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この栗駒山の「千年クロベ」は樹齢1000~1500年の推定。このクロベは1本の幹であることがオンリーワンの特徴だ。「全国巨樹巨木林の会」に今まで登録されてきたクロベの巨木は「数本の幹が合わさっている」ものばかりであるが、栗駒の千年クロベは1本で幹周り9.4mという比類なきもの。つまりはナンバーワンなのである。このクロベの発見は1998年の冬で、初計測は2000年5月(YMCA山岳会運営委員長:佐野豊)、初公表はYMCA山岳会(会長:深野稔生)による。当時、新聞紙上には場所やルートを特定せずに発表した。後日、案内看板の設置 普及パンフなどは宮城北部森林管理署、宮城県経済商工観光課、栗原市産業経済部の三者の内、世界谷地を観光資源とする当該受益者=栗原市の責任で設置、作成したものが多い。

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クロベ太郎


古の道、栗駒古道の一つ、湯浜街道(ユバマカイドウ)を歩いてきた。羽後岐古道(ウゴキコドウ)とも言うらしい。気仙沼からの海産物が運ばれ珍味の”ホヤ”が国境いを越えて小安から成瀬川沿いに湯沢十文字に入ったらしく湯沢方面では”ホヤ街道”とも呼んだ。

「羽後岐」の名からして、この街道の何処かで分かれるもの?と想像する。仮に「文字越え」(モジゴエ)を岩手の「萩荘」(ハギショウ)へと辿ったとすれば単なる想像も現実と符合させうる。つまり空想や妄想ではなくなる。その昔、藤原秀衡に匿われていた義経は藍染で有名な「文字」から「一迫」の一帯まで遠駆けしていたそうだから連絡路はあったようだ。どこかで街道は分岐する。羽後岐の「岐」はどこか…?(”奥州藤原”の話なら旅館くりこま荘の館主菅原さんに尋ねれば消化できないほど伺える)

もう一つ素朴な疑問だが… 道や沢が2つに分かれるのと、3つに分かれるのとでは使用文字が違うと自分は思っている。2つなら二股 二俣 二又であろうし、3つ以上なら ディストリビュート的な「岐」の文字を宛てがうのではないかと思ってもいる。 ここでは檜枝岐と同じ「岐」という字を使っている。檜枝岐なら 群馬の沼田にも抜けられるし 栃木の日光奥鬼怒にも抜けられるし 新潟の栃尾又にも抜けるし ダム湖に沈む以前は大津岐峠から田子倉・只見にも抜けたようだ 木賊・湯の花にも抜けられる。まさにディストリビュート的な役目の宿場なのだ・・・、国語的にはどちらも「マタ」と呼ぶけど こだわれば「違う」はず、、、それ故、「三つに分かれる道」にこだわって推考してみた。「第一義の仮説」である。


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手前に大地森 奥に駒の雪形が鮮やかな栗駒山の御駒山と最高峰大日岳


話は変わるが、、、街道名というのは…例えば「奥州街道」の場合は”主たる江戸から従たる陸奥へ”と人や物が流れていく… そのように名付けられた。そう考えると、江戸を背にし目指す方を向いて…陸奥に向かえば「奥州街道」となり、江戸から日光へは「日光街道」、日光から会津へ向かうと「会津街道」だが、だけど?、反対に会津から日光へと向かうと「日光街道」と名前が変わる…だから複雑怪奇、ややこしくなる(´艸`)。福島から米沢に向かうのは「出羽街道板谷峠」 国見から七ヶ宿街道を通れば「羽州街道七ヵ宿」とかなり複雑になる。藩政時代と明治維新とで縦軸・横軸が乱れて呼称もわからなくなる。

「羽後岐」の場合は 主たる陸前側から従たる羽後側へ人や物資が流れる という理解で良いのか? だとすればこの「羽後岐」という街道の名は陸前側が羽後側を指して命名したと考えるべきだが、、、そうなると、羽後側に分岐する道があるはずだが?しかも3つ。 柔軟じゃないけど、この仮説が後にドンデン返しを招くこととなる。逆説的なのはショックだw。

