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この栗駒山の「千年クロベ」は樹齢1000~1500年の推定。このクロベは1本の幹であることがオンリーワンの特徴だ。「全国巨樹巨木林の会」に今まで登録されてきたクロベの巨木は「数本の幹が合わさっている」ものばかりであるが、栗駒の千年クロベは1本で幹周り9.4mという比類なきもの。つまりはナンバーワンなのである。このクロベの発見は1998年の冬で、初計測は2000年5月(YMCA山岳会運営委員長:佐野豊)、初公表はYMCA山岳会(会長:深野稔生)による。当時、新聞紙上には場所やルートを特定せずに発表した。後日、案内看板の設置 普及パンフなどは宮城北部森林管理署、宮城県経済商工観光課、栗原市産業経済部の三者の内、世界谷地を観光資源とする当該受益者=栗原市の責任で設置、作成したものが多い。

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クロベ太郎


古の道、栗駒古道の一つ、湯浜街道(ユバマカイドウ)を歩いてきた。羽後岐古道(ウゴキコドウ)とも言うらしい。気仙沼からの海産物が運ばれ珍味の”ホヤ”が国境いを越えて小安から成瀬川沿いに湯沢十文字に入ったらしく湯沢方面では”ホヤ街道”とも呼んだ。

「羽後岐」の名からして、この街道の何処かで分かれるもの?と想像する。仮に「文字越え」(モジゴエ)を岩手の「萩荘」(ハギショウ)へと辿ったとすれば単なる想像も現実と符合させうる。つまり空想や妄想ではなくなる。その昔、藤原秀衡に匿われていた義経は藍染で有名な「文字」から「一迫」の一帯まで遠駆けしていたそうだから連絡路はあったようだ。どこかで街道は分岐する。羽後岐の「岐」はどこか…?(”奥州藤原”の話なら旅館くりこま荘の館主菅原さんに尋ねれば消化できないほど伺える)

もう一つ素朴な疑問だが… 道や沢が2つに分かれるのと、3つに分かれるのとでは使用文字が違うと自分は思っている。2つなら二股 二俣 二又であろうし、3つ以上なら ディストリビュート的な「岐」の文字を宛てがうのではないかと思ってもいる。 ここでは檜枝岐と同じ「岐」という字を使っている。檜枝岐なら 群馬の沼田にも抜けられるし 栃木の日光奥鬼怒にも抜けられるし 新潟の栃尾又にも抜けるし ダム湖に沈む以前は大津岐峠から田子倉・只見にも抜けたようだ 木賊・湯の花にも抜けられる。まさにディストリビュート的な役目の宿場なのだ・・・、国語的にはどちらも「マタ」と呼ぶけど こだわれば「違う」はず、、、それ故、「三つに分かれる道」にこだわって推考してみた。「第一義の仮説」である。


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手前に大地森 奥に駒の雪形が鮮やかな栗駒山の御駒山と最高峰大日岳


話は変わるが、、、街道名というのは…例えば「奥州街道」の場合は”主たる江戸から従たる陸奥へ”と人や物が流れていく… そのように名付けられた。そう考えると、江戸を背にし目指す方を向いて…陸奥に向かえば「奥州街道」となり、江戸から日光へは「日光街道」、日光から会津へ向かうと「会津街道」だが、だけど?、反対に会津から日光へと向かうと「日光街道」と名前が変わる…だから複雑怪奇、ややこしくなる(´艸`)。福島から米沢に向かうのは「出羽街道板谷峠」 国見から七ヶ宿街道を通れば「羽州街道七ヵ宿」とかなり複雑になる。藩政時代と明治維新とで縦軸・横軸が乱れて呼称もわからなくなる。

「羽後岐」の場合は 主たる陸前側から従たる羽後側へ人や物資が流れる という理解で良いのか? だとすればこの「羽後岐」という街道の名は陸前側が羽後側を指して命名したと考えるべきだが、、、そうなると、羽後側に分岐する道があるはずだが?しかも3つ。 柔軟じゃないけど、この仮説が後にドンデン返しを招くこととなる。逆説的なのはショックだw。

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揚石山(アグロシヤマ) 昔は上げ下ろし山(上下山)とも書いたそうだ。今日のガイド役、「栗駒の自然を守る会」の副会長、佐藤(定)さんからの聞き覚え。世界谷地から大地森南部近辺と揚石山の間を万坊平(マンボウダイラ)と呼んだ…らしい。佐藤さん曰く、「僧兵がうじゃうじゃいた」の意味だそうだが、(私はその文献等を拝見していない。確かめてみたい)。大地森南麓と揚石北面との間、木立に2軒「お助け小屋」があったと言われる、大地森、田代沼にも。これは近代史に記述があり「史実」である。


宮城側からの峠越え、一つ目は…なんとさらに、下道と上道の2つに分かれるという資料読みの結果だった。岩ヶ崎から「文字越え」して二迫川(ニハサマガワ)沿いに寒湯番所-湯浜-花山峠を越えて秋田側の皆瀬川沿いに「小安街道」へ、別名:下道 明治15~16年に開削された。岩ケ崎から大地森の南にある杉が植えられた「お助け小屋」を通過し-万坊平-湯浜-花山峠-「小安街道」へ、別名:上道。これは藩政時代からあった道で まさしく本日歩いてきた「古の道」であった。

