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若い時分にふとした縁で南会津山の会の会報「いろりばた」をお分けいただきました。
その会報での常連寄稿者は川崎精雄さん 望月達夫さん 中西 章さん。
知人の縁で、森澤賢次さん、笹川慶子さん 成田安弘さん、野口冬人さんなど・・・。

今から60年ほど昔、
当時は登るという行為と論壇というサロン行為との混合が 
当たり前に盛んな時代だったようです。山という一字に「深み」が与えられた時代ですね。
単に山に登るというだけの行為で「山を語る」のはどだい無理な話で、
尽きることのない山への情念が地域研究や「歴史が通った峠」史などの中身を伴って 
会報誌として毎号まとめられてきたわけです。
その陰には 果てなき山への熱情があったわけですが 

冬になり時間に余裕ができたら 
愛読書となっていた「いろりばた」をインデックスとして整理しようと思っています。
いつか誰かがデジタル化しないといけないのでしょうけど 
故人や古老たち会員に敬意を表する意味でも手持ちの会報25巻を
インデックスにでもできればいいのかなぁ などと思っております。

尻に火がつかないとなかなか実行できるものではないのですが、
昔の山行を学ぶ意味でもこの冬から内作しようかと思っております。


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私の書棚:「いろりばた」69号("昭和"の最終号)

かつて「南会津山の会が発行した会報“いろりばた”紀行文を 
デジタル化して遺そうとい私的な試み」である。 
この冬 暇を見つけてはタイピングを継続してきた。
約1ヶ月をかけ手元所有の「いろりばた」を全巻読み終え、
各巻ごとに貴重な紀行文、好みの文体をピックアップし
(但し、茗渓堂などで広範囲に販売された特集号・記念号などは省いた)デジタル化した。
この第69号が昭和年代発行分の最終号となる。

47~69号まで こうしてみると・・・登るという行為を基に
会員の想いや人生観が浮き出て、会津を基盤に様々な方々が集い、登り、
その会津を語っておられることがわかる。
(語れるほどの”山”を愛し持てておられることが今さらながらに羨ましい)

中西章さんの造詣深い短編詞に
「雪国に住む人は、冬になるといつも暖かき南の大地に想いを馳せるという」の行りがある。
どんな土地、どんな辺境にあっても
その土地を受け継いでこられた先住の方々が
住み慣れたその土地を払い新しい土地へ土着することへの困難さ、切なさ等を
「峠路の紀行」を通して理解しえた。
峠を越えることが旧来の生活との離別という
「辛さ」「哀しさ」を隠し持つことも理解できた。

特に今回、望月達夫さんの阿武隈紀行シリーズ
「阿武隈の晩秋」「阿武隈の低い山」「阿武隈の低い山(2)」「阿武隈日記」を
転載するうちに阿武隈との関わり方 
例えば「故郷の山を形容する地元人の敬い」、「風土や暮らし向き」、「会津や阿武隈、福島の人情味」
という点でビシリと伝わってきた。

ましてや3年前、原発事故で立入禁止、故郷を失ったことへの
怒りや口惜しさが尚更に理解できたという副次的心得も備わった。

それは、30年という時を隔てもなお、
「人の暮らしとは本来どうあるべきか?」という問いとなって伝わってくる。
「幸と不幸」「文明が文化を駆逐する」という背反性、
この不条理が見えてくる。


今となって会報「いろりばた」は老会員たちのアーカイヴに留めるのか?
今後如何に伝えるのか? ただただ消滅の一路をたどるのか?
甚だ恐縮ながら朽ちることへの覚悟をせざるを得ないのか?
仮に図書館の書棚の隅に遇されるならされるで
それも一つの終え方かもしれないが、
どの道を採るのかは誰もわからない。
老齢による会活動再生産がなされない現状を鑑みて、
いろりばた愛読者ならばこれらを「過去の遺物」とするのは
もったいないと考えるのも道理。


手軽に 広範囲に「インデックスから本編へ」PDFファイルをネットを通じて
「会員制にて読む」ことができれば
かつての紀行文の遺し方として 一つの良い方法かと思うが、
「権益」にすがるばかりじゃ「将来の形」は見通せない。
それを指し示すことが現存会員たちの任務であろうか。

版権を持つ版元(南会津山の会)や著作権絡みの受益者に損害が及ばぬように、
インデックスを各号記し不遜の備忘録としたい。
今号でこの「いろりばた」の「抜粋」ならびに目次と表題だけの
インデックスタイプ作業を終わりとしたい。
では何分宜しく願う。



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by tabilogue2 | 2017-07-28 01:12 | 会津学 | Trackback | Comments(0)