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揚石山(アグロシヤマ) 昔は上げ下ろし山(上下山)とも書いたそうだ。今日のガイド役、「栗駒の自然を守る会」の副会長、佐藤(定)さんからの聞き覚え。世界谷地から大地森南部近辺と揚石山の間を万坊平(マンボウダイラ)と呼んだ…らしい。佐藤さん曰く、「僧兵がうじゃうじゃいた」の意味だそうだが、(私はその文献等を拝見していない。確かめてみたい)。大地森南麓と揚石北面との間、木立に2軒「お助け小屋」があったと言われる、大地森、田代沼にも。これは近代史に記述があり「史実」である。


宮城側からの峠越え、一つ目は…なんとさらに、下道と上道の2つに分かれるという資料読みの結果だった。岩ヶ崎から「文字越え」して二迫川(ニハサマガワ)沿いに寒湯番所-湯浜-花山峠を越えて秋田側の皆瀬川沿いに「小安街道」へ、別名:下道 明治15~16年に開削された。岩ケ崎から大地森の南にある杉が植えられた「お助け小屋」を通過し-万坊平-湯浜-花山峠-「小安街道」へ、別名:上道。これは藩政時代からあった道で まさしく本日歩いてきた「古の道」であった。

二つ目の峠越えは一迫川(イチハサマガワ)沿いに花山から寒湯への途中、越戸から上沼、国見峠を越えて鬼首地区に入り、荒雄岳の北を巻くように流れる江合川の支流、仙北沢から国境いを越えて秋ノ宮へ さらに役内、院内へ下った。沢の名前も「仙北沢」なので秋田仙北郡との”道行の沢”(ミチギの沢=峠路に用いた沢)として大崎と仙北の交易に利用された。

三つ目の峠越えは三迫川(サンハサマガワ)に沿って東栗駒山を越え赤川沿いに湯沢十文字へ向かう道。これは「御室の沢駆け」コースではなく、ずうっと耕英地区の下、行者滝辺りから裏沢-東栗駒山の西鞍部を越え、笊森-真湯道と合わさって赤川に下りている。この辺の資料は柴崎先生の著に出ている。 というわけで、、、宮城北部と秋田との物流、商流の道が大きくは3つ、小さくは4つ数えることができた。

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臍下谷地


もう28年も前のことになるが…、YMCA山岳会では「栗駒山の全流域・踏査」を行ったことがある。その頃、深野さんから以下のように教わっていた。「なぜ 世界谷地などとオーバーな名前を付けたんだろうか?」という会員の素朴な疑問に、彼は既に答えを持っていたようである。もともと湿原のことを「臍下」「谷地」(セイカ、ヤチ)というようだ。彼は既にその「一般的(?)表現」を文献上で拾っていた。

ただ、地元としては「臍下」という呼び名では栗駒観光には活かせない、「格好」が悪い…と云うので「臍下谷地」がいつの頃か(たぶん戦後、第1次登山ブーム時代?)「世界谷地」に転化した。なぜ「格好」が悪いのか?といえば、”臍下丹田”などという言葉どおり 臍下とは「ヘソの下」のことで「湿地」「谷地」を指す。淫語ではジメッとする「女陰」「ホト」を意味する。きれいな湿原が”女陰”じゃどうにも「格好」が悪い、観光の妨げになる…ということで「臍下」が「世界」になったようだ。これには会員一同納得したものだった。

こんな淫靡な話は山ではよくある、例えば二重山稜の地形ゆえに尾根上に湿地を持つ山…例にあげれば、南会津の黒谷川沿いにある二重山稜の山といえば”火奴山”(ひどさん・ほどやま)が有名だが、まさに「女陰」の淫語”ホト”がそのまま山名になっている。他に 会津志津倉山では「細ヒド」コースがある。或いは七ヶ岳の「程窪沢」とか・・・探せばたくさんある。会津では「ヒド」といったり、福島では「ホド」とよんだりしたが 一般的には「ホト」と読む。