二つ目の峠越えは一迫川(イチハサマガワ)沿いに花山から寒湯への途中、越戸から上沼、国見峠を越えて鬼首地区に入り、荒雄岳の北を巻くように流れる江合川の支流、仙北沢から国境いを越えて秋ノ宮へ さらに役内、院内へ下った。沢の名前も「仙北沢」なので秋田仙北郡との”道行の沢”(ミチギの沢=峠路に用いた沢)として大崎と仙北の交易に利用された。

三つ目の峠越えは三迫川(サンハサマガワ)に沿って東栗駒山を越え赤川沿いに湯沢十文字へ向かう道。これは「御室の沢駆け」コースではなく、ずうっと耕英地区の下、行者滝辺りから裏沢-東栗駒山の西鞍部を越え、笊森-真湯道と合わさって赤川に下りている。この辺の資料は柴崎先生の著に出ている。 というわけで、、、宮城北部と秋田との物流、商流の道が大きくは3つ、小さくは4つ数えることができた。

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臍下谷地


もう28年も前のことになるが…、YMCA山岳会では「栗駒山の全流域・踏査」を行ったことがある。その頃、深野さんから以下のように教わっていた。「なぜ 世界谷地などとオーバーな名前を付けたんだろうか?」という会員の素朴な疑問に、彼は既に答えを持っていたようである。もともと湿原のことを「臍下」「谷地」(セイカ、ヤチ)というようだ。彼は既にその「一般的(?)表現」を文献上で拾っていた。

ただ、地元としては「臍下」という呼び名では栗駒観光には活かせない、「格好」が悪い…と云うので「臍下谷地」がいつの頃か(たぶん戦後、第1次登山ブーム時代?)「世界谷地」に転化した。なぜ「格好」が悪いのか?といえば、”臍下丹田”などという言葉どおり 臍下とは「ヘソの下」のことで「湿地」「谷地」を指す。淫語ではジメッとする「女陰」「ホト」を意味する。きれいな湿原が”女陰”じゃどうにも「格好」が悪い、観光の妨げになる…ということで「臍下」が「世界」になったようだ。これには会員一同納得したものだった。

こんな淫靡な話は山ではよくある、例えば二重山稜の地形ゆえに尾根上に湿地を持つ山…例にあげれば、南会津の黒谷川沿いにある二重山稜の山といえば”火奴山”(ひどさん・ほどやま)が有名だが、まさに「女陰」の淫語”ホト”がそのまま山名になっている。他に 会津志津倉山では「細ヒド」コースがある。或いは七ヶ岳の「程窪沢」とか・・・探せばたくさんある。会津では「ヒド」といったり、福島では「ホド」とよんだりしたが 一般的には「ホト」と読む。

とまあ「臍下谷地」から「世界谷地」への転化、その成り立ちを、今じゃ珍しい言葉を使って当ブログに書き遺した。インターネットとしては「初公開のネタ」になる。初めて眼にして妙に納得のいった方も居られたろう。このネット時代にブログにしたためておかないと「因を含んだ言葉」が闇から闇へ葬り去られてしまう。50年も歩いた中で、山に関する些事や言説はこのボケた頭にほどよく備蓄されている…が、呆けて取り出すのに少し手間取る(´艸`)。また、「世界谷地」は古くは「八ツ頭原」といったそうである。水芭蕉を里芋の葉と見做したのかな? それでも「世界谷地」と称したのには深いわけでもあるのだろう。観光産業の芽生え? これも付記しておく。

仙台YMCA山岳会というのは徹底して「沢遊び」をし、単にフィジカルに登るだけじゃなく「総体」として山をとらえ、山を「学び」の場にしていたんだなぁ…と、今さらながらに思った次第である。


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小関代表が覗き込んでいるものは・・・???

それはともかく 宮城側の何処かに荷物の中継・分岐ができる「飛脚便」のような荷の受継ぎ所があったのだろう。となれば…岩ヶ崎か? 大きな集落で、峠越えの人足や牛馬が斡旋されていたと見るのが常套だろう。街道筋の便利が良くなれば良くなるほど…木賃、駄賃も多めに落とされる。その運送業を「背負子」(ショイッコ・強力)と呼んでいた…、背負子は4,5人で団を組んで歩いたという。旅人や商人たちをも案内しながら往き来した。ますます町の潤いは好循環となる。話のついでだが秋田側の中継所は御番所のある小安温泉、各旅籠で秋田の商工品との取引が為されたそうだ。背負子の強力たちは商人のセンスを持っていないと務まらなかったろう。

栗原の「史談会」に尋ねたら私の幼稚な疑問は一度に解け、答えは明解だった。番所の一つは岩ケ崎・沼倉木鉢(キバチ)に在り検断屋敷、もう一つは文字・柿の木に在り、他に花山の寒湯番所(ヌルユバンショ)もあって羽後岐街道の荷駄を管轄したとある。羽後岐街道の番所は3つ。これが「岐」を考えるヒントだった。答えは…「秋田側から宮城側を覗う」と出てくるのである。羽後岐街道は秋田側から国境いを越えて宮城側に入ると三分岐して径が続いた…と考えれば解りやすい。だから「岐」と付くのだった。これがドンデン返しの大本だった。中でも「岩ヶ崎・沼倉」の街道は繁盛し、太平洋へも延び、沢辺(サワベ)を通って石巻まで…とも。ネットじゃなかなかサーチできなかった。宮城側にあった4つの交易道のうち、羽後岐街道としてはそのうちの栗駒山寄りの3つを指すという結論だ。宮城・大崎から鬼首を通る仙北沢道はこれら羽後岐の「岐」から除かれる(行政区が違うから)。これでスッキリ!した。


