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斎藤真一画伯の「越後瞽女日記 吹雪」





会津にも 秋になると
この瞽女衆が門付け(かどづけ)に来たもんだ

三味線ペンコペンコ鳴らして・・・、
でも金がねえから
カラムシの原麻を二、三把くれたもんだ

たいがい二人してやってきた たまに3人でやってきた 
目の見える15,6歳の瞽女が手引して案内した

村の定宿に泊まるとなったら
「瞽女んぼーが来たー」と村中の人が見に行ったもんだ
一銭こ、二銭この木戸賃もって 
笊が回ってきたらば放りこんだもんだ 

瞽女の唄は
「ままっ子いじめ」「嫁いびり」の唄が多かった
涙ぐんで聞いたもんだった

新潟県知事が 
瞽女は物乞いだから「新潟県の恥になる」っちゅうこって
「瞽女に十分飯を食わせてやれ!」というこって

そのころから 
瞽女はパタッとこなぐなったもんだ


「会津学 vol.4」 226頁




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by tabilogue2 | 2017-02-26 00:08 | 会津学 | Comments(0)

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「会津学 vol.3 」 発行人:会津学研究会 \1540

三岩岳に登った帰りに「道の駅かねやま」に立ち寄って 「会津学」3,4巻とを買ってきた。
冬に手に取る雑学書として もってこいの分厚さである (´艸`)

ようやっと雪が降って山は大荒れ、今冬一番の寒い日、今日は本を読めとのお告げか?手に取る時間がやって来た。
特集1「雪と暮らす」、特集2「会津に生きる」を一項ずつ 読んでいきたいと思っている。

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日中集落の人々が猟場にしていたというのは 現在の日中ダムの西側にそびえる日中飯森山(1595m)だ。かつて田を持たない日中の人々の生計を支えてきたのは山仕事によってだったという。春のシバ山を始め、炭焼き、山菜採り、カゴを編むためのブドウ蔓などの採取、秋はキノコ採り、木材の伐りだしなど、生活の中心に山があった。そして同時にこの山は飯森山神社を含め九つの社を祀っており(上から 飯森山神社、種播神社、子安神社、鉢伏神社、高倉神社、大倉神社、地蔵神社、薬須神社、小倉神社)かつては成人儀礼の参拝の山として、日中集落の青年団あるいは氏子が毎年参道の刈払いを行い守ってきた。こうしてみると日中飯森山は、日中の人々の生活と信仰を支えてきた大切な場所だったということが伺える。

日中飯森山のクマ狩り 遠藤 戌(まもる)さん

熊が生まれんのは寒中、1月下旬から2月初めの頃だ。4年に一度、必ずオス、メス2頭産む。たまにメスばかりって時もあったようだが、必ずだ。生まれたときにはパンダの赤ちゃんと同じぐらい。それを穴の中でおっぱいで育てるわけ。あんまり小さいのをちょろちょろ外に出すと目立つ。上の方ではクマの子をさらうほどの力を持ってるクマタカってのがいつも待っている。だがらその子を外に出すのは青葉が出て、上からあんまり見えなくなって、狙わんにぐなってからでないと出さないんだって、子を産む「ネス穴」はあんまり険しくないが天敵を防げる場所を選ぶ。そしてその穴のあんまり遠くない所に、水場があるっていうんだな。この日中飯盛山あたりの話な。

朝、暗えうちから待ち合わせ場所に集まって、その中の長老が「ジュンダテ」といって熊狩りの持ち場を決める。例えば大倉にいたどすっと(大倉という場所に居たとすれば)尾根の方に何人行け、「ホンブッパ」(鉄砲を撃つ場所)、「ナカブッパ」(中間の撃つ場所)にベテランが立つように決めていく。たとえば目立つ石があるところは「石ブッパ」とか「一本松のブッパ」とか、立ち場所を指示する。追い上げる勢子にも長老格の「セコゥ長」って配置を決め、「どこどこの沢からお前が出てこい」「どこどこの途中からお前が出てこい」とか、そうして包囲網をつくる。「巻狩り」って言うんだ。

ウサギを追う時は「アッアッ アッアッ」なんて言うんだげんとな、熊は「ホーイ ホイホイ」って高い声で追うんだ。目あて(尾根で見張る人)が見つけると「〇〇にシシ出たぞ-ーーっ」って合図する。シシつうのはクマのごと。次に「〇〇の方 強くがなれ-ーー」って(ガナルというのは大声を出すこと)指示が出る。熊は遠目が利かないようだが耳と鼻はよく利く。タバコの匂いとか絶対駄目な。熊は頭を高く上げて匂いを嗅いで耳を澄ますようなごとをする。テッポぶちなら声出すでないど と言われた。