とまあ「臍下谷地」から「世界谷地」への転化、その成り立ちを、今じゃ珍しい言葉を使って当ブログに書き遺した。インターネットとしては「初公開のネタ」になる。初めて眼にして妙に納得のいった方も居られたろう。このネット時代にブログにしたためておかないと「因を含んだ言葉」が闇から闇へ葬り去られてしまう。50年も歩いた中で、山に関する些事や言説はこのボケた頭にほどよく備蓄されている…が、呆けて取り出すのに少し手間取る(´艸`)。また、「世界谷地」は古くは「八ツ頭原」といったそうである。水芭蕉を里芋の葉と見做したのかな? それでも「世界谷地」と称したのには深いわけでもあるのだろう。観光産業の芽生え? これも付記しておく。

仙台YMCA山岳会というのは徹底して「沢遊び」をし、単にフィジカルに登るだけじゃなく「総体」として山をとらえ、山を「学び」の場にしていたんだなぁ…と、今さらながらに思った次第である。


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小関代表が覗き込んでいるものは・・・???

それはともかく 宮城側の何処かに荷物の中継・分岐ができる「飛脚便」のような荷の受継ぎ所があったのだろう。となれば…岩ヶ崎か? 大きな集落で、峠越えの人足や牛馬が斡旋されていたと見るのが常套だろう。街道筋の便利が良くなれば良くなるほど…木賃、駄賃も多めに落とされる。その運送業を「背負子」(ショイッコ・強力)と呼んでいた…、背負子は4,5人で団を組んで歩いたという。旅人や商人たちをも案内しながら往き来した。ますます町の潤いは好循環となる。話のついでだが秋田側の中継所は御番所のある小安温泉、各旅籠で秋田の商工品との取引が為されたそうだ。背負子の強力たちは商人のセンスを持っていないと務まらなかったろう。

栗原の「史談会」に尋ねたら私の幼稚な疑問は一度に解け、答えは明解だった。番所の一つは岩ケ崎・沼倉木鉢(キバチ)に在り検断屋敷、もう一つは文字・柿の木に在り、他に花山の寒湯番所(ヌルユバンショ)もあって羽後岐街道の荷駄を管轄したとある。羽後岐街道の番所は3つ。これが「岐」を考えるヒントだった。答えは…「秋田側から宮城側を覗う」と出てくるのである。羽後岐街道は秋田側から国境いを越えて宮城側に入ると三分岐して径が続いた…と考えれば解りやすい。だから「岐」と付くのだった。これがドンデン返しの大本だった。中でも「岩ヶ崎・沼倉」の街道は繁盛し、太平洋へも延び、沢辺(サワベ)を通って石巻まで…とも。ネットじゃなかなかサーチできなかった。宮城側にあった4つの交易道のうち、羽後岐街道としてはそのうちの栗駒山寄りの3つを指すという結論だ。宮城・大崎から鬼首を通る仙北沢道はこれら羽後岐の「岐」から除かれる(行政区が違うから)。これでスッキリ!した。


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鉞(マサカリ)山神さまでした。背負ってきたんでしょうね、、、この石像


