しばらく山行しないで時間を弄んでいたので
罪滅ぼしにと・・・ 過去のブログ記事から
「小川登喜男・伝」を引っ張り出して・・・
間の空いた投稿を埋め合わせしたい(´艸`)


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emoticon-0162-coffee.gif レビュー

ひとたび、激しい行為を通して強い生命の喜びを知りえた者にとって、心はただ自然を愛する自由な旅人ではなくなっている。彼の眼にはやはり山の美しさが映っている。しかしそれは静かに眺められた美しさではない。彼の心には、彼みずからの意欲によって開かれた山の激しい美しさが目覚めている。黝(かぐろ)い岩、鋭い雪稜、きらめく蒼氷、身をきる風の唸り、そして雪崩の咆哮。これらの美が彼の心を引きつけ、彼の魂に息苦しいまでの夢をつくり出す。その時山は、彼自らの生命をもって贏ち取ろうとするプロメテウスの火となるのだ。 
「森の中」 小川登喜男 1934年 山岳雑誌「山」梓書房 


このエッセイは小川が大きな影響を受けた英国の登山家アルバート・F・ママリーの登山論が起源となる。ママリーの原文は慶応の大島亮吉によって和訳され、それに啓発を受けた小川が書きしるした登山論の一遍である。

「人はなぜ山に登るのか」 この永遠の課題をもって登山家小川の思いが始まる。「真に新しいルートへ向かう。誰もまだ到達したことのない地を愛し、大地がカオスの世界から生まれて以来無垢の地、氷の襞におのれだけの径を刻もうとするものである」ママリーからの啓発である。それは穂高で落命した大島の心を酔わせ、彼が和訳したママリー登山論が若い小川たちを谷川初登攀へと駆り立てたのだった。

小川登喜男・彼が仙台近郊の山に足しげく通った東北帝大生時代(1928-1931)、その4年間に東北の山々を登り白銀の峰々を滑走したことが、彼の人間性の礎の一つになっているのは間違いない。その天賦の才に恵まれた彼は小さめな体躯(165cm)ながらも持ち前の柔軟さで谷川 穂高 冬の剣などでその才能を咲かせるのだが、それ以前に泉ヶ岳や大東岳 船形山 黒伏 丸森 霊山 蔵王 八幡平 吾妻 飯豊 八甲田といった東北の豊かな大地・ブナの森・たおやかな峰にて培われたであろう山への想いは天才クライマーとしての技術ばかりか人間としての心の豊かさをもバランスよく埋め込んだ。それが著書に出てくる言葉「Gemut」(心情・情緒)なのだろう。それらがヒュッテンブッフ(蔵王小屋に備えられた自由ノート)や部室に備えられた「ルーム日誌」に多く認められた。落書ノートの「ノリ」そのものである。それに見る男たちの友情は濃くそして思いは熱く、読む者に昔日の良心を見せつける。熱いものが伝わってくる anthology だ。

哲学的とも宗教的とも思想家的とでもいうか帝大生の山に打ち込むストイックな姿に私などは敬服の念を抱くのみだ。それにしても読後に悲壮感めいたものを感じなかったのはなぜだろうか。恐らくこの本の背景に流れる「帝大生」という磊落な気質がその因子なのだろう。それはそれとして、書き手の出自が岩ヤか沢ヤかでこうも違ってくるものだろうか?沢ヤであり山岳スキーヤーでもある深野氏が書けば山への情念と描かれた心情が中心となり 仮に岩ヤの遠藤甲太氏が書けば、滲みだすあの生死の境から生まれる悲壮感で世界をも陰鬱に包んだことだろう。

確かに、クリンカー、トリコニー、ベルニナ、ムガーなどドイツ製の鉄鋲を打ったナーゲルシューズでしかも麻縄のブーリン結びで、プロテクションもおおかた無しで断崖の岩場に挑むわけだから宗教的な文体になるのも必定、理解もするのだが、いずれそのような貧祖な道具の時代での登攀なのである。今を見て知って当時を思えばなんと無茶で恐ろしい意気込み至上の登攀だったであろうか。小川が田名部、枡田とで登攀した谷川岳 幽の沢右俣・右俣リンネ初登攀の回想が読み手をかなりビビらせる。この装備で逆層の岩場をバランスのみでしかもノーピンでクリアしていく彼らに「日本の近代登攀技術を一段上がらせた」・・・と。岩から身体を離しオーバーハングをクリアしていくという近代メソッドがそこにあった・・・と。足しも引きもしない岩壁登攀の実力者である遠藤甲太氏が全てリードにて同ルート実録検証をしその上で語っておられた。余談だが、深野さんと遠藤甲太氏は旧来より親交ある仲だ。それは当時の僕がよく知っている。なので深野さんのルート推考と遠藤甲太氏の実登攀による検証とでこの評伝を書きあげるに互いに補完しあったのだろうと推測する。

