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羽後岐街道から「千年クロベ」

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この栗駒山の「千年クロベ」は樹齢1000~1500年の推定。このクロベは1本の幹であることがオンリーワンの特徴だ。「全国巨樹巨木林の会」に今まで登録されてきたクロベの巨木は「数本の幹が合わさっている」ものばかりであるが、栗駒の千年クロベは1本で幹周り9.4mという比類なきもの。つまりはナンバーワンなのである。このクロベの発見は1998年の冬で、初計測は2000年5月(YMCA山岳会運営委員長:佐野豊)、初公表はYMCA山岳会(会長:深野稔生)による。当時、新聞紙上には場所やルートを特定されないように発表した。後日、案内看板の設置 普及パンフなどは宮城北部森林管理署、宮城県経済商工観光課、栗原市産業経済部の三者の内、世界谷地を観光資源とする当該受益者=栗原市の責任で設置、作成したものが多い。




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クロベ太郎


古の道、栗駒古道の一つ、湯浜街道(ユバマカイドウ)を歩いてきた。羽後岐古道(ウゴキコドウ)とも言うらしい。気仙沼からの海産物が運ばれ珍味の”ホヤ”が国境いを越えて小安から成瀬川沿いに湯沢十文字に入ったらしくて湯沢方面では”ホヤ街道”とも呼んだようだ。

「羽後岐」の名からして、この街道の何処かで分かれるものと想像する。仮に「文字越え」(モジゴエ)を岩手の「萩荘」(ハギショウ)へと辿ったとすれば単なる想像も現実と符合させうる。つまり空想や妄想ではなくなる。その昔、藤原秀衡に匿われていた義経は藍染で有名な「文字」から「一迫」の一帯まで遠駆けしていたそうだから連絡路はあったようだ。どこかで街道は分岐する。羽後岐の「岐」はどこか…?(”奥州藤原”の話なら旅館くりこま荘の館主菅原さんに尋ねれば消化できないほど伺える)

もう一つ素朴な疑問だが… 道や沢が2つに分かれるのと、3つに分かれるのとでは使用文字が違うと自分は思っている。2つなら二股 二俣 二又であろうし、3つ以上なら ディストリビュート的な「岐」の文字を宛てがうのではないかと思ってもいる。古来「岐」を「さえ」と言い「道」の意である。道祖神のことも「岐(さえ)」の神といっている(久那土神=厄除けの神 来てはいけない処の意がある 転じて 来な処)。さえ=さい=塞ぐ の意。ここでは檜枝岐と同じ「岐」という字を使っているが「道」のこと。檜枝岐なら 群馬の沼田にも抜けられるし 栃木の日光奥鬼怒にも抜けられるし 新潟の栃尾又にも抜けるし ダム湖に沈む以前は大津岐峠から田子倉・只見にも抜けたようだ 木賊・湯の花にも抜けられる。まさにディストリビュート的な役目の宿場なのだ・・・、国語的にはどちらも「マタ」と呼ぶけど こだわれば「違う」はず、、、それ故、「三つに分かれる道」にこだわって推考してみた。「第一義の仮説」である。


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手前に大地森 奥に駒の雪形が鮮やかな栗駒山の御駒山と最高峰大日岳(オオヒルダケ)


話は変わるが、、、街道名というのは…例えば「奥州街道」の場合は”主たる江戸から従たる陸奥へ”と人や物が流れていく… そのように名付けられた。そう考えると、江戸を背にし目指す方を向いて…陸奥に向かえば「奥州街道」となり、江戸から日光へは「日光街道」となり、日光から会津へ向かうと「会津街道」。だけど?、反対に会津から日光へと向かっても「日光街道」と名前が変わる…だから複雑怪奇、ややこしくなる(´艸`)。福島から米沢に向かうのは「出羽街道板谷峠」 国見から七ヶ宿街道を通れば「羽州街道七ヵ宿」とかなり複雑になる。藩政時代と明治維新とで縦軸・横軸が乱れて呼称もわからなくなる。