秋田側の峠道に関しては 一つは皆瀬川沿いに田代沼-板井沢-大湯-小安番所-稲庭-川連(カワヅレ)を経て湯沢十文字へ。上流部にある春川、虎毛沢、赤湯又沢などはYMCA山岳会在籍時代にさんざん通わせてもらった。二つ目は栗駒須川の龍泉ヶ原を源頭部とし小仁郷沢-赤川-成瀬川へ、途中の手倉(手倉越え)で胆沢からの仙北街道を併せ増田へと下る。あれほど綺麗な湿原:龍泉ヶ原を上部に戴くが小仁郷沢、大仁郷沢と赤川の合流地点は硫黄を含む灰色の泥が堆積していた。月の表面?みたいに沢の中が一面灰色だった。数十センチも泥濘んで歩き難い地点でもあった。いづれ栗駒を源頭部とする皆瀬川と成瀬川の2つは増田で合流し湯沢十文字へ下る。もう一つは仙北沢から秋ノ宮の峠を超えて役内川沿いに下り、院内、横堀、小野へ。というわけで 逆に日本海側の海道からは松前の昆布や京都の衣類・紅・技巧品、地産の川連漆器、稲庭饂飩などが陸羽の国境を越え宮城側に入る。これが「寒湯街道」(寒湯番所)、「文字越え」(柿の木番所)、「岩ケ崎街道」(沼倉木鉢番所)と分岐するので3つに分かれた「羽後岐」街道となったのである。宮城大崎との交易幹線である役内川-鬼首越えはそれに含まれない。これで「仮説」がやっとスッキリした。

所感・・・
宮城側で3つに分岐するというのは「羽後側で付した」街道名と考えればなお分かり易い。考察に際し、既成概念をもって臨んだので混乱してしまった。てっきり宮城側が秋田側の峠につけた名称だとばかり思いこんでしまった。なので、地形図で秋田側の一番通りやすい沢筋を追ってはみたが、成瀬、皆瀬の2つまでは数えられても、3つ目はなかった。一端の沢ヤとして沢筋を追ったがどうしても湯沢十文字への道は三口にならなかったのである。一転、宮城側は一迫川、二迫川、三迫川とで三口になるのである。さらに二迫川は湯浜で寒湯筋、文字筋、岩ケ崎筋と三筋に分けることができる。この分流を地図で理解するのにまる2日もパソコンの前から離れられずにいた。いずれの道も同じように「羽後岐街道」是也というのだから公平感があっていいにはいいけどw ま、百聞は一見にしかずの調査だった。羽後という名称は陸前から見ての言葉だから、てっきり羽後側にこそ三口に分岐する道が続くものとばかり思ってしまった。固定観念が強すぎ「思考狭窄症」に陥ってしまったようだ。


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さてと… 「道」の起源は生活のための仕事道である。標高の上げ下げに無駄のない一筋の山菜・ゼンマイ道だった。それが古くは坂上田村麻呂と地方豪族阿弖流為(アテルイ)との戦いに軍用道として人馬が通り、「手倉越えの仙北街道」(胆沢から皆瀬への道)も同様に「後三年の役」に胆沢の拠点から発せられ雄勝砦の応援に向けた義家軍勢の軍道として利用し踏まれた。時に権力者の道となり、また黄金の道として雄勝の銀山と平泉の砂金とを結んだ道になり、明治になって山師や鉱山夫も通る。鉱山で賑わえば 遊女も通い、茶屋で賑わう街道となってゆく。この千年、人が歩き牛馬に荷を背負わせ往来し、宿場ができ、やがて番所が設けられ、庶民の物見遊山の街道にもなったことだろう。だがその道も 明治になって鉄道が敷かれ始めると要筋を終えて草むらに覆われ廃道と化してゆく。 諸行無常の流れにある。

「前九年の役」では源義家の軍勢は安倍貞任軍に大敗を喫し劣勢だった。出羽国からの清原勢が15000の大群を率いて義家に加勢し 栗原上野の屯ヶ岡(たむろがおか)にて待つ義家軍と合流。その清原軍合流後 安倍貞任を討取るまで僅か2ヶ月とされる。その際、秋田からの清原軍が歩いた道は「鬼首道」(仙北沢)とされる。この湯浜街道は「前九年の役」では使用されていない。ちなみに「後三年の役」で清原軍を応援するために義家軍勢が歩いた道は 主に胆沢城から「手倉越え仙北街道」を通って秋田湯沢に入ったとされるので「後三年の役」でも湯浜街道は用いられていない。 七ヶ浜のSさん ご注意あれ。。。