合図は鉄砲の薬莢を笛にしたり、指笛。熊が包囲網を抜け出したときの合図は、見通しのいい場所で「雪の上を腹ばいで進む」。クマの真似をするんだな。それが見えた人は 何か違う動きだから・・・何かあったぞと気をつけて見るわけだ。クマが行ってしまったと言う時は「這って進んで歩いて戻る」それを何べんか繰り返す。そして「クマがここにいるぞ」っていう時は「這って進んで、また這って戻る」。それを繰り返す。そうして連携して「ブッパ」まで追い上げる。。。

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今では無線があるし携帯だってあるけど、、、昔は手合図 身ぶり合図で伝達していたなど 当時のクマの巻狩りを口述記録された本編特集がまことに面白い。時々 福島弁というか会津弁が混じって心地よかった。サワリを紹介しました。




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by tabilogue2 | 2017-01-15 14:09 | 会津学 | Comments(0)

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この道、大山越にいく長谷川沿いの道




●中西章編 「いろりばた」黒沢越・柴倉峠 に拠れば


旧・耶麻郡の野沢町(現・西会津町)から物見遊山で旅をし大山祇神社をお参りして 
さらに柳津の虚空蔵尊にも詣でるには峠道を二つ越えなければならなかった。
一つは 黒沢越(540m)であり もう一つは柴倉峠(490m)である。
黒沢越を越えたその足で柴倉峠も越えねばならなかった。

話を聞いた野沢の十一塩屋のご主人の記憶によると、仲間内の元気のよい人は、滝を
見た後さらに足を延ばして神社の奥ノ院にも詣でて峠の直下で追いついてきたという。
事実、手元にある一色刷りの昭和四十四年十月三十日発行の五万図には、奥ノ院の手
前から等高線沿いに峠に向かって破線路が付いている。

野沢から黒沢越に南下する道は 西平の鳥追観音に詣り 中野川に沿って大久保の
「大山祇神社」に出る。ここ大久保の遥拝殿に寄ったあと山道に入り「弥作の滝」の先
から左へ折れ黒沢越に向かった。それ以前は「大山祇神社奥ノ院」手前から峠に向かっ
て破線路があったようだが今は(昭和60年9月22日)草に埋もれたか、見つけることが
できなかった。

峠一帯は昼もほの暗いほどに成育したブナの林で、沢詰めから峠にかけては路形もはっ
きりと残っていた。大滝側もコースは小沢を下るが、滑りやすい渕の岩肌には誰が穿っ
たか、程よい感覚の足掛かりが刻まれている。

黒沢越を南に下ると路は尾根裾のトチ巨木の袂で長谷川の上流に出合う。ここから2キ
ロも歩くと五軒が家居する大滝である。さらに流れに沿って下ってゆくと落合に出る。
落合とはその名の通り 長谷川と面倉川が落ちあう所で、橋の袂には今もそのまま時代
劇の舞台装置に使えそうな好ましき旅籠が二軒ある。
かつて中西さん一行は野沢から南下し「黒沢越」を通り長谷川沿いを下って・・・、
もう一つの川、面倉川と落ち合う地にいたった。落合、オチエイと訛る。

写真はそこに建つ橋本旅館の今現在の姿を納めたもの


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野沢-西平-中野-大久保-黒沢越-大滝-落合-黒沢-柴倉-麻生-野老沢-柳津




今回、私は 西方から黒沢経由で落合まで街道筋を車で北上した。塩の道の大きな標柱があるように
会津藩、幕府直轄お蔵入り地代々の歴史路、物資、西入り塩(ニシイリジオ)の交易のあったところ。
人足、宿場としての集落がまとまり、山あいを転々と埋め、街道を成し南北の地を縫い合わせている。

たまたま 以前立寄ったことのある西方集落の一番山手にあるお宅に 本日ふたたび訪ねた。
そこのお父さん(私より随分お若い方だが)に幼かった頃の遊び場や昔話を窺うことが出来た。

それから黒沢集落に移動し道すがらお婆さんと歓談、、、
落合の橋本旅館の旦那さんは だいぶ前に野沢に出た という話をお聞きできた。

当の橋本旅館に現在居住されておられる方もいて、
今日はそこも訪ねてちょうど野良作業から戻ったところで・・・、
ご夫婦に昔の街道筋の賑わいや暮らしの話や 大山祭りの話や 昔の黒沢越の様子も聞けた。