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emoticon-0162-coffee.gif 読後感 

深野稔生さんの本を読んだのは共著である「ブナの山々」が最初。それが出会いで、それが元で郡山からの転勤後にYMCA山岳会に入った。次の本は「山遊び山語り」、「宮城の山ガイド」だったろうか? 土樋にある深野宅の書斎で戴いた「昨日からの手紙」「神室岳」が最後だったろうか? 彼の文学的?形容文体を少しトレースしてみたくなって・・・、amazonでポチったら かの本は翌々日には届けられてしまった。まだこちらが本を読む覚悟をせぬうちだったのでその分厚い装丁におののき、パッと本棚の何処かに隠してしまいそうだった。ついついページをめくると、意に反して、どんどん惹きこまれてゆくではないか! おそらく自分にも そういう素地、山のDNAが潜んでいるんだろうと思ってもみた。ただ、18歳から山にのめり込んでいた割に自分にはストイック性がまるで無い。あるといえば、「山は総体だ」という哲学のみだ。そんな自分なのだが、この本を読んでいると山への向かい方に教示され、反省もし、山岳愛好家として理想への道標にこれを据えようと思うに至る。

山行には焚火と酒があればよいなどと平気でのたまう自分はとても恥ずかしい。とはいえ文中にある「バドミントンスタイル」という言葉にこそスポーツを楽しむという英国近代登山発祥の姿(British hill weather 1892年より)があり、慶応の大島亮吉が流行らせたらしい言葉がある。そんな下りがあるのでパイプをくゆらす、スコッチを嗜むというのは登山に於ける紳士道として許される覚えなのだろう。さらに雨が降ろうものなら止むまでマントを被って山野に宿り、霧が出れば晴れるまでパイプを咥えて幻想の世界に身を沈め移ろいをやり過ごす、という気候をも含めて自然を楽しむ彼らに欧州における古来伝統のスポーツの香りが利ける。元来、スポーツという言葉には”楽しむ”という意を含んでいる。それが英国バドミントン村での貴族紳士の生活スタイルなのだとファッションも交えて大島らは慶応の部内報にて披露し実にやがて社会人全般にも流行するようになったとある。今も昔も学生こそ時流の先端にいたわけで、この下りにあるファッションにさえも日本近代登山の黎明をビシバシ感じてしまう。

「岳人」とは、「アルピニズム」とは、いったい何ぞや?「岳人」と称するには如何ほどの時間を山と渓谷に費やさねばならぬのか?厳しく危険な山を追求する一方で憩いを大事にし、緊張を持続させる行動はやがて肉体ばかりか心のくつろぎを要求するもの。緊張の登攀を終え、ひと休みするアルピニストには瞑想的な精神があらわれる・・・イギリスではこれを「The spirit of the hills」“山岳の精霊”と呼んで尊んだとある。その「岳人」に宿る精霊とやらを得るにはどのような心境に自らを浸らせるのか?この下りを理解せずに「岳人」は成り立たない。この辺を現代の万民登山とで比較してみたいと思う。自らを「岳人」と呼び悦に入るなどは身の程を知らぬ滑稽な行為と先人たちに笑われそうである。そこのところは一度学生時代に戻って、いわゆる「登山とは何ぞや?」に思惟を巡らさねばならんのだろう。

さらにもう二、三度、当著を読みこんでみようと思う。「岳人」であるなら一冊は持つべき本であり 山岳愛好家であればけして損はしない一冊である* 草稿なので 今後書き換えることがあります。

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emoticon-0162-coffee.gif 登山家 小川 登喜男(おがわ ときお、1908年 - 1949年) 
東京浅草の生まれ、旧制東京高等学校在学中出より登山を始め、東北帝国大学山岳部(1928-1931)では草創期のスキー登山によって、蔵王、船形山、吾妻連峰、八幡平など東北各地の山で活躍。登山のために入学し直した東京帝国大学山岳部(1931-1934)では、谷川岳一ノ倉沢や幽ノ沢、穂高岳屏風岩、剣岳雪稜などを初登攀した。

「行為なくして山はない、情熱なくしては、いかなる偉大なことも起こりえない、山への情熱は、山に行くことのうちに純化されるだろう」(東北帝国大学山岳部ルーム日誌より)

肺結核で若死にし、長くその登山の偉業が知られることがなかったが、東北帝国大学時代に残した日記に小川直筆のメモを見たという。部室や蔵王小屋に集う岳友たちとの交情、山行報告、思索と随想、帝大生たちの青春、登山がロマンであった時代の伝記である。昭和の天才登山家と評される小川登喜男の実像に迫った力作評伝。