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鉞(マサカリ)山神さまでした。背負ってきたんでしょうね、、、この石像


秋田側の峠道に関しては 一つは皆瀬川沿いに田代沼-板井沢-大湯-小安番所-稲庭-川連(カワヅレ)を経て湯沢十文字へ。上流部にある春川、虎毛沢、赤湯又沢などはYMCA山岳会在籍時代にさんざん通わせてもらった。二つ目は栗駒須川の龍泉ヶ原を源頭部とし小仁郷沢-赤川-成瀬川へ、途中の手倉(手倉越え)で胆沢からの仙北街道を併せ増田へと下る。あれほど綺麗な湿原:龍泉ヶ原を上部に戴くが小仁郷沢、大仁郷沢と赤川の合流地点は硫黄を含む灰色の泥が堆積していた。月の表面?みたいに沢の中が一面灰色だった。数十センチも泥濘んで歩き難い地点でもあった。いづれ栗駒を源頭部とする皆瀬川と成瀬川の2つは増田で合流し湯沢十文字へ下る。もう一つは仙北沢から秋ノ宮の峠を超えて役内川沿いに下り、院内、横堀、小野へ。というわけで 逆に日本海側の海道からは松前の昆布や京都の衣類・紅・技巧品、地産の川連漆器、稲庭饂飩などが陸羽の国境を越え宮城側に入る。これが「寒湯街道」(寒湯番所)、「文字越え」(柿の木番所)、「岩ケ崎街道」(沼倉木鉢番所)と分岐するので3つに分かれた「羽後岐」街道となったのである。宮城大崎との交易幹線である役内川-鬼首越えはそれに含まれない。これで「仮説」がやっとスッキリした。

所感・・・
宮城側で3つに分岐するというのは「羽後側で付した」街道名と考えればなお分かり易い。考察に際し、既成概念をもって臨んだので混乱してしまった。てっきり宮城側が秋田側の峠につけた名称だとばかり思いこんでしまった。なので、地形図で秋田側の一番通りやすい沢筋を追ってはみたが、成瀬、皆瀬の2つまでは数えられても、3つ目はなかった。一端の沢ヤとして沢筋を追ったがどうしても湯沢十文字への道は三口にならなかったのである。一転、宮城側は一迫川、二迫川、三迫川とで三口になるのである。さらに二迫川は湯浜で寒湯筋、文字筋、岩ケ崎筋と三筋に分けることができる。この分流を地図で理解するのにまる2日もパソコンの前から離れられずにいた。いずれの道も同じように「羽後岐街道」是也というのだから公平感があっていいにはいいけどw ま、百聞は一見にしかずの調査だった。羽後という名称は陸前から見ての言葉だから、てっきり羽後側にこそ三口に分岐する道が続くものとばかり思ってしまった。固定観念が強すぎ「思考狭窄症」に陥ってしまったようだ。


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さてと… 「道」の起源は生活のための仕事道である。標高の上げ下げに無駄のない一筋の山菜・ゼンマイ道だった。それが古くは坂上田村麻呂と地方豪族阿弖流為(アテルイ)との戦いに軍用道として人馬が通り、「手倉越えの仙北街道」(胆沢から皆瀬への道)も同様に「後三年の役」に胆沢の拠点から発せられ雄勝砦の応援に向けた義家軍勢の軍道として利用し踏まれた。時に権力者の道となり、また黄金の道として雄勝の銀山と平泉の砂金とを結んだ道になり、明治になって山師や鉱山夫も通る。鉱山で賑わえば 遊女も通い、茶屋で賑わう街道となってゆく。この千年、人が歩き牛馬に荷を背負わせ往来し、宿場ができ、やがて番所が設けられ、庶民の物見遊山の街道にもなったことだろう。だがその道も 明治になって鉄道が敷かれ始めると要筋を終えて草むらに覆われ廃道と化してゆく。 諸行無常の流れにある。

「前九年の役」では源義家の軍勢は安倍貞任軍に大敗を喫し劣勢だった。出羽国からの清原勢が15000の大群を率いて義家に加勢し 栗原上野の屯ヶ岡(たむろがおか)にて待つ義家軍と合流。その清原軍合流後 安倍貞任を討取るまで僅か2ヶ月とされる。その際、秋田からの清原軍が歩いた道は「鬼首道」(仙北沢)とされる。この湯浜街道は「前九年の役」では使用されていない。ちなみに「後三年の役」で清原軍を応援するために義家軍勢が歩いた道は 主に胆沢城から「手倉越え仙北街道」を通って秋田湯沢に入ったとされるので「後三年の役」でも湯浜街道は用いられていない。 七ヶ浜のSさん ご注意あれ。。。

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大地森の裾を南から西へと半円を描くように巻いて横断している