「熊が出っから、黒沢越はもう藪で歩がんにがんない 行くときはよっぽど気いつけねど~」

鉱山掘りで昔は百戸も集落があったといわれているが・・・今じゃ長谷川沿いの奥には5戸のみ。
長谷川沿いに入ると「百戸沼」があったらしい、百戸も鉱夫村がたつのは金山か銀山か黄銅鉱山だろう。



話は変わるが、、、 この黒沢越の西、高揚山の尾根沿い沼越峠のさらに西に
「八人岩」という岩場がある。グリーンタフという緑色をした凝灰岩だが、
名前が「八人岩」というので ヘンだなと思って謂れを調べたら 悲しい事故を知ることになった。


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この川が 長谷川
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この川が 面倉川

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大滝集落への案内標識





次回は 西方集落の「屋号・通称」を街道筋に沿って調べてみたいと思っている。
また手土産品持って訪ねて 村の年寄に話を聞いてゆきたい。会津通いの「行きがけの駄賃」である。


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by tabilogue2 | 2016-06-15 08:47 | 会津学 | Comments(2)

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冬道具 
ブラックダイアモンド社製の用具が多い・・・ピッケル バイル スワミ カラビナ アルミアイゼン
他は エキスパートジャパン製かな? 最も古いのはフランス製ジュラルミンシャフトのピッケルだ
沢登り ロッククライミング 冬山、どの山行にもワイカンのロープマンやペツルのグリグリは重宝する
水は欠かせない マルキル社製の水筒に詰めるウィスキーは日本製が優しい ビールはクラシックラガー




愛読書、南会津郡東部の山(郡山山岳会編)18ページに「風土」という項目がある。俄然、
山岳会の ”教養たるもの斯くあるべし” そう思いハッとした。

南会津地方の民家に見られる典型的な「造り・構造」の話。雪の多い南会津は一般住居で
も二階からも出入りできるように 玄関のような引き戸がまるまる一間の間尺で二階の道
路側に仕付けられている。これは「兜造り」と言われる、鎧兜の兜をすっぽりと被ったよ
うな屋根の造りだ。

その一方「鍵家造り」、いわゆる「南部曲り家」同様の造りが目立つ。主に農家のようだ
が 家がカギのように折れ曲がった「曲り家」造りの家。田島から伊南に抜ける途中、舘
岩の前沢地区には 観光用に「曲り家カフェ」なるものがあったように記憶する。

豪雪地帯では母屋 厩舎 収農舎(すのや)トイレ 風呂場 収穫物の下処理場 保冷庫
などを全て母屋に繋げて取り込み、屋根の雪下ろしの雪を積み上げるスペースを確保して
いる。

雪解け水が浸透する「逆漏れ」(すかもれ)を防ぐため屋根の勾配は急で、落ちる雪の重
みで軒が潰されないように 軒の出っ張りは短くできている。

常居(じょい)と呼ばれる広間には大きな炉が切られ 土間や板間が広くとられ冬の藁打
ち仕事や 簔づくりができる様になっている。長い、そして暗い冬、人も家畜も同じ屋根
の下 食事も給餌も 同じ屋根の下で・・・こういう生活文化が南会津の礎になっていた
んだね。

会津駒ヶ岳も家畜の馬を雪形にみてとっているし、隣の中門岳も「鍵家造り」の呼称から
名づけられている。生活に山が密着している度合いが高いという証拠。「中門造り」とは
鍵屋造りの一形態で 凸の字型に家が作られ、座敷など居住部や囲い通路が突き出した、
真上から見るとT字型に造られた家をいうらしい。そういえば中門岳は 会津駒の主稜線
から北方に突き出た山容であることを思い浮かべることができる。

中門というのは、台所や土間入口から直接吹き込む雪や、屋根から落ちる雪で屋内に持ち
込まれる湿気・水気を避けるための「緩衝の役目」を果たす。冬期間だけの仮設で造られ
る中門もあるようだが、突き出した中門に厩舎 トイレ 風呂場 物置などがあるのも雪
国の必然性から来ているというわけ。 


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とても面白く 読み直しました。
そしてもう一つ 

こうした家々が山間に点在し集落や村を形成し 強い共同生活を営み自給自足の村社会を築
き今日まで営まれてきたことに この書物、郡山山岳会は着目しているんですね。
地方山岳会としての在り方に当時、地域文化研究に一つの指針を示したものと思います。

1980年出版。地方山岳会が最も華やかな時代。ネットなどなく、すべての山情報の発信が
「山岳会」という組織から為されていた時代です。「B層」の付入る隙もありません。