「銀嶺に向かって歌え クライマー 小川登喜男伝」 深野稔生著 みすず書房発行 定価 2800円

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でも こんな読み方もあるので 紹介しておく


いちおう「評伝」だから史実もののジャンルなのだろうけれど  脚色もあるとして事実との符号に苦慮する点も多々あるらしい 
それを小説だと指摘する方もいるので そこの所にまだまだこの本の問題があるようで その一方の意見主のURLも表記しておく。
* http://kletterer.exblog.jp/20207595


それらを指摘をする彼は自身のブログに「クライミングという行為が、無機的な岩塊の上で繰り返される筋細胞の伸縮でしかなく、幾つかの数字だけがその結果を表現するものであるとしたなら、なんと虚しいことだろう。」と書いているので その一文で真摯に岩に取り組む方だということが傍目の私にも直ぐにわかる。ご訪問してみて下さい。



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by tabilogue2 | 2016-11-25 22:56 | art | Comments(0)

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昨日今日は 越後村上と越後中条に行ってきました・・・っていえば
いかにも観光目的に思えチャウが・・・チャウチャウ (´_ゝ`)ナイナイ


仙台のスポーツショップ「ゆうゆう館」主催の「藪山山行」でした

残念ながら 三面方面は霧雨で、「蕨峠」についた途端にシト降る雨
結果的に「餓鬼山」手前で敗退し 帰り道で紫舞茸を発見した・・・ときた

 その流れで村上市まで出て なにやら秋祭りをやっているとの
情報を得ていたので 登山客ならぬ観光客と化した

運転手をまかされていたので・・・疲れないようにし無理はしないw


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峠から右が餓鬼山、左が鷹ノ巣山 もっと左奥に有名な鷲ヶ巣山





戦国時代に武田信玄と争った村上氏・・・落ち延びて上杉の配下に。
以前、大河ドラマでは歌手の「上條恒彦」が演じていたけど、、、(合ってる?)
わすれたけど(笑) 武田支配地の北信濃の豪族から上杉配下の地に逃げ落ちたといわれる
その村上氏の城下町が今現在の村上市 有名な観光名所は「北限の茶処」
茶の生産は山形にも在るが ここでは「生産と製茶、販売までされている」という「茶産業の北限」

侍町と町民の町屋敷とが区別され 寺町を境に旧い城下町の風情を残し
町屋敷は鰻の寝床のような 間口2間の町屋風情を残したまま今に至っている
間口は2間だが 奥行きは10間ほども在る・・・
・・・昔は間口で税金の換算をしたからだね

街中を歩くと すぐにその佇まいに感激するはず
しばし 屏風を飾り立てた町興しイベントを見物した

代々の調度品と屏風をお客にお披露目
一番目の写真は・・・(株)吉川 きっかわ の暖簾 

ここをくぐると
三面川で採れた鮭が 軒裏に1000本もぶら下げられており 
一瞬、(魚だけに)ギョッとするが 祭りであるからして余裕で見学できた 

ここで売られている「鮭の昆布巻き」が美味しくて
ちょうど地元には「〆張鶴」の美酒もあって その酒に合わせた酒肴を求めた

その夜は酒宴となり ゴチに供されたのはいうまでもない




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鮭をイヨボヤと読んでいたようだ イヨはウオのことで魚の意味
イヨ止まり イヨドメ(魚止め)という意味合いは他所でも在る



江戸時代には遡上鮭の孵化技術があったようで、
三面川本流から「種川」という人口の支流を設えて
そこで獲れた鮭の「受精-孵化-放流」までを「科学した」らしい
 
青砥武平次というお侍さんが
このような「鮭の回帰本能」を利用した人工孵化を「世界で初めて」編み出したといわれている
彼は「三両二人扶持」の身だったが、出世して「70石の石取り侍」になったといわれる
これは奉公人に換算して40人分の「食い扶持」を蔵米で貰う(200俵)ことと同じだ






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by tabilogue2 | 2016-10-09 21:30 | art | Comments(0)

和SA美 わさび

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PENTAX K3, DA60-250, natural mode, WB auto



うちの山岳会の運営委員長だった佐野さん
いまじゃ バリトンサックスを吹くおじさん

なんでも真面目に取り組む人だから 
まるでゼロから 「運指」さえ学んだことだろう
彼は とにかく 努力家なのだ

顔を真っ赤にして サックスを吹く姿

60歳近くになって楽器を持ち 練習を始め
ジャズフェスに出れるほどになった

その点だけでも 
同世代の男どもは 見習うべきものがある



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バリトンサックスって そうとうキツイんだろうなあ
「苦しい」の限界を越えたときの表情だ

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こういう表情に かつて山岳会時代にはなかった彼を知る

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演奏が終わって 素直にホッとしてる
じつに 彼らしい表情の写真が撮れた