今日我々が辿った古の道はブナやミズナラが隙間なく立つ緑濃い道。それらは栗駒古道といわれ、今に歴史を尋ねる道として語られ歩かれている道である。道は栗駒山の山頂近くを通る道と栗駒山の裾を通る道があり、昨年の秋に、栗駒山の山頂部を通る古道の一つ「笊森」と「真湯」を結ぶ道を歩き、昔人の通った道に思いを馳せた。もしかするとそれらは 義経が弁慶を随い逃げのびた道かもしれぬ。日本海側の海道から奥州藤原の郷に帰還する山道へと何処かで接点を持つ古道だったやも知れない。そして今日、栗駒の裾を縫うようにして通る「湯浜の古道」を我々は訪ね歩いてきた。

「山なのに、どうして浜なんだろう?」…還り道に七ヶ浜の Sさんから「湯浜の謂れ」を尋ねられた、、、帰宅後、湯浜に関しても色々と調べてみた。湯浜温泉・湯主三浦家の系譜からも追いかけた、また地名からも追ってはみたがそれらしい答えは出なかった。栗原市の教育部にも尋ねた。そちこち調べていただいた挙句、答えは私と同様「わからない」であった。湯浜は湯破魔ともとれるし、湯浴みすることを「湯をはむ」ともいうので、湯喰む、湯ばむ…湯ばま という迷解wも考えた(´艸`) ごめんなさい わかりませんでした。

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大地沢の渡渉点 ヌルっと滑りやすい


今日の催行は「船形山のブナを守る会」の観察会だったが、ご当地栗駒の「栗駒の自然を守る会」の副会長.佐藤(定)さんのガイドを得て歩いてきた。前回5月は「仙台のブナ林と水・自然を守る会」の佐藤(雄)さんの案内だった。それに今年3月の観察会では「船形山のブナを守る会」の千葉さんの案内だった。こうして自然に親しみ自然保護の理解を訴える団体のネットワークが構築されているようだ。

今日は贅沢にも、キスゲやレンゲツツジ、ワタスゲの花が揺れる世界谷地を巡り、時折 樹木の種類を学び、山菜採りの真似事をし、街道の証しを案内されながら歩いてきた。目的は「千年クロベ」と銘打たれたクロベ(ネズコ)の巨木を観ることである。僕にとっては17年の時を経て再びクロベの森に接する山旅でもある。


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クロベ花子


だが・・・事前の期待感とは違って結果は意外なものだった。かつて白い雪原にこんもりとした「黒い巨木の群れ」の印象があまりに深く心に残っており、今日見た笹藪の中に立つそれらは 17年「抱き続けていた印象」と大いに違って、いかにも『貧弱』?『困窮』そうに思えた。 

一晩、その理由を考えた。その謎解きで得た理由は・・・17年前、YMCA山岳会の山スキー山行中に雪原の中、吹雪の中にこのクロベの森を発見した。それはそれはとてつもなく大きな巨木たちでモノトーンの世界に赤い樹皮を露わにしていた。写真に撮ればどの雪面からでも、いかなる角度からでも立派なスケールで全容が画角に収まるほどだった。巨木たちとモロに向き合えた。視界には気を散らすモノは雪に覆われ、我々は心から巨木との対話を楽しむことができた。厳冬の雪原に立つ孤高の巨木こそが心の中に「絶対」としてあった。再見してみて藪の中に立つ姿に憐れみを覚えるほど今日のクロベは輝きもなく赤い樹皮もくすんで見えた。かつて、凍てつく白い季節に彼らの前に立てたことは一期一会の出会いだったんじゃなかろうか・・・。「秘匿され続けた神秘性」を失った今、「絶対」であった巨木の印象は180度変わるものである。



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クロベ花子


発見から今年に至るまで 冬になると栗駒耕英地区の「数又養魚場・イワナの館」に寝泊まりし そこを起点として”大地森~内院”に冬の企画を組んで遊んできた。「クロベ太郎」「クロベ花子」と愛称もつけられ見守ってきた巨木たちではあるが その当時の印象が最も彼らの輝かしい姿だと思っている。またそれは、何者にも移し替えられぬ姿で私の内に生きてきた。山岳会活動が充実し盛んであったからこそ…この世に初めて紹介できた という”妙な自負”があるにはあるが、反面 世に紹介し千年の眠りから覚醒させてしまったという自責の念と、その彼らに防護柵の一つも建ててあげられない「無為」という罪をただただ申し訳ないと思ってもいる。専ら「懺悔の17年間」でもある。

むしろ今後どう保存するかが鍵となる。登山ブームが過ぎ去るのを黙って待つか?、縄文杉のように環境省を動かすか?、何らかの手を打つように宮城県北部森林管理署に要請を出すか?。今後、自然を愛する者たちの『意図』になるはず。今日も今日とて 幹周り9.4m 樹皮表面周り9.7mと17年前に計測された既知のデータを無視し巻尺計測を始めていた。私はそのようなパフォーマンスは無用と考えている。むしろ、巨樹の根本に立ち入る行為は自然樹の養生を考えれば ”以ての外”の振る舞い。元来、立ち入りを禁ずべき囲いがあれば為し得ぬことである。。。気づいてもらいたい。。。「自然保護を訴える会」の観察会であれば「心得」を事前に喚起すべきであったのでは?とも思う。反省である。