「羽後岐」の場合は 主たる陸前側から従たる羽後側へ人や物資が流れる という理解で良いのか? だとすればこの「羽後岐」という街道の名は陸前側が羽後側を指して命名したと考えるべきだが、、、そうなると、羽後側に分岐する道があるはずだが?しかも3つ。 柔軟じゃないけど、この仮説が後にドンデン返しを招くこととなる。逆説的なのはショックだw。

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揚石山(あぐろしやま)


揚石山(アグロシヤマ) 昔は上げ下ろし山(上下山)とも書いたそうだ。今日のガイド役、「栗駒の自然を守る会」の副会長、佐藤(定)さんからの聞き覚え。世界谷地から大地森南部近辺と揚石山の間を万坊平(マンボウダイラ)と呼んだ…らしい。佐藤さん曰く、「平泉の隠し砦」と伝わるように僧兵がうじゃうじゃいた の意味だそうだが、近くの秣森は僧兵たちの騎馬を飼う牧場だったそうだ(私はその文献等を拝見していない。確かめてみたい)。大地森南麓と揚石北面との間、木立に2軒「お助け小屋」があったと言われる、大地森、田代沼にも。これは近代史に記述があり「史実」である。


宮城側からの峠越え、一つ目は…なんとさらに、下道と上道の2つに分かれるという資料読みの結果だった。岩ヶ崎から「文字越え」して二迫川(ニハサマガワ)沿いに寒湯番所(ヌルユバンショ)-湯浜-花山峠を越えて秋田側の皆瀬川沿いに「小安街道」へ、別名:下道(下羽路したばみち)明治15,6年ごろに路が開削されている。岩ケ崎から大地森の南にある杉が植えられた「お助け小屋」を通過し-万坊平-小桧一里塚(廃道)-花山峠-「小安街道」へ、別名:上道(上羽路うわばみち)。これは藩政時代からあった道で まさしく本日歩いてきた「古の道」であった。

二つ目の峠越えは一迫川(イチハサマガワ)沿いに花山から寒湯への途中、越戸から上沼、国見峠を越えて鬼首地区に入り、荒雄岳の北を巻くように流れる江合川の支流、仙北沢から国境いを越えて秋ノ宮へ さらに役内、院内へ下った。沢の名前も「仙北沢」なので秋田仙北郡との”道行の沢”(ミチギの沢=峠路に用いた沢)として大崎と仙北の交易に利用された。

三つ目の峠越えは三迫川(サンハサマガワ)に沿って東栗駒山を越え赤川沿いに湯沢十文字へ向かう道。これは「御室の沢駆け」コースではなく、ずうっと耕英地区の下、行者滝辺りから裏沢-東栗駒山の西鞍部を越え、笊森-真湯道と合わさって赤川に下りている。この辺の資料は柴崎先生の著に出ている。 というわけで、、、宮城北部と秋田との物流、商流の道が大きくは3つ、小さくは4つ数えることができた。

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臍下谷地、転じて「世界谷地」となる


もう28年も前のことになるが…、YMCA山岳会では「栗駒山の全流域・踏査」を行ったことがある。その頃、深野さんから以下のように教わっていた。「なぜ 世界谷地などとオーバーな名前を付けたんだろうか?」という会員の素朴な疑問に、彼は既に答えを持っていたようである。もともとこの湿原のことを「西花谷地」といった。 西花は「臍下」に通じ「せいか谷地」(セイカヤチ)という。「湿地=谷地」を指す「一般的表現」を彼は既に文献上で拾っていた。

ただ、地元としては「西花」=「臍下」という呼び名では栗駒観光には活かせない、「格好」が悪い…と云うので「西花・臍下谷地」がいつの頃か(たぶん)戦後、第1次登山ブーム時代の到来とともに「世界谷地」に転化した。なぜ「格好」が悪いのか?といえば、”臍下丹田”などという言葉どおり 臍下とは「ヘソの下」のことで、淫語ではジメッとする「女陰」「ホト」を意味する。きれいな湿原が”女陰”じゃどうにも「格好」が悪い、観光の妨げになる…ということでか?「臍下」が「世界」になったようだ。これには会員一同納得したものだった。