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本元飯豊山(闇川)と山都の飯豊山(昔噺)



何百年もめえの話だかぁ 判んねぇわし 
地夜ヶ嶽(ちやがたけ)さ、姉と妹 昼寝しに行ったんだど
起きたどぎ、自分の胸さ蓮の花が咲いていだら、
その娘が闇川(くらかわ)の飯豊山へ
咲いてながッたら、山都(やまと)の飯豊山へ行ぐ
と約束して 昼寝したんだど

そうしたら、妹はかしげぐって(ズル賢いという意味) 
途中でそおっと起ぎで 
自分の胸に咲いでいっと思って見だら 
姉の胸さ咲いでだんだど、
なんじょしても闇川の飯豊山さ行ぎっちくて、
我がの胸さぁ蓮の花を持って来て、
また寝だんだど

二人が起ぎだっけが 
妹の胸にたしかに蓮の花があったんだげんちも
動かしたもんで花が萎れっちまって 
姉の胸から取ったのがバレたんだど
それで 嘘っこきは家に置がんにぃ と、
妹は山都の飯豊山さやって
姉が闇川の飯豊山に行ったんだど 

それがら闇川が本元飯豊山になって、
姉と妹が昼寝して どっちか考えた山を思案岳(しあんだけ)と
呼ぶようになったんだど


この話 私ら子供の時分から年寄りに聞かされでいるし 
ここいら辺の人達は皆知っていで、
まるっきり でたらめな話ではねえと思うなぁ



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by tabilogue2 | 2017-07-28 01:09 | 会津学 | Trackback | Comments(0)

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塩と峠


奥会津は名の通り山に囲まれている山国である。
どこへ出るにも 何処から物資を運び込むにも山を越えねばならない。
それは今も昔も変わらない。

江戸時代の初めまで会津地方の「塩」は
小名浜一帯と相馬から仙台にかけての浜から採れた
「東入り塩」が中心だった。
その後、大阪から日本海を通る西廻り船で
播州や尾道で採れた良質な塩が新潟に陸揚げされた。
それが「西入り塩」である。

あまり 多くを耳にしていない話だが、
幕末に京都守護職になった会津の殿様:松平容保が
幕府から領地を加増された際に、
特に「新潟の一部」港地を希望したといわれている。
瀬戸内からの「西入り塩」を
安く安定的に手に入れようとしたわけである。 

文政三年(1820年)、
御蔵入地(おくらいりち):今の会津高田町以西、只見川以南の地方に
7000俵の塩が運ばれたという。
新潟の港より阿賀野川をさかのぼって津川町で陸揚げされ、
津川から野沢や西方へ駄馬で運ばれた。
瀬戸内の塩は十四貫入り(52.5キロ)の荷姿だったので、
津川での陸揚げの際に会津坂下(あいづばんげ)の叺(かます)と縄で 
米同様に一俵60キロに荷造りを仕直して運んだそうだ。

奥会津に入る「西入り塩」は
1 西方街道 新潟-津川-野沢-西方-御蔵入地の主として金山谷
2 八十里越 新潟-津川-八十里越-奥会津-伊北(いほう)
3 大山越え 新潟-津川-柴倉-柴倉峠-宮崎(大山越)
4 地元岩塩 塩沢でとれる地塩
だいたい以上のルートで 御蔵入地に用立てた。

大塩組では年に390俵が要り用で
津川廻りの塩と八十里越の塩が半々くらいだったとされる。
津川廻りの塩は八十里越の塩より金一分につき一升分ほど安かった。
野継ぎ荷駄賃が少なく済んだからだろう。
津川と西方には「塩囲い蔵」が置かれ、
西方には年間で6000俵から12000俵が入荷したそうだ。
蔵のおかげで潤った村だったという。

嘉永元年(1848年)の記録によると
大山越は1575駄、(ちなみに 野沢から西方へは1625駄) 
峠を越えるということはどれほどの苦労があったのだろうか。
宮崎村より柴倉まで三里、津川まで五里、
この三里の大山越を牛馬にて運べたらどんなに楽だったことだろうか。

*「大山越」おおやまごえ・・・
金山町宮崎より只見川を舟で渡り(現在は上田ダムを渡る)、
関根より北ノ子沢(北の湖沢)を越えて、
急峻な道を登り国土山を尾根伝いに行くと、
新潟県境に大山祇神社の石の祠が立っている。

そこから県境の稜線を登るとほどなく沼越峠(鉾峠)となる。
標高830m、ここまで関根から一里半6kmの道程である。
それより再び急峻な坂道を下ると柴倉川の支流・大川前沢につく。
さらに二つの小さな峠を越えると 最初の村落である柴倉に着く。
ここは大倉峠からの径もあわさる。