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樹皮に見る何十何百もの幾筋。。。


今日 ガイド役を買って出られた「栗駒の自然を守る会」の佐藤(定)さんがいいことをおっしゃっていた。要約すれば「山は総体だ」ということであった。私と同じ考え方をお持ちのようで、そんな彼に共感を覚えた。古代と現代を繋ぐ道として千年以上歩かれ続けた道をこうして我々が今日歩けたことに「知的な学び」を感ずるものである。企画をされた「船形山のブナを守る会」に感謝である。千年を生きぬいて来た巨木に触れることで 少しは自分の生きてきた60年の道のりを考える良いきっかけになったかなぁ…と省みる。 
次回、来年の観察会は一泊山行として桑原山塊を提案したい。YMCA山岳会では大胡桃 小胡桃 栃ヶ森 大薊 桑原山近辺は沢を繋いで歩いているが、縫い集めたような”仙北街道”を秋田側か岩手側かいずれかを歩いてみたい。沢屋は沢しか見ない…悪例をもつ。アプローチしながら ブナの森の古道から現代を考えていく・・・生活に必要なものが有りさえすれば「自給自足」は最低でも賄えた昔、どこでどう狂ったのか?この日本、経済と軍事とが先行すれば余計なものに行き当たる。それを安倍語でいえば、「ズブズブの関係」とでもいうんだろうか。


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by tabilogue2 | 2017-06-19 08:01 | 栗駒山 | Trackback | Comments(0)

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踏査し発見した当時の写真 YMCA山岳会 発見者:佐野さん



●1998年の冬に 小桧沢(こびのきざわ)周辺から虚空蔵山に向かった時 クロベの森に気づいた。
広大なブナの森のその中心部に 大きな地形的な盛り上がりがあった そこがクロベの森だった。
翌々年、2000年に測定を2度試みた。4月には5mのメジャーでしかも積雪2mもあった。2度目5月には巻尺で計測。

●2000年4月15日 YMCA山岳会第1回目調査。 残雪が2mほどある時期の計測。幹回りが1mほど細い。
測定の結果
幹回り8m級 1本
幹回り6m級 1本
幹回り5m級 2本
幹回り4m級 9本
幹回り3m級15本
合計 28本 (残雪2mあり)

●2000年5月21日 YMCA山岳会第2回目の栗駒山南面「クロベの森」調査記録である。
測定の結果
栗駒山の大地森(だいちもり)西側にある「クロベの森」(ネズコ繁殖地)に生息する巨木たちの実態。
決められたルールに従って地上から1.3mの幹回りを借りた巻尺で測定する。結果は9.4m。表面をなぞると9.7m
栗駒山一どころか、ひょっとしたら日本でも有数の巨木に 数えられるかもしれない。
というか、クロベ=ネズコは日本の特産種だから "世界一"ということになるかもね。残す ということが「key-word」ということだ。

落雷によるひび割れで焦げたあともある。落雷を受け商品価値がなく切られずに残ったようだった。
そういえば 隣に立つ「愛称:花子」も落雷を受けていたっけ。その手前の木も。。
ヒノキなら1本あたり数百万円の市場価値があると言われるから この辺の28本を掛け算すると…?(´艸`)

●話は飛ぶが その後 2004.04.23 に宮城北部森林管理署との話し合いをもった。
1.小桧沢林道を延長しない 中止とする 
2.ネズコの伐採はしない 
3.保全を今後考慮する
との回答を得たのは 2004年5月17日 実に発見から4年が経過していた。(YMCA山岳会 会報 やまびと 37号より抜粋)
この回答の他に小桧沢林道を挟んで クロベの森は2つのカテゴリに分けられている。北側が「森林生態系保護地域」に属し
南側は「森林と人との共生林」に属する。この南側のクロベを北側に組み込む方向で検討したい旨の回答も口頭で得ている。

●当時の朝日新聞紙上(2000年11月14日)に掲載された記事によると・・・
「地上2,3mのところで大きく幹分かれしている。樹齢は1000年~1500年の間
「全国巨樹巨木林の会」に問い合わせたところ「日本最大級」であることがわかった。
林道のそばに残った貴重な巨木だけに今後が心配だ 保存を真剣に考えてほしい」との深野さんのコメントも載った。

●「自分たちで見つけた森 そして巨木であることに意義があるのさ」会報に記された深野稔生さんの言葉である。
それにもまして運営委員長だった佐野さんの言葉が光る この頃は深野会長と一緒に行動していた…(と思うと切ない)
環境ウォッチャーとしての役を担った佐野さんの存在は大きく、重い。誰にも真似のできない行動力はじつに感服するしかない。

●2002年3月の記録・・・ 
吹雪は去った。つかの間の青空も去り、再び雪が降り始めた。
早朝、いこいの村から栗駒山頂を目指し お駒ケ岳からクロベの森まで滑りおりてきた。
「クロベ太郎」の傍らにテントを張って 翌朝まで17時間余りを会長と二人きりで過ごすことになった。
クロベと同じ空間そして時間を共有したせいなのだろうか、上手く表わせないけれど、今までとは感じ方が違う、
などと偉そうなことを書くのはよそう。しょせん17時間なんてクロベにとってはほんの一瞬なのだから。
何しろ相手は「動かない」「静止」することに関してはプロ中のプロ。年季の入り方が桁違いである。
「不動の者」を理解するにはこちらも同じ環境に身を置き「動かざる者」になること、それ以外に方法はない。
                   YMCA山岳会 佐野豊 記(会報やまびと37号より抜粋)