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by tabilogue2 | 2016-02-14 11:40 | 会津学 | Comments(2)

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「会津学 vol.2 」を読んでいたら・・・自分の誤りに気づいたので それを訂正したい。

菅家博昭さんの「記憶の森に歩く」の特集に・・・「大博士」という名称が記された詳細な地図が載ってて、
それは 地元のテッポブチ(鉄砲撃ち)から聞きとった 細かな沢の一本一本まで描かれた地図だった。

私はてっきり、博士山1482mが大博士で、その南方にある1455m峰が小博士だとそう思っていたのだが・・・
地元の猟師たちの詳細な地図によって それが大きな勘違い、誤りだと気づかされた。

詳細な地図によると、、、今までの博士山1482mはそのまま博士山と記されており、
南方の1455m峰は「大博士」もしくは「王博士」と記されていた。。。
背丈は若干低いが 山容は「大博士」のほうが博士山より大きい、ドッシリしてる。

ちなみに この大博士は「おおばかせ」と呼び その後に「山」の一文字は付かない。

「会津名山案内」の大関さんによると・・・王博士になっている。
ここで 過去の記載を訂正したい。 


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by tabilogue2 | 2015-12-20 23:12 | 会津学 | Comments(8)

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志津倉山の雨乞岩




志津倉山の北麓にある源流の集落「間方」では、
南を向いて、つまり志津倉山(シンズァクラやオーベエ)を向いて
男は野良でも、山に入っても小便はしてはいけない、
と教えられ それを守っている。


最近まで「マノヤマ(魔の山)」と呼び、
山頂から麓に降りる場所は数カ所しかないため、
地元に住む人もたいへん気をつかって山に出入りしている。


天狗様が棲んでいるともいう。
そのため山に入ったら
あまり大きな声を出さないようにしている。


またマエツボ(前坪山)にはカシャ猫(化け猫)も棲み、
それが土葬で埋めた死人を喰うので、
間方の葬式は暗くなる夕方に行う。
埋めた墓にも三本の木を曲げて六脚を土に刺し、
弓にしてはねるようにしつらえる。


志津倉山で雨乞いをすると雷雲が出て雨になる。
この山から下りてくる雷雲は必ず雹害をもたらす、
この山塊の「ショウハチハヤシ」の空が黒くなったら気をつけろ、
という伝承を抱えている。
大岐の北西後背山地が「ショウハチハヤシ」(柳沢峠付近が大岐の北西部になる)




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伝承を学び知るのが「*会津学研究」の一端。
レポート:菅家博昭(会津学研究会代表)さんによる





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by tabilogue2 | 2015-12-19 00:10 | 会津学 | Comments(0)

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「会津学 vol.2 」、、、なんだか欠本になっているようですね。
しかも amazon 中古本は頒価の2倍の値段になってました、ゲゲゲッ!です。


出版元から電話があって「仙台近郊で在庫している店」を教えて戴きました。
さっそく出かけて一冊を求め 頒価で分けて戴いたという次第です。

書籍だからといって、この本を置いているお店が「本屋さん」とは限らないようです。
東北の地域研究・文化・民俗学・歴史・地理など東北に関する事柄や民俗文化を
主に追及・発信する団体なら 在庫している場合があるようですよ。









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by tabilogue2 | 2015-12-18 17:00 | 会津学 | Comments(2)

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八文字屋書店に予約していた本が やっと入荷した。。。

「会津学 vol.1 」 発行人:会津学研究会


冬の雑学書として もってこいの課題である。
さっそく 特集「会津に生きる」を一項ずつ 読んでいきたい。



*第一項を読み終えた・・・、
特集「渡部家の歳時記」が抜群の秀逸さだ。

平成9年、東京育ちの花嫁が縁あって会津昭和村に嫁いできた。毎日が驚きの連続だった。
その日常を義父母に見聞きしたそのまんま、地元の言語で語られ、記録されている。
東京人が昭和村の田舎にきて、居づいて暮らすなどは 一般的には考えらんない。

季節の移ろいにゆだねるように 淡々と繰り返される日常の営み、、、
奥会津に暮らす老夫婦の姿をとおし 会津歳時記が語られ、、、
その日常に 嫁いだ嫁もいつしか安寧の暮らしを迎え地元に還流しつつある。

特別なことは何もない 華やかなものからも遠い
そんな普通の暮らしの中に 生きることの喜びも悲しみも
すべて抱きとめる力を感じた。。。

と記されている すばらしい嫁ゴだ。










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by tabilogue2 | 2015-12-16 21:44 | 会津学 | Comments(5)