こんな淫靡な話は山ではよくある、例えば二重山稜の地形ゆえに尾根上に湿地を持つ山…例にあげれば、飯豊山奥胎内からの足の松尾根に「船窪」(二重山稜の意味)と呼ばれる「ヒドノ峰」がそれである。南会津の黒谷川沿いにある二重山稜の山といえば”火奴山”(ひどさん・ほどやま)が有名だが、まさに「女陰」の淫語”ホト”がそのまま山名になっている。他に会津志津倉山では「細ヒド」コースがある。或いは七ヶ岳の「程窪沢」とか・・・探せばたくさんある。会津では「ヒド」といったり、福島では「ホド」とよんだりしたが 一般的には「ホト」と読む。新潟にもある。

とまあ「臍下谷地」から「世界谷地」への転化、その成り立ちを、今じゃ珍しい言葉を使って当ブログに書き遺した。インターネットとしては「初公開のネタ」になる。初めて眼にして妙に納得のいった方も居られたろう。このネット時代にブログにしたためておかないと「因を含んだ言葉」が闇から闇へ葬り去られてしまう。50年も歩いた中で、山に関する些事や言説はこのボケた頭にほどよく備蓄されている…が、呆けて取り出すのに少し手間取る(´艸`)。また、「世界谷地」は古くは「八ツ頭原」ともいったそうである。水芭蕉を里芋の葉と見做したのかな? それでも「世界谷地」と称したのには深いわけでもあるのだろう。観光産業の芽生え? これも付記しておく。

仙台YMCA山岳会というのは徹底して「沢遊び」をし、単にフィジカルに登るだけじゃなく山を「総体」としてとらえ、山を「学び」の場にしていたんだなぁ…と、今さらながらに思った次第である。


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小関代表が覗き込んでいるものは・・・??? 古道の道祖神 「マサカリを持った鉞山神」、古道を保守する守護神


それはともかく 宮城側の何処かに荷物の中継・分岐(ディストリビュート)ができる「飛脚便」のような荷の受継ぎ所があったのだろう。となれば…岩ヶ崎か? 大きな集落で、峠越えの人足や牛馬が斡旋されていたと見るのが常套だろう。街道筋の便利が良くなれば良くなるほど…木賃、駄賃も多めに落とされる。その運送業を「背負子」(ショイッコ・強力)と呼んでいた…、背負子は4,5人で団を組んで歩いたという。旅人や商人たちをも案内しながら往き来した。ますます町の潤いは好循環となる。話のついでだが秋田側の中継所は御番所のある小安温泉、各旅籠で秋田の商工品との取引が為されたそうだ。背負子の強力たちは商人のセンスを持っていないと務まらなかったろう。

栗原の「史談会」に尋ねたら私の幼稚な疑問は一度に解け、答えは明解だった。番所の一つは岩ケ崎・沼倉木鉢(キバチ)に在り検断屋敷、もう一つは文字・柿の木に在り、他に花山の寒湯番所もあって羽後岐街道の荷駄を管轄したとある。羽後岐街道の番所は3つ。これが「岐」を考えるヒントだった。答えは…「秋田側から宮城側を覗う」と出てくるのである。羽後岐街道は秋田側から国境いを越えて宮城側に入ると三分岐して径が続いた…と考えれば解りやすい。だから「岐」と付くのだった。これがドンデン返しの大本だった。中でも「岩ヶ崎・沼倉」の街道は繁盛し、太平洋へも延び、沢辺(サワベ)を通って石巻まで…とも。ネットじゃなかなかサーチできなかった。宮城側にあった4つの交易道のうち、羽後岐街道としてはそのうちの栗駒山寄りの3つを指すという結論だ。宮城・大崎から鬼首を通る仙北沢道はこれら羽後岐の「岐」から除かれる(行政区が違うから)。これでスッキリ!した。


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鉞(マサカリ)山神さまでした。背負ってきたんでしょうね、、、この石像