この柴倉までが峠より一里半の道程である 
現在は4キロほど行くと林道となっている。
この三里の道を 大山越(おおやまごえ)とよんでいる。
現在は東北電力の送電線:新潟幹線と鹿瀬線が通っているので 
道は狭いながらも良く刈り払われている。

江戸時代に何度も 大石、大塩、野尻、黒谷、古町、和泉田、熨斗戸(のしど)組の
農民は連合して嘆願書を役所に出してはいたが聞き入れられなかった。
野沢や西方の街道筋の問屋が裏で役人とグルになって反対したと言われている。
同じ金山谷でも水運に頼った滝谷、大谷組の名主は
大反対に廻ったと言われている。

ちなみに塩は十貫目俵を半分(20kg)にして大山越をしたとされる。
また 一駄は・・・牛馬の背中に「俵を2つ」着けることをいう。



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by tabilogue2 | 2017-07-27 06:00 | 会津学 | Trackback | Comments(0)

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しばらく更新すねえでいだったもんだがら~昔の記事を前にもってきてみだぁ
ちょっくら 読んでみでくんち~♪  

次の登山は東吾妻なんだげんと 鎌沼の雪 解けでっといいな~♪
東吾妻から鎌沼の写真とっかな~ て思ってんだげんちょ
どんな あんべえだべがぁ?

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*会津学研究会」とは? たとえば・・・こんなところ。。。



奥会津・昭和村で 節約することを「カボイカタ」という。
現代の言葉に言い宛がえれば、”かばう”「庇う」に該当する。

集落の周囲の山(コナラ林)を伐り、薪を燃やし、湯を沸かす・・・
風呂のことだが、新しい水を張った風呂は「あらゆ(新湯)」といい、
翌日にまたその水を汲み変えずに湧かせば「たてかえし」。
三日目に水を入れ替えると「二晩でたてかえす」という。

新湯は 熱量を必要とすることから薪の使用量が多くなる。
「たてかえし」は新湯より薪の使用量も少なく、また使用する水も量が少なくなる。 
我が家だけで風呂をたてずに、村の家では数日おきに風呂をたてることとし、
そのかわりに 隣家に「もらい湯」に行くことも多かった。
そうして集落全体で使う薪を節約した。
これを「木をかぼう」といった。(木をかばう。薪が減らないようにする) 

県北の福島でも同じ。
福島では「たでげえし」と言っていた。
あら湯は「シンキ湯」とそのまんま呼んでいた。
家と分家の関係筋では本家に風呂を貰いに行った。

木をかばう 米をかばう… とは、
誰の立場で 何を 大切にしているのか?というのがわかってくる。


米の減りを少なくするため、トチの実をアクだしして混ぜる。
それを「コメかぼい」という。
ダイコンの葉を乾燥させて、コメに混ぜる「カテメシ」もよく食べられた。
主食である穀物、とくに米を節約する。
秋に収穫した米など穀類・野菜を節約するために、男衆は冬期間に地域外に出て暮らす(出稼ぎ)

そのことで自家の穀類等は減りが少なくなる。
こうして自家の「米を節約する」のである。これが「出稼ぎ」の主目的であった。
「雪が降ったから コメカボイに行ってくっかあ、、、、」と語られていた。 

戦前までの出稼ぎの目的は自家の「食料の節約」であり、
「得られる労働報酬よりも 冬期間に他地域で寄食することに主たる目的があった」。
それは「会津の茅手」と呼ばれた茅葺き職人としての出稼ぎでもあったろうし、
漆器商人としてでも、あるいはホイド(物乞い)として
無雪地帯を冬のみ、物乞いして歩ということでもあった。
そして 雪の解ける春先に集落に帰るのである。
南会津郡はまわりが山ばっかりで 田畑の耕作面積が限られ 
なかでも 水耕田となる土地はごく限られた地域だけ 他は自給する野菜畑だ。


*会津学研究会」とは こんな伝承・記録を今の世に遺している集まり

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ここからは 私、もときち本人の小さい頃の話(´艸`)

福島・伏拝(ふしょおがみ)の母の実家では・・・暮れにホイドが家々を回ってくると、
必ず裏木戸に回るように声をかけて 
婆ちゃんが黒札(拾円紙幣)と米、豆などを
手拭いを縫い合わせたけの「手拭い袋」にザーッと一生升分けてやっていた。