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大地森の裾を南から西へと半円を描くように巻いて横断している


今日我々が辿った古の道はブナやミズナラが隙間なく立つ緑濃い道。それらは栗駒古道といわれ、今に歴史を尋ねる道として語られ歩かれている道である。道は栗駒山の山頂近くを通る道と栗駒山の裾を通る道があり、昨年の秋に、栗駒山の山頂部を通る古道の一つ「笊森」と「真湯」を結ぶ道を歩き、昔人の通った道に思いを馳せた。もしかするとそれらは 義経が弁慶を随い逃げのびた道かもしれぬ。日本海側の海道から奥州藤原の郷に帰還する山道へと何処かで接点を持つ古道だったやも知れない。そして今日、栗駒の裾を縫うようにして通る「湯浜の古道」を我々は訪ね歩いてきた。

「山なのに、どうして浜なんだろう?」…還り道に七ヶ浜の Sさんから「湯浜の謂れ」を尋ねられた、、、帰宅後、湯浜に関しても色々と調べてみた。湯浜温泉・湯主三浦家の系譜からも追いかけた、また地名からも追ってはみたがそれらしい答えは出なかった。栗原市の教育部にも尋ねた。そちこち調べていただいた挙句、答えは私と同様「わからない」であった。湯浜は湯破魔ともとれるし、湯浴みすることを「湯をはむ」ともいうので、湯喰む、湯ばむ…湯ばま という迷解wも考えた(´艸`) ごめんなさい わかりませんでした。

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大地沢の渡渉点 ヌルっと滑りやすい


今日の催行は「船形山のブナを守る会」の観察会だったが、ご当地栗駒の「栗駒の自然を守る会」の副会長.佐藤(定)さんのガイドを得て歩いてきた。前回5月は「仙台のブナ林と水・自然を守る会」の佐藤(雄)さんの案内だった。それに今年3月の観察会では「船形山のブナを守る会」の千葉さんの案内だった。こうして自然に親しみ自然保護の理解を訴える団体のネットワークが構築されているようだ。

今日は贅沢にも、キスゲやレンゲツツジ、ワタスゲの花が揺れる世界谷地を巡り、時折 樹木の種類を学び、山菜採りの真似事をし、街道の証しを案内されながら歩いてきた。目的は「千年クロベ」と銘打たれたクロベ(ネズコ)の巨木を観ることである。僕にとっては17年の時を経て再びクロベの森に接する山旅でもある。


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クロベ花子


だが・・・事前の期待感とは違って結果は意外なものだった。かつて白い雪原にこんもりとした「黒い巨木の群れ」の印象があまりに深く心に残っており、今日見た笹藪の中に立つそれらは 17年「抱き続けていた印象」と大いに違って、いかにも『貧弱』?『困窮』そうに思えた。 

一晩、その理由を考えた。その謎解きで得た理由は・・・17年前、YMCA山岳会の山スキー山行中に雪原の中、吹雪の中にこのクロベの森を発見した。それはそれはとてつもなく大きな巨木たちでモノトーンの世界に赤い樹皮を露わにしていた。写真に撮ればどの雪面からでも、いかなる角度からでも立派なスケールで全容が画角に収まるほどだった。巨木たちとモロに向き合えた。視界には気を散らすモノは雪に覆われ、我々は心から巨木との対話を楽しむことができた。厳冬の雪原に立つ孤高の巨木こそが心の中に「絶対」としてあった。再見してみて藪の中に立つ姿に憐れみを覚えるほど今日のクロベは輝きもなく赤い樹皮もくすんで見えた。かつて、凍てつく白い季節に彼らの前に立てたことは一期一会の出会いだったんじゃなかろうか・・・。「秘匿され続けた神秘性」を失った今、「絶対」であった巨木の印象は180度変わるものである。