秋田側の峠道に関しては 一つは皆瀬川沿いに田代沼-板井沢-大湯-小安番所-稲庭-川連(カワヅレ)を経て湯沢十文字へ。上流部にある春川、虎毛沢、赤湯又沢などはYMCA山岳会在籍時代にさんざん通わせてもらった。二つ目は栗駒須川の龍泉ヶ原を源頭部とし小仁郷沢-赤川-成瀬川へ、途中の手倉(手倉越え)で胆沢からの仙北街道を併せ増田へと下る。あれほど綺麗な湿原:龍泉ヶ原を上部に戴くが小仁郷沢、大仁郷沢と赤川の合流地点は硫黄を含む灰色の泥が堆積していた。月の表面?みたいに沢の中が一面灰色だった。数十センチも泥濘んで歩き難い地点でもあった。いづれ栗駒を源頭部とする皆瀬川と成瀬川の2つは増田で合流し湯沢十文字へ下る。もう一つは仙北沢から秋ノ宮の峠を超えて役内川沿いに下り、院内、横堀、小野へ。というわけで 逆に日本海側の海道からは松前の昆布や京都の衣類・紅・技巧品、地産の川連漆器、稲庭饂飩などが陸羽の国境を越え宮城側に入る。これが「寒湯街道」(寒湯番所)、「文字越え」(柿の木番所)、「岩ケ崎街道」(沼倉木鉢番所)と分岐するので3つに分かれた「羽後岐」街道となったのである。宮城大崎との交易幹線である役内川-鬼首越えはそれに含まれない。これで「仮説」がやっとスッキリした。

所感・・・
宮城側で3つに分岐するというのは「羽後側で付した」街道名と考えればなお分かり易い。考察に際し、既成概念をもって臨んだので混乱してしまった。てっきり宮城側が秋田側の峠につけた名称とばかり思いこんでしまった。なので、地形図で秋田側の一番通りやすい沢筋を追ってはみたが、成瀬、皆瀬の2つまでは数えられても、3つ目はなかった。一端の沢ヤとして沢筋を追ったがどうしても湯沢十文字への道は三口にならなかったのである。一転、宮城側は一迫川、二迫川、三迫川とで三口になるのである。さらに二迫川は湯浜で寒湯筋、文字筋、岩ケ崎筋と三筋に分けることができる。この分流を地図で理解するのにまる2日もパソコンの前から離れられずにいた。いずれの道も同じように「羽後岐街道」是也というのだから公平感があっていいにはいいけどw ま、百聞は一見にしかずの調査だった。羽後という名称は陸前から見ての言葉だから、てっきり羽後側にこそ三口に分岐する道が続くものとばかり思ってしまった。固定観念が強すぎ「思考狭窄症」に陥ってしまったようだ。


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さてと… 「道」の起源は生活のための仕事道である。標高の上げ下げに無駄のない一筋の山菜・ゼンマイ道だった。それが古くは坂上田村麻呂と地方豪族阿弖流為(アテルイ)との戦いに軍用道として人馬が通り、「手倉越えの仙北街道」(胆沢から皆瀬への道)も同様に「後三年の役」に胆沢の拠点から発せられ雄勝砦の応援に向けた義家軍勢の軍道として利用し踏まれた。時に権力者の道となり、また黄金の道として雄勝の銀山と平泉の砂金とを結んだ道になり、明治になって山師や鉱山夫も通る。金銀鉱山で賑わえば 傾城(遊女)も通い、茶屋で賑わう街道となってゆく。この千年、人が歩き牛馬に荷を背負わせ往来し、宿場ができ、やがて番所が設けられ、庶民の物見遊山の街道にもなったことだろう。だがその道も 明治になって鉄道が敷かれ始めると要筋を終えて草むらに覆われ廃道と化してゆく。 諸行無常の流れにある。

「前九年の役」では源義家の軍勢は安倍貞任軍に大敗を喫し劣勢だった。出羽国からの清原勢が15000の大群を率いて義家に加勢し 栗原上野の屯ヶ岡(たむろがおか)にて待つ義家軍と合流。その清原軍合流後 安倍貞任を討取るまで僅か2ヶ月とされる。その際、秋田からの清原軍が歩いた道は「鬼首道」(仙北沢)とされる。この湯浜街道は「前九年の役」では使用されていない。ちなみに「後三年の役」で清原軍を応援するために義家軍勢が歩いた道は 主に胆沢城から「手倉越え仙北街道」を通って秋田湯沢に入ったとされるので「後三年の役」でも湯浜街道は用いられていない。 七ヶ浜のSさん ご注意あれ。。。