福島・佐倉の実家では・・・裏磐梯・木地小屋辺りの人が
座敷箒や笊、桶、竹籠などを天秤棒に下げ各家を回って売りにくる。
お袋が庭に出て品定めして、箒は2本、笊や桶は2個つ、
まとめて買って、さらに 米を分け与えていたのを覚えている。

その人たちは 日ノ倉橋という荒川にかかる橋の下で、
ゴザ掛けして仮小屋をつくり煮炊きし寝泊まして 日中は曲物、木地椀を売り歩いていた。
その仮小屋には子供もいたが、学校には通っていなかった。
日たって橋の下に行くと、橋の下のゴザ掛け小屋はなく、
供も、大人も消えていた。昭和35年ごろの話。
小学4、5年生の頃だったな?少年時代。

サンダラボッチ」とかって一種の「不思議」な世界観をもった人たちが暮らす
そんな「文化圏」みたいなイメージがあって、
その人たちは「流離の人」というイメージもあった。
実在するとかしないとかではなく 子供心に湧いた「イメージ」なのだが、、
そのイメージと木地小屋の人たちとをこかで結びつけて見ていたよな気がする。
思えばそれが「差別意識」だったんだろう。
大人が持てば子供の心にも どことなく それがうつる。

それと「牛買いの博労」たちが来ると「女子供がさらわれる!」という噂が流された。
牛を買い集めて県北から県南、宇都宮の方へ牛買いたちが渡り歩くのを
子供心に怖ろしげに「夢想」したこともったかな? 実際に見たわけでもないのだが。

「人さらいが来て サーカスに売られるぞ!」
遅くまで遊んで家に帰らなかった子らをそうやってたちはたしなめたんだなぁ 
って、大人になってフンフンと分かってきたもんだ。

木地小屋部落も、牛買いも、サーカスも 「差別用語」だと知ったのは
「橋のない川」いう映画を見てから のことだった。

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口暮(くちぐらし) 稼ぎのために他国に出て暮らすこと。
「鋤取(すきとり)=働き手の長男」は口暮に出て、、、帰村しないものも多い、、、
つまり食糧が無くなり、生きるために冬期間に家を空ける。
食べ物を得るための行為であるから 物乞い(乞食 ホイド)も含まれると思われる。

伊南伊北(いないほう)地区、現在の南会津郡伊南川から黒谷までの流域では、
「若者どもは 関東へ口竈(くちかまど)にまかり出た」とあり、
冬に「口減らしのために出稼ぎに行く」とのことを言っていた。

「クツギ」  
富山県五箇山の話。明治までは、一人前の若者は「クツギ」に出た。
家に食べるものがなかったので、冬はどこへでも行って 働いて 食べさせて貰う。
クツギに行くと、盆にはたいてい夏着と五尺五寸の白木綿が貰えた。
お盆に家に帰ってきて、この新しい夏着を着るのが何よりも楽しみであった。

・・・とまあ、「奥会津の暮らし向き」がどんなに大変であったかを知る、
「語り伝えられる資料」である。
これらの「学び」をせずに会津は語れないし、
現代生活がいかに飽食をもとに日々暮らしが営まれているのか
知るきっかけにもなる。

伝承を学び知るのが「*会津学研究」の一端と。
当面は研究会の刊行本を読み漁るだけだが。

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以下は「*会津学研究会」の「会津学」による


トチモチ(栃餅)は、「コメかぼい」どいう。
昭和のはじめのころまで、秋上げは三斗五升で一俵。六から七人家内で一冬喰った。
大正期までは耕地整理をはじめ、コメがとれはじめた。大正の十二・十三年ころ開田した。
湯ノ花で田ができたのは百年たらずと言われている。

塩ノ原と熨斗戸は田どころだ。 
うちのジサマはよく「コメは塩ノ原から持ってくっからいい」といっていた。
トチはトチガユ。灰汁に入れ煮たものを、「米入れ粥」にして喰った。

トチモチは、ヤマノクチ(入山解禁*訂正です 日だけで、一から二俵も拾った。
留山(トメヤマ=入山禁止)になっていて、お彼岸のお帰りの日がヤマノクチで、その日から拾える。
トチとカヤノミがそうだった。 
(ゼンマイ わらび きのこ 茅 雑木など 大字単位の地域ごとに入会権を仕切っていた) 