●YMCA山岳会の栗駒踏査による巨木発見から、今日で17年が経過した。
羽後岐古道(うごきこどう)は登山道が刈られ、案内看板が設けられ、一躍人気のコースとなった。皆さんも一度は歩き ご覧になったことだろう。
だが2004年に林野庁当該森林管理署に申し入れた「クロベの周囲に柵をもうけてほしい」との要望はまだ適えられていないようだ。
多くの来訪者らに根本が踏み固められるのは時間の問題。枯死しないとも限らない、断定できないが、樹勢が落ちるのは他の事例で分かっている。
それまで無作為にいるのも辛いものだ。一度でも、このクロベをご覧になった方々、保存運動にも興味をお持ち頂けたら 尚いいね。


●2017年6月18日、その巨木「クロベ太郎」に 17年ぶりに再会できそうである。「クロベ花子」も写真に収めてこようか。
船形山のブナを守る会主催 「千年クロベ」見学会 
6月18日 7時集合 世界谷地駐車場 
参加費500円。
どんなアカデミックな話が聞けるのか楽しみです。要望としては、「カルチャー教室」のような「テーマの展開」を希望します。 

2017/05/12 21:36
 


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第二次国有林野施業実施計画図より 小桧沢林道とクロベの森付近を抜粋コピー
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2000年発見当時は まだ案内経路を示すべきかどうか?決まっていなかった
小桧沢林道を明記しない概念図のみで マスコミにネタを流した。






 

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by tabilogue2 | 2017-06-17 21:36 | 栗駒山 | Trackback | Comments(0)

烈風 東栗駒山

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「ゆうゆう館ツアー」で東栗駒山のお手伝いでした。
今日は久しぶりに 吹かれに吹かれた山頂でした 25mほどの風速でしょう
岩につかまったり 四つん這いになったりして 煽る風を凌ぎます

娘さん よくき~けよ
山男にゃ 惚~れ~るなよ~
山で吹かれりゃよ~ぉぉ
若ゴ~ケさんだよ

かつてのダークダックス(で 良かった?)の歌を思い出させてくれます
まあ登ってる半分が おばさん達ですが・・・山女? 失礼w


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強風の午前だった 新湯沢の雪庇はこんな感じでした 
雪庇先端部、2mほどオーバーハングして先端が逐次崩れ 剥がれ落ち
切れ目 裂け目が いかつい8mほどの沢最上部末端の雪庇です。
いつ大崩れしてもおかしくありません。

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午後は手袋拾いができたほどの快晴無風。上の写真と同じ雪庇を左岸側から撮影
この中央部分のハングした雪庇の下部、左岸雑木の前、沢床に手袋が・・・


今日は山頂へ向かうほど風が強まる。ブリザードの雪と風で地上から1mは見えない状態です。このブリザードの中 手袋を飛ばした人が居てしかも飛ばされる手袋を追ってるのが後方から微かに見える。やっぱり飛ばされ追いかけてるのは「あの人」、だいたい予想がつく。自然現象の上に自分を置いちゃう人。あのまま追い続けていたら あと数mで雪庇とともに落ちることになる。リーダーの大声に止められた。( 次回までに オーバーミトンの左右を肩下げの紐で繋げて対策してください!って それだけでは済まない )

そんな人って何処にでもいるのは知ってるし、問題をよく起こしがちなのも知っている。山では避けたい行為だ。パーティシップ以前に本人が自分の行動パターンに気づかぬうちは…、何を語って聞かせてもダメ。隊列を乱す人ってそもそも、せっかちで、リズムが違う、私語が多い、騒ぎたがる人、文句言う人、逆らう人、口ごたえする人、聞いていない、こういう人は他所のツアーに出かけても同じことをやらかすはず。 何故って?それがその人の行動パターンだから。
 
「毎日がんばってる私、多忙な自分を解放させたい」とかってそれだけを思って休日に参加してるんでしょう。バンバン飛ばす 追い抜く トレース外し 雪上だから許されると思っている そんなにパワー余ってるんなら他所で汗かいてほしい! 全体の利益に反するし迷惑行為だ。串田孫一の言葉に「頬に痛い横なぐりの風と雪を待ち焦がれる心」というのがあるけど、そんな心を抱けるのはストイックな世界を描ける岳人に限られているようです。

というわけで 一般募集ツアー登山の「悪い面」を見てしまった感があります。

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強風の午前中から一変 ときおり吹く風は春風か?w


往路では飛ばされた手袋の回収を諦めたが これがもし縦走だったら?凍傷覚悟になるか、パーティに迷惑をかけてしまう。なので非常事態を想定して その回収を試みようと復路では雪庇の向かい側(左岸)へ向かう。できることなら?、回収してみようか。落し主はその意図が読み切れておらず、自分だけが落とした自分だけの手袋 それだけに関心が行って 周りを見ない。同じコースを復路に選んだ理由さえ知ろうとしない。午後の陽気に、午前中にブリザードで飛ばされた手袋のことなどすっかり忘却のかなたw 先刻までピョンピョン跳ねていた。また新品買えばいいんだもんねw