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大地森の裾を南から西へと半円を描くように巻いて横断している


今日我々が辿った古の道はブナやミズナラが隙間なく立つ緑濃い道。それらは栗駒古道といわれ、今に歴史を尋ねる道として語られ歩かれている道である。道は栗駒山の山頂近くを通る道と栗駒山の裾を通る道があり、昨年の秋に、栗駒山の山頂部を通る古道の一つ「笊森」と「真湯」を結ぶ道を歩き、昔人の通った道に思いを馳せた。もしかするとそれらは 義経が弁慶を随い逃げのびた道かもしれぬ。日本海側の海道から奥州藤原の郷に帰還する山道へと何処かで接点を持つ古道だったやも知れない。そして今日、栗駒の裾を縫うようにして通る「湯浜の古道」を我々は訪ね歩いてきた。

「山なのに、どうして浜なんだろう?」…還り道に七ヶ浜の Sさんから「湯浜の謂れ」を尋ねられた、、、帰宅後、湯浜に関しても色々と調べてみた。湯浜温泉・湯主三浦家の系譜からも追いかけた、また地名からも追ってはみたがそれらしい答えは出なかった。栗原市の教育部にも尋ねた。そちこち調べていただいた挙句、答えは私と同様「わからない」であった。湯浜は湯破魔ともとれるし、湯浴みすることを「湯をはむ」ともいうので、湯喰む、湯ばむ…湯ばま という迷解wも考えた(´艸`) ごめんなさい わかりませんでした。

その後、湯浜温泉三浦旅館前を通りかかって、館主と挨拶、伺ったところ「湯浜の由来」については この辺りの川辺が砂浜のようになっていて、そのいたる所から湯が湧き出ていた、、、それから湯浜という地名になったとのことでした。「湯をはむ」ではなかったようです。ちなみに三浦家は三浦半島の出、横須賀近く。三浦姓だとのことでしたが たしかに三浦源氏という氏族は歴史にあるのですが、三浦は平家の出だと仰るので、坂東ハ平氏の三浦氏という風にか?館主本人は「らしいよ」と濁して言っていたがw。ところで、木地師の出であれば平家の揚羽蝶の家紋がつくので、どちらが真実かといえば?おそらく木地師の出なんじゃないだろうか となれば 泥湯温泉の木地師系統、小椋姓とも照合するのだが。。どちらか?は闇の中だ。

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大地沢の渡渉点 ヌルっと滑りやすい


今日の催行は「船形山のブナを守る会」の観察会だったが、ご当地栗駒の「栗駒の自然を守る会」の副会長.佐藤(定)さんのガイドを得て歩いてきた。前回5月は「仙台のブナ林と水・自然を守る会」の佐藤(雄)さんの案内だった。それに今年3月の観察会では「船形山のブナを守る会」の千葉さんの案内だった。こうして自然に親しみ自然保護の理解を訴える団体のネットワークが構築されているようだ。

今日は贅沢にも、キスゲやレンゲツツジ、ワタスゲの花が揺れる世界谷地を巡り、時折 樹木の種類を学び、山菜採りの真似事をし、街道の証しを案内されながら歩いてきた。目的は「千年クロベ」と銘打たれたクロベ(ネズコ)の巨木を観ることである。僕にとっては17年の時を経て再びクロベの森に接する山旅でもある。

だが・・・事前の期待感とは違って結果は意外なものだった。かつて白い雪原にこんもりとした「黒い巨木の群れ」の印象があまりに深く心に残っており、今日見た笹藪の中に立つそれらは 17年「抱き続けていた印象」と大いに違って、いかにも『貧弱』?『困窮』そうに思えた。 