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クロベ花子


発見から今年に至るまで 冬になると栗駒耕英地区の「数又養魚場・イワナの館」に寝泊まりし そこを起点として”大地森~内院”に冬の企画を組んで遊んできた。「クロベ太郎」「クロベ花子」と愛称もつけられ見守ってきた巨木たちではあるが その当時の印象が最も彼らの輝かしい姿だと思っている。またそれは、何者にも移し替えられぬ姿で私の内に生きてきた。山岳会活動が充実し盛んであったからこそ…この世に初めて紹介できた という”妙な自負”があるにはあるが、反面 世に紹介し千年の眠りから覚醒させてしまったという自責の念と、その彼らに防護柵の一つも建ててあげられない「無為」という罪をただただ申し訳ないと思ってもいる。専ら「懺悔の17年間」でもある。

むしろ今後どう保存するかが鍵となる。登山ブームが過ぎ去るのを黙って待つか?、縄文杉のように環境省を動かすか?、何らかの手を打つように宮城県北部森林管理署に要請を出すか?。今後、自然を愛する者たちの『意図』になるはず。今日も今日とて 幹周り9.4m 樹皮表面周り9.7mと17年前に計測された既知のデータを無視し巻尺計測を始めていた。私はそのようなパフォーマンスは無用と考えている。むしろ、巨樹の根本に立ち入る行為は自然樹の養生を考えれば ”以ての外”の振る舞い。元来、立ち入りを禁ずべき囲いがあれば為し得ぬことである。。。気づいてもらいたい。。。「自然保護を訴える会」の観察会であれば「心得」を事前に喚起すべきであったのでは?とも思う。反省である。


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樹皮に見る何十何百もの幾筋。。。


今日 ガイド役を買って出られた「栗駒の自然を守る会」の佐藤(定)さんがいいことをおっしゃっていた。要約すれば「山は総体だ」ということであった。私と同じ考え方をお持ちのようで、そんな彼に共感を覚えた。古代と現代を繋ぐ道として千年以上歩かれ続けた道をこうして我々が今日歩けたことに「知的な学び」を感ずるものである。企画をされた「船形山のブナを守る会」に感謝である。千年を生きぬいて来た巨木に触れることで 少しは自分の生きてきた60年の道のりを考える良いきっかけになったかなぁ…と省みる。 
次回、来年の観察会は一泊山行として桑原山塊を提案したい。YMCA山岳会では大胡桃 小胡桃 栃ヶ森 大薊 桑原山近辺は沢を繋いで歩いているが、縫い集めたような”仙北街道”を秋田側か岩手側かいずれかを歩いてみたい。沢屋は沢しか見ない…悪例をもつ。アプローチしながら ブナの森の古道から現代を考えていく・・・生活に必要なものが有りさえすれば「自給自足」は最低でも賄えた昔、どこでどう狂ったのか?この日本、経済と軍事とが先行すれば余計なものに行き当たる。それを安倍語でいえば、「ズブズブの関係」とでもいうんだろうか。


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by tabilogue2 | 2017-06-19 08:01 | 栗駒山 | Trackback | Comments(0)

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このあたり、高低差のある雪庇が続く。 この雪堤をどこまでも登り続けると 後白髭。
下空沢の稜線上に着ている。今日は1077m、頂上まであと2キロ地点を最高点とした。



今日は「ブナを守る会」の観察会 2回目の参加。場所は船形山系の後白髭山。四輪駆動車がないので定義林道を乗合で行ける企画は 僕にとって凄く楽しみ。今日の参加メンバーは19人 前回の北泉ヶ岳とは違うメンバーが半数ほど? 前回と合わせて全部で30人ほどと知り合いになる。名前がまだ空覚えだけど(m´・ω・`)m ゴメン…あらためて、200人ほどのサポートメンバーだそうで 緩いけど凄い?集いですね。

