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大山越 ④

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滝谷 砂子原地区



信心と峠

以前述べたように、只見川沿いにある金山町は上田ダムからの峠入口、越後の柴倉村か
らの峠入口、山頂の沼越峠にも大山祇神社の石祠が設置され、大山越そのものが山ノ神
に護られた有難い道だった。



大山祇神社詣りが盛んなころは登拝ルートも面白いように組まれたらしい。長い一生の
節目節目に鎮守様とかかわりその御加護を頼り生きてきた。お伊勢講、飯豊講、山ノ神
講、湯殿講 羽黒講 伏見稲荷講 それぞれの信ずる神へ参詣する。

水神様、疱瘡などの疣神様、戦になれば鹿島神社の祠にも詣でたことだろう。大山越は
庶民の暮らしにおおいに利用されていたのである。いっぽう農耕社会の維持に必要だっ
た村々の氏神様は個人の信仰というより 村、村人のために祀られた神である。

それが産土の神、土地神様の習わしだった。赤子が生まれたらすぐに社詣りする、十五
になれば虚空蔵様にお詣りし飯豊山神社にも登拝する。ごくごくそれが普通の習わしだ。
田の神、水神様のお祭りでは「歳の神」祭(さいのかみ)が正月行事になっている。

そういう事情を見ていくと、この大山越での山ノ神巡りは霊験灼かなルートが好んで採
られたようだ。大山越-柴倉-大倉峠-大山祇神社、この路順だと金山・宮崎から上田
の山ノ神様、沼越峠の山ノ神様、柴倉側にある峠の山ノ神様、そして柴倉村の鎮守であ
る山ノ神様、さらに大倉峠から関根に出て関根の山ノ神様、そして大久保に出て大山祇
神社遥拝殿で拝んで奥宮に詣り、黒沢越、長谷川越、尾根筋を高倉や国土山の手前から
水沼に下りて来る。

補足するが、大山祇神社と峠筋や村の端にある小さな石祠の山ノ神神社 このどちらも
「山ノ神」で同じ神様である。そこに格差とか格式とかの「差」は存在しない。マタギ
たちの信仰する神様も山ノ神だ。

湯殿山詣りも大山越で組まれた。このルートを表参道とよんでいた。津川からは諏訪峠、
村上、温海を経て羽黒に到って、御山(月山)をかけて奥宮である湯殿山を参拝する。
帰路は山形、上山、米沢、桧原、大塩、塩川の順路で帰村している。おおむね七月初め
農作業の手を休めて参詣の旅に出たようだ。旅の日数は十数日ほど費やすことになる。
路銀も嵩むので、「講」を組んで年ごとの代理登拝で参詣もしている。



*会津学研究会によると・・・
畑の神様である「地神(ちじんさま)」は地域により呼称が異なる。
「作神(つくりのかみ)」「羽山(麓山)様」、、、、

それが柳田国男がいうように田の神と循環する、ということにはならない地域が多い。
(畠はあっても 田圃がほとんどない地域だからか?)

また会津盆地中央部の会津藩域には、神様(淫祠)が消された空白域がある。
道祖神や、サイノカミ、家屋のひぶせなどが消されている。
会津藩主の保科正之の「新道」との関連と思われる。

中世・近世、、、、人々がどのように暮らしのなかで神仏などを祀ってきたか
講(こう)として営まれ、あるいは石造物を建てまつる

庚申待(こうしんまち)、二十三夜の月待、十九夜。 

巡礼として三十三観音(西国、奥州、仙道、会津、岩城、田村、御蔵入三十三観音) 
飯豊山、湯殿山、妙義山(白雲山)、古峯原、東堂山、田島の牛頭天王(祇園祭)、八溝山








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by tabilogue2 | 2015-11-28 17:10 | 会津・越後 | Comments(0)