昔から温泉がある。

湯の利用はトチノミのアク(灰汁)だしで湯に浸けた。流水のより早く灰汁がぬける。

共同浴場は三十四人の共有だ。利用している人で掃除している。

正式に集落に加入していない人は除く。一年のカカリ(経費)を払わない人は酒を買う。


イシクラにトチクボがある。

タカモリにもトチがいっぱいある。粉をいって、「トチッケイ」をよく食べた。

ツッツメ(つっつめ)という燃えない丸太、太い丸太を燃やして、アク(木灰)をとった。

アクがたんにぇくなっから、アク抜きに使ったアクを、また、ユルイ(いろり)に入れ、乾かして使った。

トチは何俵も拾ってた。

(1986年2月16日、金山町上野沢 若林武喜さんから聞いた話)


カブの食べ方は、カブ漬け、煮ても食べた。ご飯を少し入れカブ雑炊。

そばがきが中心。煮たカブを温めてそばを入れて練りつぶす。

カブの菜は、干し葉にしてカテメシにするし、おつゆのミとした。

ぜいたくな漬け物として身欠きニシンとカブ漬け。

身欠きニシンは三センチくらいに切って、カブと一緒に入れた。

葉っぱと茎を少しづつつけて、丸ごとつけて八十八夜の雪溶けたあとに食べるものだった。


ダイコンは丸漬けが長持ちした。

茎葉を少し付ける。丸漬けダイコンを千切りにして、納豆や豆腐でよごして食べるととてもうまい。

切り漬けダイコン、古くなって酸っぱくなったダイコン漬けを煮てカラシを入れて食べる

アザキダイコン(辛味大根、 ネズミ大根)。野生のダイコン。

そのタネをこいてきて、畑にまいた。花は六月に紫のが咲いてきれいだ。

荒らしてしまうと出ないが、耕すとまだでる。

ソバに負けない。塔がたっても食べれる。とってすぐ水につける。空気にあたると硬くなる。

からい、硬いので福神漬けの材料にはよい。

アザキダイコンは、外皮が固くて百年も腐んね。弘法様のお授けだ、なんていう。

食糧難のころ(戦中・戦後)、カテにしてよく喰った。

タネになる前に、おひたしにして喰ってもよい。


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この記事は 2015/12/03 ブログにUPした









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by tabilogue2 | 2017-04-21 10:14 | 会津学 | Trackback | Comments(0)

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斎藤真一画伯の「越後瞽女日記 吹雪」





会津にも 秋になると
この瞽女衆が門付け(かどづけ)に来たもんだ

三味線ペンコペンコ鳴らして・・・、
でも金がねえから
カラムシの原麻を二、三把くれたもんだ

たいがい二人してやってきた たまに3人でやってきた 
目の見える15,6歳の瞽女が手引して案内した

村の定宿に泊まるとなったら
「瞽女んぼーが来たー」と村中の人が見に行ったもんだ
一銭こ、二銭この木戸賃もって 
笊が回ってきたらば放りこんだもんだ 

瞽女の唄は
「ままっ子いじめ」「嫁いびり」の唄が多かった
涙ぐんで聞いたもんだった

新潟県知事が 
瞽女は物乞いだから「新潟県の恥になる」っちゅうこって
「瞽女に十分飯を食わせてやれ!」というこって

そのころから 
瞽女はパタッとこなぐなったもんだ


「会津学 vol.4」 226頁




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by tabilogue2 | 2017-02-26 00:08 | 会津学 | Trackback | Comments(0)

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「会津学 vol.3 」 発行人:会津学研究会 \1540

三岩岳に登った帰りに「道の駅かねやま」に立ち寄って 「会津学」3,4巻とを買ってきた。
冬に手に取る雑学書として もってこいの分厚さである (´艸`)

ようやっと雪が降って山は大荒れ、今冬一番の寒い日、今日は本を読めとのお告げか?手に取る時間がやって来た。
特集1「雪と暮らす」、特集2「会津に生きる」を一項ずつ 読んでいきたいと思っている。

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日中集落の人々が猟場にしていたというのは 現在の日中ダムの西側にそびえる日中飯森山(1595m)だ。かつて田を持たない日中の人々の生計を支えてきたのは山仕事によってだったという。春のシバ山を始め、炭焼き、山菜採り、カゴを編むためのブドウ蔓などの採取、秋はキノコ採り、木材の伐りだしなど、生活の中心に山があった。そして同時にこの山は飯森山神社を含め九つの社を祀っており(上から 飯森山神社、種播神社、子安神社、鉢伏神社、高倉神社、大倉神社、地蔵神社、薬須神社、小倉神社)かつては成人儀礼の参拝の山として、日中集落の青年団あるいは氏子が毎年参道の刈払いを行い守ってきた。こうしてみると日中飯森山は、日中の人々の生活と信仰を支えてきた大切な場所だったということが伺える。