「和SA美」のおねえさんたち、楽器になれた方たちだ

ふだんは家庭の主婦だったり パートで働く奥さんだったり・・・
週一の練習で 上手になってゆく

ジャズフェス参加は 一つのサクセスストーリーだね
 
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by tabilogue2 | 2016-09-15 11:24 | art | Comments(0)

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今年も GRAD'Zは
リッチー特集になってしまうのか!( ´艸`)


増すます チャールズ ブロンソン風になっていくリッチー
昨年の写真と比べてみるのも面白い( ´艸`)
スタイルが決まってきたぞ



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by tabilogue2 | 2016-04-11 12:40 | art | Comments(0)

ELDORADO

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昨年、定禅寺ストリートジャズフェスティバルのグランドフィナーレで
大トリをつとめ観客を熱狂の渦へひき込んだ ELDORADO 
ブルーのステージ衣装も眩しく登場しました

待ち侘びていた観客の期待を裏切らない パフォーマンスショー
軽妙な掛け合いの楽しさを 惜しげもなく大盤振る舞い 
じつに ありがたいことネ♪

 毎年同じ小ネタとわかっちゃいるけど(笑)観客はヒートアップしていく 
ステージに惹き込むパワーがすごかった! 
エルヴィスが聴けて 笑えて 踊れて 心が軽くなる♪
伊藤さん ELDORADOの皆さん ありがとうございました!



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by tabilogue2 | 2016-04-11 11:54 | art | Comments(0)

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あれは<青春>と呼ばれる時代の一夜の夢だったのだろうかー。
それにしては長くその〈夢〉を引き辷り続けてきたようだ。




かれこれ28年になろうとするこの山との関わりの背後にあるものに
思いを巡らせていると、高地岳北壁1ルンゼから自然落石の乾いた音がする。
咄嗟に身構えてみたものの、落石はあらぬ方向で炸裂、
幽かに硝煙の匂いを残し静寂に還る。




そういえば初めて海谷を訪れた1965年の冬、
退散する原因となった大雪崩が発生したのもこの高地岳北壁の1ルンゼだった。
それにしてもあの雪崩は凄かった。
1ルンゼを突風のように駆け下った泡(ホウ)雪崩は、
海川本流を渡り、対岸の仙丈ヶ岳南西壁に突き当たって坂巻き狂騰していた。








振り返ると高地岳北壁が象の顔の相貌を見せて大迫力となってきた。
この岩壁にどうしてもカール・マルクスの名を与えたいと
主張して譲らなかった徳永憲一は、当時学生運動に熱中し、
山にも全学連のヘルメットで現れたのだが、
それが卒業と同時にコロッと寝返り、”米帝”の先端企業IBMに入社して
私たちを唖然とさせたものだ。




”学生時代のハシカ” ”脳嚙りの身勝手な熱” 様々な批判があり、
それも確かに一理はある。それでもなお、確かにある時代に夢に溺れ、
社会主義と変革の想いに自己の存立を確認したいと願う心情はあるのだし、
残念ながら生きるためにそうした夢を削らずに過し得るほど私たちは強くない。




だがそれでいいのだ。
互いに生きていく道筋が違えば、自ずから関りを深める相手も変っていくのが当然。
そうして少しづつ青春の蒙み(クラミ)から脱け出し、
年老いてゆくのが人の定めというものだろう。




岩を攀り損ねて、墜落することよりも社会的に失墜することの方が恐ろしく、耐え難い。
”死ぬ気になれば・・・”と人は言うが、ジワジワと真綿で首を締めつけられ、
社会的に葬り去られるのではないかという不安に較べれば、瞬間の死など気楽なものなのだ。







幽かにそれと判別できる程度の焼山の噴煙を眺めながら、
そんなことを考えていると、早川谷を渡る風のさざめきに乗って誰かの声がする。

「駄目だよ、まだ・・・・・」 藤平の声だ。

「まだ終わってないだろ」 これは木村の声だ。

木村秀雄、彼は私が約束を破って参加を取り消した駒ヶ岳南西壁の試登中、墜落死した男だ。
木村は冬の海谷の岩壁登攀を提起し、私に強く実行を迫ったのだが、
その最初の試みで遭難してしまった。




昼闇山(ヒルクラヤマ)、それは、海谷のすべての課題が終わったら一緒に登ろうと、
ひと足先に旅発った彼らと約束していた山だった。



















大内尚樹 昼闇山(海谷山塊)白山書房より抜粋




注:大内氏は 駒ヶ岳南西壁 冬季単独登攀を成し遂げた。
昼闇山に登って、回想したのがこの「約束の山 昼闇山」である。



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by tabilogue2 | 2015-10-16 20:10 | art | Comments(0)