今日の目的は「雪堤」見物。仙台から残雪が白髭のように見える後白髭の山容。その白髭のように見える雪提そのものを実地見物することが今日の目的。白髭の謂れは 山形の白髭神社が大本らしいと”深野”本にも出ていた。ヒゲの文字は「顎鬚」ではなく、「頬髯」でもなく、「口髭」の髭・・・( ^ω^) 25000図では「白髮」と記されている。どうみても「シラヒゲ」とは読めない。むかし国土地理院が間違えて「髪」と誤記してしまったという。白髭山も後白髭山も名誉を回復されないまま現在に至っている。

屋敷平からではなく その上の定義林道を一段駆け上がった地点からのアプローチ。夏道は林道の下半分を車で通過し二段上がった「4キロの看板」から登っていたが 今日はキッチリと下から登った。これで定義コースの未踏部分がなくなったw。 次回、登る時は屋敷平から車を使わずに「県内最高の標高差1044m」を徒歩で味わおう。




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この辺り1000m まだ新芽が吹いていない 雪堤上で立休憩するブナの会の会員さん達


この雪提に乗るまで 道々にはコシアブラがたくさん! タラッポがたくさん! あった。天婦羅で、日本酒で一杯・・・妄想が脳内を駆け巡りつい採りたくなる

福島第一原発の核物質拡散事故から6年が過ぎ 今は原発事故の恐ろしさが薄れてきている頃合いだが じつは「コシアブラ」はセシウムの取込みが 他の山菜よりも多く て思わぬ測定結果が出ているとのこと。・・・ ”net情報”から・・・セシウムとカリウムの性質が似ていてコシアブラがそれを必要栄養素(チッソ、リン、カリウムなど)としていっぱい取り込むから…だそうで、セシウムを吸収する「チャンネル」の量に差がある事による・・・。なるほど だから…コシアブラだけが他の山菜よりも多くセシウムが検出されるわけだ。コシアブラ同様、キノコの仲間もセシウムを効率よく吸収する「チャンネル」を多く持っているようで「セシウム多検出」となる。秋のキノコも 採取はヤバイということになりそうだなぁ・・・。

隣県、山形でさえセシウム134とセシウム137とが大量に検出された。最上地区の件り・・・。どなただったか?新庄神室登山で地竹汁を食べていたみたいだけど…?(排泄も最上地区で済ませてきてくれ 笑)最上地区、山菜出荷前検査での検出結果だという 恐ろしい。奥羽山脈系なら宮城県も「同等」だ。「気楽に採取した山菜天婦羅…」、体外排出後も核物質が浮遊するので食べない方がベター。ご近所にお裾分け??? とんでもない!!! 配ってはダメ!!! 拡散は禁物。子供に食べさせては 絶対ダメ! 「甲状腺被曝」問題がある…絶対ダメ! お孫さんをお持ちの家はダメ! 目に見えないものだから、、、つい…。 一旦多く取り込めば… 近い将来、遺伝子的に影響が出るものと思って「家庭内持込み」は回避しよう。ベトナム戦争の枯葉剤散布でさえ多くの奇形が現出しているじゃないか(ベトちゃん ドクちゃんの例があるじゃないか)、大人たちが神経を尖らせないで 誰が子らを守るというのか?…ということ。

福島浪江町での山火事が起きた。融点が摂氏28度といわれるセシウム、山火事などが起きたら大気に気体ガスとして溶け込み風に流される。近隣住民の内部被曝に関しては留まることを知らない。大人が知恵を働かせることを怠れば 孫や子らの被爆は山菜どころの話ではない。

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ちなみに原発事故後、福島の甲状腺ガン罹患者数は(プライバシー問題云々で)明確に発表されてはいない。じつは確実に罹患者数は増えているんじゃないの?という疑問がでている。政府も「5年後の数字」を発表したらどうなんだろう? 
実際、福島での一斉検診データによれば、2015年時点で子ども達に1巡目で113人、2巡目ですでに25人、計138人の「甲状腺がん」罹患、または疑い。 2001年から2010年のデータの男子は90倍、女子は52倍とされた時点からさらに増加しており、事態は深刻のはず。いまだ中間の2011年から2016年までの「5年間の経過データ」は環境省による発表がない。チェルノブイリでも大きな社会問題になっているのだから この日本でも現出しないわけがない。
環境省は数的情報を積み上げているというが、もし正確な罹患者数を発表したらブーメラン効果で「自主避難者の正当性」を認めることになる。未発表の理由は不明、というか「怪」。


