2015年 10月 16日
約束の山「昼闇山」 海谷山塊
あれは<青春>と呼ばれる時代の一夜の夢だったのだろうかー。
それにしては長くその〈夢〉を引き辷り続けてきたようだ。
かれこれ28年になろうとするこの山との関わりの背後にあるものに
思いを巡らせていると、高地岳北壁1ルンゼから自然落石の乾いた音がする。
咄嗟に身構えてみたものの、落石はあらぬ方向で炸裂、
幽かに硝煙の匂いを残し静寂に還る。
そういえば初めて海谷を訪れた1965年の冬、
退散する原因となった大雪崩が発生したのもこの高地岳北壁の1ルンゼだった。
それにしてもあの雪崩は凄かった。
1ルンゼを突風のように駆け下った泡(ホウ)雪崩は、
海川本流を渡り、対岸の仙丈ヶ岳南西壁に突き当たって坂巻き狂騰していた。
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振り返ると高地岳北壁が象の顔の相貌を見せて大迫力となってきた。
この岩壁にどうしてもカール・マルクスの名を与えたいと
主張して譲らなかった徳永憲一は、当時学生運動に熱中し、
山にも全学連のヘルメットで現れたのだが、
それが卒業と同時にコロッと寝返り、”米帝”の先端企業IBMに入社して
私たちを唖然とさせたものだ。
”学生時代のハシカ” ”脳嚙りの身勝手な熱” 様々な批判があり、
それも確かに一理はある。それでもなお、確かにある時代に夢に溺れ、
社会主義と変革の想いに自己の存立を確認したいと願う心情はあるのだし、
残念ながら生きるためにそうした夢を削らずに過し得るほど私たちは強くない。
だがそれでいいのだ。
互いに生きていく道筋が違えば、自ずから関りを深める相手も変っていくのが当然。
そうして少しづつ青春の蒙み(クラミ)から脱け出し、
年老いてゆくのが人の定めというものだろう。
岩を攀り損ねて、墜落することよりも社会的に失墜することの方が恐ろしく、耐え難い。
”死ぬ気になれば・・・”と人は言うが、ジワジワと真綿で首を締めつけられ、
社会的に葬り去られるのではないかという不安に較べれば、瞬間の死など気楽なものなのだ。
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幽かにそれと判別できる程度の焼山の噴煙を眺めながら、
そんなことを考えていると、早川谷を渡る風のさざめきに乗って誰かの声がする。
「駄目だよ、まだ・・・・・」 藤平の声だ。
「まだ終わってないだろ」 これは木村の声だ。
木村秀雄、彼は私が約束を破って参加を取り消した駒ヶ岳南西壁の試登中、墜落死した男だ。
木村は冬の海谷の岩壁登攀を提起し、私に強く実行を迫ったのだが、
その最初の試みで遭難してしまった。
昼闇山(ヒルクラヤマ)、それは、海谷のすべての課題が終わったら一緒に登ろうと、
ひと足先に旅発った彼らと約束していた山だった。
大内尚樹 昼闇山(海谷山塊)白山書房より抜粋
注:大内氏は 駒ヶ岳南西壁 冬季単独登攀を成し遂げた。
昼闇山に登って、回想したのがこの「約束の山 昼闇山」である。