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この4号表紙の絵が「大山越」の図である。
鉾峠を挟んで会津側宮崎、越後側柴倉とも山ノ神がまつられている。






会津金山町の古文書研究会としての成り立ちがある、、、金山史談会。

森沢堅次さん、高桑信一さんなどが登山者の観点から 飛び入りで補足したり 
会津の歴史書を「皆さんで補い研究し合う」構成がされている
という点でも興味深い 会津金山町の古文書研究書物だ。

私の所では一号から十五号まで所蔵している。
六号あたりまでは先生方が御健在で、面白く解説されており入手しておきたい。
研究会員に対しその道の先生方が古文書の読み方などをご指導なさって
毎年一巻ずつ発行されてきた。とくに「南山御蔵入地」というだけあって
古文書の一つ一つがキチンと残っており 古文書を通して江戸後期に遡るのが面白い。

1862年、明治維新の6年前、文久二年に南山御蔵入地は会津藩領になった。
藩主・松平容保が京都守護職となり、滞在費が96709両であり そのうち
南山は35209両、米12900石の負担供出であった。(古文書)

「御蔵入農民往古依御直支配之所、会津様御預候処甚困窮仕候」
その夫役人足、年貢、割当金に至るまで 藩の経費は農民にのしかかる。

幕末に関していえばほとんどが会津戦争の話。山岳高地陣地での野戦であるが
少数でかつ郷士である会津軍が官軍と戦う様子が古文書でリアルに説かれる。
生活面では 西入り塩の運搬や駄銭、当時の生産物資、峠道と庶民宗教などの
話に興味がそそられる。

この本を知ったのは20数年前、御神楽や前ヶ岳のスラブ壁に登り始めた時だ。
帰り道、「こぶし館」というレストランで買い求めたのが最初。
いまでも販売されていると思う。




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by tabilogue2 | 2015-12-16 21:40 | 会津学 | Comments(0)

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「すかり」  ほとんど石油製品素材で編み込まれる




会津学研究会のレポートから転載します。
とても勉強になるレポートでした。レポート:菅家博昭(会津学研究会代表)さんによる



ヒロロのような山地に自生する草を採取し、軒下等で干し、天井裏に保管し、
縄を綯う、撚る、という作業は主に冬期間に屋内で行われた。 

樹皮の繊維を利用する技術、多年草の草をそのまま利用する技術など、
現在でもその数は少ないながら、人びとは山との関係を保っている。

また記憶の深部に、人びとが若かりし頃、
それはとても貧しかった日々の記憶でもあるが、
山から草を採取したことは容易によみがえる。 

野の獣や鳥、、、ヤマドリや野ウサギが
冬場に沢の雪の消え間で採餌した植物のひとつとして
このヒロロは猟師の記憶にも残っている。

ヒロロは、山に棲む生きものを
雪一面の冬に支えた常緑の植物のひとつでもあった。

 

標高730mの、福島県昭和村大岐の集落の周囲での
ヒロロ(ミヤマカンスゲ)の自生地を観察してみると、

水が流れる沢の付近の木立の中であり、
水が流れるくぼみの岸の土手のような場所にある。

春先には雪解け水では根株が水に一部洗われるような場所だけれども
夏場は冠水することが無いような
沢の床よりも50センチくらい高いような場所で
腐葉土が堆積した上に根を上流から下流に伸展したかたちで群生している。


根は10センチほどあるが
地下茎(根)と地上部の接点の少ししたに白い根が数本出ている。
主根は上流側に向かって(あるいは斜面上方に向かって)伸びている。
雪に押されても雪解け後に起き上がるような
根曲がりの樹木と同じような生え方である。


この観察している区の1メートル四方のヒロロを
2008年6月8日に数えてみると、150株ほどあった。
それが幅六十センチほどの古い道の踏み跡に沿って道幅で群生している。
しかし藪で日照がほとんど無いような場所には株は無い。
地上部が半日陰のような、上空が見えるような隙間の場所の下にはびっしりと密生している。
 

新葉が10センチほど伸び、花茎も立ち先端部の雄小穂と、
そのしたの雌小穂二から三個あった。
茎元の基部は暗赤褐色である。

根は腐葉土の上に横たわったように自生しているが、容易に根ごと引き抜ける。
葉にはトゲなどは無くざらつくこともなく、しなやかである。
昨年伸びたであろう濃緑色の古葉の長さは30から40センチメートルほどである。
中心の新葉は淡緑色で長さは十五センチほど伸びていた。














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by tabilogue2 | 2015-12-07 11:13 | 会津学 | Comments(0)