日中飯森山のクマ狩り 遠藤 戌(まもる)さん

熊が生まれんのは寒中、1月下旬から2月初めの頃だ。4年に一度、必ずオス、メス2頭産む。たまにメスばかりって時もあったようだが、必ずだ。生まれたときにはパンダの赤ちゃんと同じぐらい。それを穴の中でおっぱいで育てるわけ。あんまり小さいのをちょろちょろ外に出すと目立つ。上の方ではクマの子をさらうほどの力を持ってるクマタカってのがいつも待っている。だがらその子を外に出すのは青葉が出て、上からあんまり見えなくなって、狙わんにぐなってからでないと出さないんだって、子を産む「ネス穴」はあんまり険しくないが天敵を防げる場所を選ぶ。そしてその穴のあんまり遠くない所に、水場があるっていうんだな。この日中飯盛山あたりの話な。

朝、暗えうちから待ち合わせ場所に集まって、その中の長老が「ジュンダテ」といって熊狩りの持ち場を決める。例えば大倉にいたどすっと(大倉という場所に居たとすれば)尾根の方に何人行け、「ホンブッパ」(鉄砲を撃つ場所)、「ナカブッパ」(中間の撃つ場所)にベテランが立つように決めていく。たとえば目立つ石があるところは「石ブッパ」とか「一本松のブッパ」とか、立ち場所を指示する。追い上げる勢子にも長老格の「セコゥ長」って配置を決め、「どこどこの沢からお前が出てこい」「どこどこの途中からお前が出てこい」とか、そうして包囲網をつくる。「巻狩り」って言うんだ。

ウサギを追う時は「アッアッ アッアッ」なんて言うんだげんとな、熊は「ホーイ ホイホイ」って高い声で追うんだ。目あて(尾根で見張る人)が見つけると「〇〇にシシ出たぞ-ーーっ」って合図する。シシつうのはクマのごと。次に「〇〇の方 強くがなれ-ーー」って(ガナルというのは大声を出すこと)指示が出る。熊は遠目が利かないようだが耳と鼻はよく利く。タバコの匂いとか絶対駄目な。熊は頭を高く上げて匂いを嗅いで耳を澄ますようなごとをする。テッポぶちなら声出すでないど と言われた。

合図は鉄砲の薬莢を笛にしたり、指笛。熊が包囲網を抜け出したときの合図は、見通しのいい場所で「雪の上を腹ばいで進む」。クマの真似をするんだな。それが見えた人は 何か違う動きだから・・・何かあったぞと気をつけて見るわけだ。クマが行ってしまったと言う時は「這って進んで歩いて戻る」それを何べんか繰り返す。そして「クマがここにいるぞ」っていう時は「這って進んで、また這って戻る」。それを繰り返す。そうして連携して「ブッパ」まで追い上げる。。。

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今では無線があるし携帯だってあるけど、、、昔は手合図 身ぶり合図で伝達していたなど 当時のクマの巻狩りを口述記録された本編特集がまことに面白い。時々 福島弁というか会津弁が混じって心地よかった。サワリを紹介しました。




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by tabilogue2 | 2017-01-15 14:09 | 会津学 | Trackback | Comments(0)

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この道、大山越にいく長谷川沿いの道




●中西章編 「いろりばた」黒沢越・柴倉峠 に拠れば


旧・耶麻郡の野沢町(現・西会津町)から物見遊山で旅をし大山祇神社をお参りして 
さらに柳津の虚空蔵尊にも詣でるには峠道を二つ越えなければならなかった。
一つは 黒沢越(540m)であり もう一つは柴倉峠(490m)である。
黒沢越を越えたその足で柴倉峠も越えねばならなかった。

話を聞いた野沢の十一塩屋のご主人の記憶によると、仲間内の元気のよい人は、滝を
見た後さらに足を延ばして神社の奥ノ院にも詣でて峠の直下で追いついてきたという。
事実、手元にある一色刷りの昭和四十四年十月三十日発行の五万図には、奥ノ院の手
前から等高線沿いに峠に向かって破線路が付いている。

野沢から黒沢越に南下する道は 西平の鳥追観音に詣り 中野川に沿って大久保の
「大山祇神社」に出る。ここ大久保の遥拝殿に寄ったあと山道に入り「弥作の滝」の先
から左へ折れ黒沢越に向かった。それ以前は「大山祇神社奥ノ院」手前から峠に向かっ
て破線路があったようだが今は(昭和60年9月22日)草に埋もれたか、見つけることが
できなかった。

峠一帯は昼もほの暗いほどに成育したブナの林で、沢詰めから峠にかけては路形もはっ
きりと残っていた。大滝側もコースは小沢を下るが、滑りやすい渕の岩肌には誰が穿っ
たか、程よい感覚の足掛かりが刻まれている。

