山田洋次もの・・・



一度観て もう一度観てみたいと思っていた映画が 早速TV放映された。「東京家族」 自分でもこのブログに読後感というか 映画を観た感想を書いたものだが あらためてそれを読み直して少し文節の不具合を直しながら 昨年、封切りの臨場感を味わい直してみた。

以下、昨年1月21日に書いた感想文を 編集し直してみた。

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 TVの宣伝に煽られつられ映画館へ、封切となったばかりの山田洋次監督「東京家族」をみてきた。それで、その映画のお尻部分から今日のブログが始まるので…、誠に申訳ない。

 込み上げてくる感情で泣き腫らした顔を他人に見られるのはイヤなもので、館内に明かりが灯るようになっても席を立てないでいた。終映の字幕エンドロールが流れるスクリーンに「この映画を小津安二郎監督に捧ぐ・・・」めいた文字がチラリと映された。遅まきながら「東京家族」の出自をこの時に知った。山田監督作品ということだけでシルバー料金の映画館に入ってしまったのでこの映画が生まれた背景や監督の意図など前知識の持ち合わせなど全然なかった。


 じつは 妙な感じがしていて…、演じるタッチが何かに似てるなぁ?と疑問符を周吉役に抱いていた。この映画を見終えるまでずっと、それが何かを思い出せないでいた。 で、この字幕でやっと、あぁ!あれは あの人の演技だったのか、と遅まきながらやっとモヤモヤがとれた。主演で周吉役の橋爪功さんは「東京物語」での笠智衆さんをイメージして演じていたのでは?と思った。いやいや、俳優さんをモノマネの如くに捉えるのはとても失礼なこと、が、72歳という人物設定にしては 過度な半ば硬直した仕草(失礼!)や、首をほんの少し回し顔を手向ける姿や、台詞をぶっきら棒に云うあたりはそれが誰かの演技そっくり!と私に思わせていた。字幕に映し出された「小津安二郎監督に捧ぐ・・・」の段になってやっと「誰か?」の誰がわかったのであるw。


 小津安二郎監督の映画「東京物語」。。。そこでは、淡々とした日常の中に当世風な世情をあらわす人物を登場させる。例えば、東京に暮らす長男や長女でさえも尾道の重篤の母を見舞うのに喪服を用意してから東京を発つ、こんな風に70年前の都会人の当世風、合理性、割り切り感をドライに演じさせている。現代風な感覚や見方で この映画を観れば けっこう面白く受け取れる当時の白黒フィルムだ。

 また70年前の太平洋戦争や2年前の東日本大震災、その時代、その時代の象徴的な大事件にあって、「まとまっているようで、じつは崩れやすい、いつかは離別するもの… それも家族の一面」というメッセージを観るものに残してゆく。それを如何にとらえるかは受け手の問題であるのだが それは当映画で周吉夫婦の東京旅行での妻の急死にまで急展開させる中、家族という安心の中にも崩れやすさのある「繋がりの脆さ」として映しだす。

 監督の作風の違いとでもいうのだろうが、小津映画のもつ淡々さに山田映画の温かみという一味をふわりと加えたことが映画に表れ出る。たとえば… 旧いFIAT500を登場させ、その旧さに愛着を持つ次男の「ほんのり」感をキャスティングさせたり、母と初見の紀子(次男の恋人)とを一晩で意気投合させるあたりに「温かみ」や「未来」とか「明るさ」といった期待感を一条の光として差し込ませる。さらに瀬戸内の島、実家の隣りに住む少女役の投入により島に残る孤老周吉の明日が朧気ながらも「生活の再生」として先行きの展望が映し出される。大きな違いといえば 戦争未亡人という過去を背負う小津映画の紀子(原節子)と、二男との明るい未来を描く現代版山田映画の紀子(蒼井優 )との対比、独居老人を温かく包む島の人たちの登場などもそうであると思うが、小津映画と山田映画との違いは随所に散見できた。


 違いはともかく、2つの映画で共通するのは「都会と田舎」という古典的対比をしながら人の暮らしや生き方、考え方を捉えていることであるが 1953年、昭和28年に戦後の混乱を経て作られた映画と平成24年、東日本大震災を経て作られた現代の映画という関連で、山田監督が明確に加えたのは大震災被災直後故に「希望ある未来が見えるようになること」に思える。二つの映画を通して 未来を見つめる先が どれだけの明るさを持って どれほど遠くまで見通せるのか、その違いがわかってくる。と同時に、それが映画に保たせた「時代性」なんだということも 受け手は気づかされ山田作品の理解に深みが備わっていく。

 70年という時を越え、山田映画「東京家族」に加味されたのは「希望ある未来性」だとすれば、孤独となっても東京の息子たちを頼らず慣れ親しんだ土地に生き続けるという周吉の姿が印象的になる(私自身の老後を準えて共感もする)。またこれを 震災後に再生を誓う被災者の姿に重ねてしまう。さらに再生という点では 亡き妻の時計を周吉が紀子に形見分けする、周吉から家族として繋がりの芽を託される紀子。などなど「家族の再生」ひいては「地域の再生」を意味している。「東京物語」には著しえなかったものを平成という時代になって「東京家族」に加味された。その意味で つくづく映画というものは「時代性」を担わされているものだと思わされる。


 この映画を見て原作に遡ってゆく思考法もありかもしれない。山田洋次監督の現代版東京物語 「東京家族」。ぜひ映画館に出向いてあなたの乾いた心をご自身の涙で潤してみてはどうだろうか。あれから2年などと軽々には言えないけれど 是非とも震災時の想いをこの映画に繋げ、地域の未来までをも見とおしてもらいたいと思う。 つくづく 過度に発達する文明社会は人の暮らしの密な部分、たとえば「繋がる」という人間の文化度をも低下させるものだなぁ と思ってしまう(完)


2度目の感想
それにしても 今あらためて気付いたのだが・・・「日本の茶の間文化」を屈託なく著しだせること、見る方も素直に「ちゃぶ台のある6畳間」に展開される芝居に魅入る などというのは「昭和世代」の独特の感覚なのだろうか? この映画ではそんな昭和な自分自身を観察する良い機会にもなったかな。 もう一つ 山田監督の目には「家族」という視点と もう一つ「地域社会」という大きく広い視点があるんだということも あらためて理解しえた。







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Commented by andanteeno at 2016-12-19 17:41
さすが、素晴らしい映画評論ですね!
tabilogue2さんの文章力には脱帽です ^^;
あと、浅田次郎も泣かせてくれますねぇ。
特に壬生義士伝は、何度観たことでしょうか・・-_-。
Commented by tabilogue2 at 2016-12-20 00:16
> andanteenoさん

文章力云々の前に、、、(´艸`)今年の「家族はつらいよ」をどのように理解するか?ですね。
あんな昭和60年代の団塊世代がいたら 家族はほとほと困るでしょうし・・・、ある意味
我がままですからね オヤジは。。。まぁでも、その気質が基準となって家族をまとめ上げて
ゆくなら それもアリです。「東京家族」の逆視点から観た「家族はつらいよ」・・・
「離婚届」をもとに笑いに埋もれた社会問題(熟年離婚)は 大きいと思われます。

「壬生義士伝」観てませんでした。新撰組の駐屯処、八木邸には数年前伺いました。
芹沢鴨の率いる壬生浪士隊が「新撰組」を朝廷から拝命したいきさつは存じております。
by tabilogue2 | 2016-12-19 12:22 | アラカルト | Trackback | Comments(2)