私が沢への下降準備でアイゼンに履き替えを始めると、後ろのほうからザックを置きっぱにして雪庇下に向かおうとする動き。「危ないっ そこを動くなっ!」 怒鳴りつけた(いちおう ゆうゆう館のお客さんなんだが)さすがに動きを止めてくれたが、勝手な行動が大事故につながることを事前に自己学習して参加してほしい。

ザックが滑り落ちないようピッケルで確保残置し、降り口を確認。8mほどのオーバーハングした雪庇の状況を確認。沢筋通しに入らず雪庇に近寄らず、手袋との「最短距離」の対岸から直角で藪懸垂で向かって、即座に拾って直角で戻る。いちおう作戦通り上手くいった。 首尾よくいったからよかったが、、、高さ8mほど、庇部2mほど 覆いかぶさるような雪庇 真下からチラ見するもホンの一瞬だけ、雪壁には斜めに亀裂が走っておりヒヤヒヤものだったw 

本来はザイルを張って非常事態に備え、何かあれば?仲間に曳いてもらうよう指示すべきだが、そこはそれ、にわか仕立てのツアーパーティだし意思疎通ができるわけがないだろう、それに地形的にも厳しいと読んだ…。でもまあ、9mm✕30mロープはあるので(体験として)引かせればよかったかも…?少し後悔。 上部アンカーからセルフビレイをとる、ピッケルとカラビナを使ってイタリアンヒッチで、ロープの繰り出しと引き寄せ、もしくは肩絡み確保と順手逆手…ぐらいは 教えられたんじゃないかな。女性だから…って 甘く見てしまったかも?

雪庇が崩れる怖さを知らないツアー参加者たち アレって…氷塊だよ! 雪じゃないんだよ! 何トンという重さで崩れ落ちたら ぺっちゃんこ、圧死だよ…ってマジ教えなくちゃアカン でも誰が?どうやって?


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午後、イワカガミ平の上部の右岸雪庇 10mのオーバーハング
浮世絵の北斎の富士の画に描かれた波濤を思い起こせば・・・ま そんなイメージ

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稜線に出ると 氷の小さい塊がビシビシ顔に当たる それも楽しいらしい 

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進む先は東栗駒山

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スキー隊は スキーをデポしてカチで向かう 
25mほどの風速に煽られながら ピークまでいってきた
「息ができない」「死ぬかと思った」…だって 興奮冷めやらぬw

上部強風は半端ではなく 岩につかまりながらも三角点に立てて 良かったね


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今日のおまけ… シリセード
トップはうまく滑りません 二番手以降は滑り出しから勢いがありますぞ
女性って なんでこうもシリセードが好きなんだろね・・・

ってことで・・・ 俺もやってみた   あは 面白かったw

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by tabilogue2 | 2017-03-05 19:46 | 栗駒山 | Trackback | Comments(0)

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朝の9時半に須川温泉を出た ちょうど2時間で笊森避難小屋
だいぶゆっくりと歩いたものだ が、今日は重い革靴での歩行訓練を兼ねていた
30歳のときに買い替えたドロミテ製の手縫いの登山靴(重さは左右併せて3kg)

重い登山靴は靴底が硬い それゆえ
足首を曲げて、蹴って歩く、という普通にやっている「歩く動作」ができない
必然的に、「太もも」を上げて下ろしての繰り返しで歩みを進めることになる
普段使っていない 冬山でしか使わない筋肉を使うので 筋肉痛になるのは必至だが
でも、この訓練を始めておけば 深雪ラッセル時に 充分な効果を発揮する




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小屋の周りの草原は 秋色になっていた

小屋で昼を迎え まずはビールの小缶、、、腹に収まったところで
湯を沸かし、カップヌードルに注いで、オニギリと漬物とでお昼とした
漬物はこの時のために3日前から漬けておいた 自家製は旨いのだ

下草刈りのおじさんたちがやって来て お弁当を一緒に、楽しみを同伴する
「須川の自然を考える会」のお二人だったが 1時間も四方山話に花を咲かせる

昼を終え小屋を出たのが12時半、栗駒山頂へは1時半を回った頃にようやく
帰路は須川コースをとった、須川温泉駐車場には3時半についた
すでに大腿筋はパンパンで 足の甲にも少し痛みが出た

一年ぶりの重登山靴で 少し悲鳴をあげたかな? (´艸`)
心地良い 秋迎え山行となった


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彼らとの四方山話・・・
話の流れで古道の話になり 秋田院内銀山と藤原氏の関係から始まって
安倍一族の支配地域は横手金沢の柵 盛岡の厨川 南は北関東まで
広大な地域を支配していた地方豪族だった というよな話であったが、
その後 藤原氏の時代に秋田銀山との往来に使われていただろう、この栗駒の真湯コース
祭畤マツルベに抜け 厳美に下った・・・ なんて話を一くさり聞いていた
時代年号が ぐちゃっと一緒くたになってはいたがw 面白く聞いていた

彼らは一関市の委託で小屋から真湯までのコースで草を刈っていた。
このコースも岩手宮城内陸地震で地崩れし、今現在も通り抜けできていない
今回、この真湯コースを新規に補修し来年以降に整備されるとのこと