黒沢越を南に下ると路は尾根裾のトチ巨木の袂で長谷川の上流に出合う。ここから2キ
ロも歩くと五軒が家居する大滝である。さらに流れに沿って下ってゆくと落合に出る。
落合とはその名の通り 長谷川と面倉川が落ちあう所で、橋の袂には今もそのまま時代
劇の舞台装置に使えそうな好ましき旅籠が二軒ある。
かつて中西さん一行は野沢から南下し「黒沢越」を通り長谷川沿いを下って・・・、
もう一つの川、面倉川と落ち合う地にいたった。落合、オチエイと訛る。

写真はそこに建つ橋本旅館の今現在の姿を納めたもの


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野沢-西平-中野-大久保-黒沢越-大滝-落合-黒沢-柴倉-麻生-野老沢-柳津




今回、私は 西方から黒沢経由で落合まで街道筋を車で北上した。塩の道の大きな標柱があるように
会津藩、幕府直轄お蔵入り地代々の歴史路、物資、西入り塩(ニシイリジオ)の交易のあったところ。
人足、宿場としての集落がまとまり、山あいを転々と埋め、街道を成し南北の地を縫い合わせている。

たまたま 以前立寄ったことのある西方集落の一番山手にあるお宅に 本日ふたたび訪ねた。
そこのお父さん(私より随分お若い方だが)に幼かった頃の遊び場や昔話を窺うことが出来た。

それから黒沢集落に移動し道すがらお婆さんと歓談、、、
落合の橋本旅館の旦那さんは だいぶ前に野沢に出た という話をお聞きできた。

当の橋本旅館に現在居住されておられる方もいて、
今日はそこも訪ねてちょうど野良作業から戻ったところで・・・、
ご夫婦に昔の街道筋の賑わいや暮らしの話や 大山祭りの話や 昔の黒沢越の様子も聞けた。

「熊が出っから、黒沢越はもう藪で歩がんにがんない 行くときはよっぽど気いつけねど~」

鉱山掘りで昔は百戸も集落があったといわれているが・・・今じゃ長谷川沿いの奥には5戸のみ。
長谷川沿いに入ると「百戸沼」があったらしい、百戸も鉱夫村がたつのは金山か銀山か黄銅鉱山だろう。



話は変わるが、、、 この黒沢越の西、高揚山の尾根沿い沼越峠のさらに西に
「八人岩」という岩場がある。グリーンタフという緑色をした凝灰岩だが、
名前が「八人岩」というので ヘンだなと思って謂れを調べたら 悲しい事故を知ることになった。


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この川が 長谷川
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この川が 面倉川

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大滝集落への案内標識





次回は 西方集落の「屋号・通称」を街道筋に沿って調べてみたいと思っている。
また手土産品持って訪ねて 村の年寄に話を聞いてゆきたい。会津通いの「行きがけの駄賃」である。


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by tabilogue2 | 2016-06-15 08:47 | 会津学 | Trackback | Comments(2)


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愛読書、南会津郡東部の山(郡山山岳会編)18ページに「風土」という項目がある。
俄然、山岳会の ”教養たるもの斯くあるべし” そう思いハッとした。

南会津地方の民家に見られる典型的な「造り・構造」の話。
雪の多い南会津は一般住居でも二階からも出入りできるように 
玄関のような引き戸がまるまる一間の間尺で二階の道路側に仕付けられている。
これは「兜造り」と言われる、鎧兜の兜をすっぽりと被ったような屋根の造りだ。

その一方「鍵家造り」、いわゆる「南部曲り家」同様の造りが目立つ。
主に農家のようだが 家がカギのように折れ曲がった「曲り家」造りの家。
田島から伊南に抜ける途中、舘岩の前沢地区には 
観光用に「曲り家カフェ」なるものがあったように記憶する。

豪雪地帯では母屋 厩舎 収農舎(すのや)トイレ 風呂場 収穫物の下処理場 保冷庫などを
全て母屋に繋げて取り込み、屋根の雪下ろしの雪を積み上げるスペースを確保している。

雪解け水が浸透する「逆漏れ」(すかもれ)を防ぐため屋根の勾配は急で、
落ちる雪の重みで軒が潰されないように 軒の出っ張りは短くできている。

常居(じょい)と呼ばれる広間には大きな炉が切られ 
土間や板間が広くとられ冬の藁打ち仕事や 簔づくりができる様になっている。
長い、そして暗い冬、人も家畜も同じ屋根の下 食事も給餌も 同じ屋根の下で・・・
こういう生活文化が南会津の礎になっていたんだね。