一晩、その理由を考えた。その謎解きで得た理由は・・・17年前、YMCA山岳会の山スキー山行中に雪原の中、吹雪の中にこのクロベの森を発見した。それはそれはとてつもなく大きな巨木たちでモノトーンの世界に赤い樹皮を露わにしていた。写真に撮ればどの雪面からでも、いかなる角度からでも立派なスケールで全容が画角に収まるほどだった。巨木たちとモロに向き合えた。視界には気を散らすモノは雪に覆われ、我々は心から巨木との対話を楽しむことができた。厳冬の雪原に立つ孤高の巨木こそが心の中に「絶対」としてあった。再見してみて藪の中に立つ姿に憐れみを覚えるほど今日のクロベは輝きもなく赤い樹皮もくすんで見えた。かつて、凍てつく白い季節に彼らの前に立てたことは一期一会の出会いだったんじゃなかろうか・・・。「秘匿され続けた神秘性」を失った今、「絶対」であった巨木の印象は180度変わるものである。



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クロベ花子


発見から今年に至るまで 冬になると栗駒耕英地区の「数又養魚場・イワナの館」に寝泊まりし そこを起点として”大地森~内院”に冬の企画を組んで遊んできた。「クロベ太郎」「クロベ花子」と愛称もつけられ見守ってきた巨木たちではあるが その当時の印象が最も彼らの輝かしい姿だと思っている。またそれは、何者にも移し替えられぬ姿で私の内に生きてきた。山岳会活動が充実し盛んであったからこそ…この世に初めて紹介できた という”妙な自負”があるにはあるが、反面 世に紹介し千年の眠りから覚醒させてしまったという自責の念と、その彼らに防護柵の一つも建ててあげられない「無為」という罪をただただ申し訳ないと思ってもいる。専ら「懺悔の17年間」でもある。

むしろ今後どう保存するかが鍵となる。登山ブームが過ぎ去るのを黙って待つか?、縄文杉のように環境省を動かすか?、何らかの手を打つように宮城県北部森林管理署に要請を出すか?。今後、自然を愛する者たちの『意図』になるはず。今日も今日とて 幹周り9.4m 樹皮表面周り9.7mと17年前に計測された既知のデータを無視し巻尺計測を始めていた。私はそのようなパフォーマンスは無用と考えている。むしろ、巨樹の根本に立ち入る行為は自然樹の養生を考えれば ”以ての外”の振る舞い。元来、立ち入りを禁ずべき囲いがあれば為し得ぬことである。。。気づいてもらいたい。。。「自然保護を訴える会」の観察会であれば「心得」を事前に喚起すべきであったのでは?とも思う。反省である。


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樹皮に見る何十何百もの幾筋。。。


今日 ガイド役を買って出られた「栗駒の自然を守る会」の佐藤(定)さんがいいことをおっしゃっていた。要約すれば「山は総体だ」ということであった。私と同じ考え方をお持ちのようで、そんな彼に共感を覚えた。古代と現代を繋ぐ道として千年以上歩かれ続けた道をこうして我々が今日歩けたことに「知的な学び」を感ずるものである。企画をされた「船形山のブナを守る会」に感謝である。千年を生きぬいて来た巨木に触れることで 少しは自分の生きてきた60年の道のりを考える良いきっかけになったかなぁ…と省みる。 
次回、来年の観察会は一泊山行として桑原山塊を提案したい。YMCA山岳会では 旧道「仙北街道」を 大胡桃 小胡桃 栃ヶ森 大薊 桑原山近辺は沢を繋いで歩いているが、縫い集めたような”仙北街道”を秋田側か岩手側かいずれかを繋いで歩いてみたい。沢屋は沢しか見ない…悪弊をもつ故に アプローチしながらブナの森の古道から現代を考えてみたい。生活に必要なものが有りさえすれば「自給自足」は最低でも賄えた昔、どこでどう狂ったのか?この日本、経済と軍事とが先行すれば余計なものに行き当たる。それを安倍語でいえば、「ズブズブの関係」とでもいうんだろうか。政治を担うものは平民の目線に降りて学ばなければいけない。


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2017.06.19


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by tabilogue2 | 2017-06-19 08:01 | 栗駒山 | Trackback | Comments(0)