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「迎合」と「柔軟」

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私はもともと「里山を歩く」という概念を持っていない。というか「山岳部」「山岳会」指向なので 標高3桁の山、高低差700m以下、登りに2時間以内 などを「山だ」と指す感覚がない、もともと持ち合わせていない。体力的に登れるうちは 「山岳指向」でいたい。むしろ そう誓っている。逆に言えば、それができなくなった時、自分の「山という概念」を捨て去ろうとも思っている。その頃から 里山散策を始めたいと思ってもいる。

山岳会では・・・「陽だまり山行」という言葉はもともとない。「冬」にゆるい山域 ゆるい山行 などありえませんでしたから。 最近ですか?年齢層のバラエティ化で中高年の高齢者が入会するようになってから、、、個人山行で用いられるようになった言葉のように見受けます。ハイカーには使える言葉であっても「岳人」たちには不釣り合いな?使えない言葉?だと思っています。これに類似した事柄を以下に書いてみようと思います。 昔はなかった事柄が ネット上では普通に在る? 不思議現象です。

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「真冬に、冬山を登らない って?」
かつて、、、真冬に、冬山を登らない?、冬合宿に参加しない?というのは山岳会、山岳会会員ではありえないこと(でした)。真冬に冬山に行くからこその山岳会であり、会員であると今も思っています。自分の頭では、冬山というものをそんな風に据えております。けして残雪期ではありません。さらに「共同で成し遂げる山」、これが厳しい山行の定義だとも思っています。ついでですが、精神的な「リハビリ山行」というテキトーでいい加減な言葉もありません。退会するか?休会するか?の道が残されているだけです。本来はね・・・。

「ネット社会のB層的登山者」
今はネット社会というのもあってか?多種多様な人間や情報が集まるようになって、山岳会が元来営々と有している体質・・・例えば 伝統とか、本来の姿・あるべき考え方・・・「山岳会とは」「山岳会員とは」などの本来あるべき「原則論」や「理想」「セオリー」が消え、それに代わって「ネット上のリーダーが作った仮説」にすり替わりつつあるのが現状です。その状況は承知しているのですが かといって「迎合」と「柔軟」とを履き違えてはいけないなぁ と、このようにも思うわけです。「定款をもたない経営はない」とでもいうか。(硬いこと言っちゃうと、、、ますます会員が増えない山岳会になっちゃうかもですが 笑)

「10年未満はまだヒヨコ」
伝統的山岳会に入って10年未満はまだヒヨコ。なのに「名声」だけがネット空間で独り歩きだすと実力とのアンバランスに当人は悩むことになります。ネットで有名人になってしまう、おまけに取り巻く周囲が持て囃しちゃう。経験深い人から観れば幼子程度の実力なのに、ネットじゃベテラン扱いされいつのまにか?ネット上では「リーダー」の一角になる方がいますが、ネットの難点「無責任」さもいいところ、それに気づかないと、ね。

現実に「上には上がいる」ということを 取り巻きが「山岳登頂・遡行記録」から学び知ると、当の本人は「謙虚」こそが勇み足をしないコツだと思うようになります。せっかく伝統的な山岳会に入ったんですからもっと先輩から学んで、伝統とか理想とかセオリーとか、山岳会の本質を知ることが重要だと思うんです。それは当座のブログよりも先にあるべきこと、そう思います。

「社会的ブームの受皿を担うか?担わないか?」
登山ブームという「社会的ブームの受皿を担う」、、、仙台でも 中高年を大量に組織化されておられる労山山岳会がありますが、もはや山岳会も内部で二極分化してゆく方向なのでしょうか? 従来の「厳しさ」指向とハイキング主体の「軽登山」指向とに。100名を超えるまでに会員を増やせば 遭難事故も頻発するようになる。となれば、山岳会の内規(規定/規約)の解釈を変えてまでして、昨日まで山と無縁だった「底辺」を受け入れ高める必要があるのか?という問題が一方であって それとも 多種多様な意見を認めつつも 会の原理原則を個人に理解してもらって、ゆくゆく努力して組織に馴染んでいってもらうのか?という「迎合」と「柔軟」とで、根本的なところで考え方が分かれ、論じられるようになってくる。 

「社会的ブームの受皿にはならない」
逆にこんな山岳会が世の中にあってもいいと思うんです。多角・多指向の時代だからこそ、敢えて「迎合せずに高く理想を掲げ、毅然、敢然とした山岳会」があるべきだとも思います。言いかえれば「同人」に限りなく近い山岳会が理想です、そのように個人的には思います。コンサバですが、むしろ古巣であるYMCA山岳会にはそうであって欲しいと思います。YMCA山岳会は今の世に在っては稀有な山岳会だと思うし、「深野稔生」という看板が在るうちは「トラッド指向な山岳会」に含まれる と思っています。 成りは小さくとも特徴や方向性を明確に打ち出した山岳会、味のある人間集団になってほしいと思います。