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笊森を正面に赤い屋根の避難小屋が見える
ここが産女川の源頭になる

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小屋の北側に回って 端山(真湯)コースから山頂を眺める・・・


笊森といえば産女川(ウブスメガワ) 産女といえば美渓といわれてきたが
内陸地震で 崩れたスラブ壁が滑床を埋めてからは、、、行けていない

25年前、仙台に戻って当会に入会した頃 
会山行は「栗駒特集」だった

その頃、産女川には見張りの人たちがいて ピケをはって立入が禁止された 
ブナの森への立ち入りも 産女川入渓も遡行もままならなかったのである
特に産女橋のところで 渓流釣りの人は入渓を完全に拒まれたりしていた
「ブナの森を守る」=「立入禁止」、、、
その極論的考え方が「須川の自然を考える会」の前身だったように思っている
当時 地元の見張りの方に止められ、入渓時に口論となった当会々員も出たほど


”森に親しんでこそ森を守る意味を実感する” 

というのが我らの主張だったが
岩手側の「保護運動」には権益が絡んでいるのでは?
と訝るほど一も二もなく立入禁止!

今でこそ普通に自然保護という言葉や活動自体が 日本に広く認知されているが
自然保護運動の初期段階においては、運動そのものの「歪み」は各地にあった 
白神山地もそれに含められるが、産女川入渓問題にもそんな時代背景を感じた


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山頂手前から笊森までの斜面を振り返る 
もうすぐ 真っ赤に染まる



当時、25年ほど以前、同時並行的に市民運動は全国で盛り上がりを見せ 
資本の投入による自然破壊 国家絡みのダム建設問題 大規模ブナ林伐採
などに反対し 全国で自然保護運動が深化し浸透した時代背景がある

「立木トラスト運動」は仙台市蕃山の造成工事を止めさせ、
「船形山ブナの森保護運動」も広く支持され始めた
だが そうはいっても、栗駒山では「権益」が絡む?異質な土壌を感じ取っていた

産女川の入渓問題にあるように 岩手側は同じ運動でも「裏」があると思われた
考えてみれば「小沢帝国」の影でもあったのか? 当時、石淵ダム建設は表に出ていなかったが。
昔の旧石淵ダムの右岸近くに 小さな石淵温泉があった時代の古い話だ 

そうやって 僕らの若いころは自然に親しんだ 
そのかたわら自然保護運動にも参加した
バランスの取れた山岳会活動をしていた 
「山は総体だ」という考えが基本にあったから。

山を消費の対象とし、ワハハ、オホホと親しむ今の世とは 
山への向かい方が違っていた ま、昔は何事にも「ひた向き」だったのだ

栗駒の宮城側、大地森の「クロベの森」保護運動は当会の佐野さんが「保護の確約」まで奔走した 
今でこそ 皆さんは山スキーで「1000年クロベ」を訪ねておられると思うが・・・ 
そこには 自然を護るという潮流があったからこそ 楽しめている今現在があるわけ。。。

当時、栗駒耕英地区の養魚場の数又さんらは 我らの活動を理解もし支持もしてくれていた



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一関市ではこの笊森避難小屋に泊まる際には申請をしてほしいような旨を
述べてるらしいが・・・避難小屋の性格上 それはできない相談だと思う

それから・・・話のおしまいに 小屋の委託管理人が今年お亡くなりになり 
これの小屋終いも 「須川の自然を考える会」がすることになった とこぼしていた。


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山頂から宮城の栗駒山麓を見下ろす



以下に、「紅葉狩り」にむけた笊森(ザルモリ)コースの道案内をする・・・

須川温泉から登り名残ヶ原を過ぎ 左手にゼッタ沢が見えてくると笊森分岐(苔花台)
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ここが笊森分岐(苔花台)・・・右へ須川コース 左へ笊森コース
標識通りに左へ折れ ゼッタ沢を渡渉する
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次は、水量の多い「三途の川」をわたる

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産沼ウブヌマにつく
ここから僅かで笊森避難小屋分岐となる
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ここが産沼分岐
栗駒山頂を目指すなら ここを直進する笊森コース なだらかだ
笊森避難小屋へ向かうなら左折する 道なりに900mほど
途中に 泥地が2箇所ほどある

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途中、磐井川源流の水場あり 
小屋で食事を作るならこの水場で汲んでゆく

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チョウジギク
産沼分岐から500m、藪化した東栗駒山への沢道を右に見る
笊森避難小屋へはこの沢を横切り東進する 

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産女川源頭部

笊森避難小屋付近の刈り払い 藪に隠れた道形を起こしている
道は笊森に向かうが、稜線まで上がらず笊森の右肩、産女川左岸を辿る
桂沢までは6kmほど


今夏の台風のせいで 道々ぐちゃぐちゃの箇所もあったが、、、
須川コースと違って 笊森コースは段差や岩ゴロが少なくて歩きやすい。

次回は・・・
 秣岳から登って栗駒山を経由し笊森避難小屋に泊まって翌日下山する
ちょうどよいコースと宿泊が得られる オススメである

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色付いた名残ヶ原




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by tabilogue2 | 2016-09-17 20:46 | 栗駒山 | Trackback | Comments(2)