会津駒ヶ岳も家畜の馬を雪形にみてとっているし、隣の中門岳も「鍵家造り」の呼称から名づけられている。
生活に山が密着している度合いが高いという証拠。
「中門造り」とは鍵屋造りの一形態で 凸の字型に家が作られ、
座敷など居住部や囲い通路が突き出した、真上から見るとT字型に造られた家をいうらしい。
そういえば 中門岳は 
会津駒の主稜線から北方に突き出た山容であることを思い浮かべることができる。

中門というのは、台所や土間入口から直接吹き込む雪や、屋根から落ちる雪で
屋内に持ち込まれる湿気・水気を避けるための「緩衝の役目」を果たす。
冬期間だけの仮設で造られる中門もあるようだが、
突き出した中門に厩舎 トイレ 風呂場 物置などがあるのも雪国の必然性から来ている。 


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とても面白く 読み直しました。
そしてもう一つ 

こうした家々が山間に点在し集落や村を形成し 強い共同生活を営み自給自足の村社会を築き
今日まで営まれてきたことに この書物、郡山山岳会は着目しているんですね。
地方山岳会としての在り方に当時、地域文化研究に一つの指針を示したものと思います。

1980年出版。地方山岳会が最も華やかな時代。ネットなどなく、すべての山情報の発信が
「山岳会」という組織から為されていた時代です。「B層」の付入る隙もありません。





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冬道具 
ブラックダイアモンド社製の用具が多い・・・ピッケル バイル スワミ カラビナ アルミアイゼン
他は エキスパートジャパン製かな? 最も古いのはフランス製ジュラルミンシャフトのピッケルだ
沢登り ロッククライミング 冬山、どの山行にもワイカンのロープマンやペツルのグリグリは重宝する
水は欠かせない マルキル社製の水筒に詰めるウィスキーは日本製が優しい ビールはクラシックラガー





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by tabilogue2 | 2016-02-14 11:40 | 会津学 | Trackback | Comments(2)

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「会津学 vol.2 」を読んでいたら・・・自分の誤りに気づいたので それを訂正したい。

菅家博昭さんの「記憶の森に歩く」の特集に・・・「大博士」という名称が記された詳細な地図が載ってて、
それは 地元のテッポブチ(鉄砲撃ち)から聞きとった 細かな沢の一本一本まで描かれた地図だった。

私はてっきり、博士山1482mが大博士で、その南方にある1455m峰が小博士だとそう思っていたのだが・・・
地元の猟師たちの詳細な地図によって それが大きな勘違い、誤りだと気づかされた。

詳細な地図によると、、、今までの博士山1482mはそのまま博士山と記されており、
南方の1455m峰は「大博士」もしくは「王博士」と記されていた。。。
背丈は若干低いが 山容は「大博士」のほうが博士山より大きい、ドッシリしてる。

ちなみに この大博士は「おおばかせ」と呼び その後に「山」の一文字は付かない。

「会津名山案内」の大関さんによると・・・王博士になっている。
ここで 過去の記載を訂正したい。 


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by tabilogue2 | 2015-12-20 23:12 | 会津学 | Trackback | Comments(8)

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志津倉山の雨乞岩




志津倉山の北麓にある源流の集落「間方」では、
南を向いて、つまり志津倉山を向いて(シンズァクラやオーベエを向いて)
男は野良でも、山に入っても 小便はしてはいけない、と教えられ それを守っている。


最近まで「マノヤマ(魔の山)」と呼び、
山頂から麓に降りる場所は数カ所しかないため、
地元に住む人も たいへん気をつかって山に出入りしている。


天狗様が棲んでいるともいう。
そのため山に入ったら
あまり大きな声を出さないようにしている。


またマエツボ(前坪山)にはカシャ猫(化け猫)も棲み、
それが土葬で埋めた死人を喰うので、
間方の葬式は暗くなる夕方に行う。
埋めた墓にも三本の木を曲げて六脚を土に刺し、
弓にしてはねるようにしつらえる。


志津倉山で雨乞いをすると雷雲が出て雨になる。
この山から下りてくる雷雲は必ず雹害をもたらす、
この山塊の「ショウハチハヤシ」の空が黒くなったら気をつけろ、
という伝承を抱えている。
大岐の北西後背山地が「ショウハチハヤシ」(柳沢峠付近が大岐の北西部になる)




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伝承を学び知るのが「*会津学研究」の一端。
レポート:菅家博昭(会津学研究会代表)さんによる





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by tabilogue2 | 2015-12-19 00:10 | 会津学 | Trackback | Comments(0)