「二者択一的な結論でいうと」
オルタナティヴな意見や生き方が今後の社会趨勢を逆転させうるとしたなら 今は極小で支持されない「異見」ではあっても、この登山ブームが去った時に忽然とマジョリティを得ることだってありうるわけで・・・とすると、今現在、基本的で原則的な「異見」は むしろ 大衆に迎合させず、筋を曲げず、姿勢を崩さずに、主張しておくべきか・・・と思っています。仮にこの登山ブームが去れば・・・隠れていた本質が見えてくるはず。「人は何故山に登るのか」「どうして冬山なのか」「共同で為し遂げる厳しい季節と山・谷」という山岳会の本来の姿が 原則を求める人たちによって表に引き出され、やがて、、、大衆にも解ってもらえるだろうと思っています。期待したいです。




山岳会会員であること

◆「組織の壁」、一見 邪魔くさい壁ではあるが・・・

じつは この壁が組織を護ってくれているということにお気づきだろうか? ココが山岳会、組織の人間にとって特に重要な問題なのである。楽しいネットは命や組織を護ってくれるのか?と言い換えてもよいほどの問題でもある。

山岳会はある意味「趣味の蛸壺」。覗けば・・・伝統ある会組織であればあるほど基礎をきちんと学びかつ遭対訓練もキッチリやっているのが窺える。彼らは組織原則を護るという不文律な壁を等しく心に持っている。組織原則を護ることは自らの命を護ることと同じだ。会員が少ないと嘆く弱小山岳会であれば、組織原則の壁をガッチリ組んで会活動を絶やさず個人山行を増やし未組織者を堂々と「勧誘する」この原則的活動・行為が肝要だ。

既に分かっていることは、、、ザイルを結べば結ぶほど パーティを組めば組むほど「党派性」への理解は深まること。反対に未組織者にはそれが何故なのか?理解されることは恐らくないだろうということ。突き詰めればそこが山岳会組織と一般登山者との境界線だということ。

「冒険」と「危険」とは隣り合わせだが、夜を徹して歩くことも、自分の限界に挑むことも、冬山も、谷も滝も・・・、「冒険心」を抜きにして語れはしない。それがあるから 僕らは山岳会の門戸を「意を決して叩いた」のだった。山行の経験を積めば積むほど、安全対応へ技術も上がる。もちろん遭難などしたくない!から 春と秋と遭対訓練もするし登攀技術も雪山技術も高め合う。会の事業活動・事業目的にもそのことは謳われているはず。

一般登山者にそれらを理解して!とは言わないまでも、何のために?命のやり取りまでしてリスクを冒し山に入るのか?って問われれば、、、それは貴殿よりも「比較的に冒険心があるから」、 貴殿よりも「比較的に探求心が強いから」、 そして「より高度な自己実現のため」、 まとめて我らは「山岳会という組織の一員だから」としか言いようがない(笑)

「個人では不可能なことも、仲間がいれば可能になる」 組織の力で自己実現を得る。会社であってもどの組織であっても集団のパワーで困難を乗り切り目的を果たすものだ。山岳会とて同じである。

同じ釜の飯を食って寝食を共にし深山幽谷に入らない限り、日帰り・夏道山行の一般登山者にはとうてい理解されないだろう。未知の面白味があるから沢登りに興じるわけだし、難しい滝がクリアできたらそれだけでも楽しいものだ。夏道しか歩かない者に沢登りや藪漕ぎの楽しさがどうして解りえるだろうか。

山岳会という「目的を持った集団」とそうじゃない一般登山者とでは埋まらない溝、彼我の違いは厳然としてある。もしかすると 理解されることは永遠に無いかもしれない。山に求めているものが・・・「厳しい山行」であるのか「お花畑」を夢描くのか この二極はどこまでも二極のまま 交わるものではない。

ただ、少なくとも僕らが一般登山者に言えることは「毎月の会費は伊達に支払ってるわけじゃないんだよ」「組織の大義(事業)、その目的のために僅かな会費を支払って結束し活動しているんだよ」ということぐらいか(笑) 毎月例会に出て会費を払うというのは山岳会員としての義務であり、組織集中・自覚の証である。目的を持たない未組織登山者とは イロハのイからして違うのである。




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by tabilogue2 | 2017-01-25 21:53 | mount | Comments(0)