特に「新潟の一部」を容保は希望したといわれる。瀬戸内から
の「西入り塩」を安く安定的に手に入れようとしたわけである。 

文政三年(1820年)、御蔵入地:今の高田町以西、只見川以南の地方に7000俵の塩が
運ばれたという。新潟港より阿賀野川をさかのぼって津川町で陸揚げされ、津川から野沢
や西方へ駄馬で運ばれた。瀬戸内の塩は十四貫入り(52.5キロ)の荷姿だったので、
津川での陸揚げの際に坂下の叺(かます)と縄で 米同様に一俵60キロに荷造りを仕直
して運んだそうだ。

奥会津に入る「西入り塩」は
1新潟-津川-野沢-西方-御蔵入(主として金山谷)
2新潟-津川-八十里越-奥会津-伊北
3新潟-津川-柴倉-柴倉峠-宮崎(大山越)
4塩沢でとれる地塩
だいたい以上のルートで 御蔵入地に用立てた。

大塩組では年に390俵が要り用で津川廻りの塩と八十里越の塩が半々くらいだったとされ
る。津川廻りの塩は八十里越の塩より金一分につき一升分ほど安かった。野継ぎ駄賃が少な
かったからだろう。

津川と西方には「塩囲い蔵」が置かれ、西方には年間で6000俵から12000俵が入荷
したそうだ。蔵のおかげで潤った村だったという。

嘉永元年(1848年)の記録によると大山越は1575駄、野沢から西方は1625駄。
峠を越えるということはどれほどの苦労があったのだろうか。宮崎村より柴倉まで三里、津
川まで五里、この三里の大山越を牛馬にて運べたらどんなに楽だったことだろうか。

江戸時代に何度も大石、大塩、野尻、黒谷、古町、和泉田、熨斗戸組の農民は連合して嘆願
書を役所に出してはいたが聞き入れられなかった。野沢や西方の街道筋の問屋が裏で役人と
グルになって反対したと言われている。同じ金山谷でも水運に頼った滝谷、大谷組の名主は
大反対に廻ったと言われている。

ちなみに塩は十貫目俵を半分(20kg)にして大山越をしたとされる。
また 一駄は・・・牛馬の背中に「俵を2つ」着けることをいう。


*先日学んだ通り、宮城の秋保では笹谷峠の脇間道で荷物を運ぶ馬を「ダンコ馬」と呼んだとある。
ダンコの「ンコ」は 犬っこ、どじょっこ、ふなっこ、女(め)ごっこ、やろっこ、うまっこ、べごっこ・・・
語尾につけられた愛称であろうか。 馬・・・駄馬、だんば、ばんば、うまっこ、、、

















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by tabilogue2 | 2015-11-27 18:36 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)