来週、三峰山の「山菜山行」の予定だが、コシアブラとキノコは「食べないのがベスト」「採らずに過ごすのがベター」な選択。Sさんから5月12日現在の青葉区定義で採集コシアブラを 測定依頼した際のデータが別紙にて示された。それによると セシウム134が34.3ベクレル/kg、 セシウム137が175ベクレル/kg、 合計で209.3ベクレル/kgというデータが示された。宮城野区役所6階にある測定所に持ち込んでの結果。一般食品の基準値は、100ベクレル/kg以下ということだから 約2倍の値になる。”今日の強烈な「セシウム情報」をお知らせしました”…ですと。壊れた原発から南風に乗って飛んでくるセシウム、完全廃炉になるまで、夏季はわいた羽虫のように飛んでくる 収まるはずがない。まいっちまう 原発。。。


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ランチ後 帰り足ですが雪提は続きます


今日も アカデミックな観察会だった。 山ヤは山ばかり見て 沢ヤは沢ばかり見て 釣師は魚影ばかりを追って 山と関わっているが、いづれも山の捉え方に偏りが見られる。「楽しさを求めることばかりが山じゃない」ってこと。山に行く途々で登山行為とは別の観点・基準で山を振り返り観ることの重要さをこの観察会で教わった。今まで半世紀、山に通ってきたのに…いったい何を学んできたのだろ? 見返りでのショック!? 痛いほど我が身の「着眼点のズレ」をさらけ出し、その代わりとして新しい知識と考え方を心地良く教わった。

ある種、50年も登山行為で親しんできた「自然」をより総体的な「暮らしの中の一概念」として探ろうと筋書き。つまり山は 日常生活とかけ離れたところにあるものではなく、また精神の浄化作用をもたらすための特別な地域・環境でもなく、日常にある普通の生活と常に接続するものとして位置づけられている…ということだろうか。

それで何が見えてくるのか? 過去に為された事柄が現在そして未来にわたり暮らしにどう関わっているのか? さらにこれからどんな影響が出るのか? そう考えると… 単に フィジカルに沢を、単に 雪山を「消費登山」していただけじゃないか・・・単に ブナのもつ柔らかさに憧れ 単に その情念に身を任せ 単に ブナの森の懐に寄り縋っていただけじゃないのか? 山歴だけは50年の身ゆえに、自省の嵐が吹き荒れる。

300年、400年と生きるブナたちを… 山に常備された置き薬のように「在って当たり前」なものとして、今現在の断末魔に単に過ぎ去る「背景」として、、、見てるだけ?って…問いかけられた。実はそこに「政治」が大きく関わっていた…、ということを見逃していた。それらのもっと根本的な問題が「ブナの森から社会に向けて発信されている」ということが見えてくる。そういう立場で ブナの会の「観察」「学び」の見学会にこれからも参加していこうと思う。 

しょせん、一階の住人にはニ階の住人の暮らしぶりなど見えないものだ、、、上には上がいる その一言だった。「船形山のブナを守ろう」「仙台の水源を守ろう」と行動を起こした先達がいたから こうしてブナの森を我々は歩くことができる。またしても開眼させられた。ほんとに感謝し、皆さんの博学 深みのある知識 行動力に感服している。。。 

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今日のチーフリーダー Sさん 「仙台のブナ林と水・自然を守る会」幹事
90年代当時、彼らの「皆伐反対運動」のお陰で、我々はブナの森を楽しんでいられる、「感謝」の一言である。
 
2週間前に下見に来た時と違って雪の後退が早くて驚かれていたようで。
それにしても担当者は 下準備 ご手配 ご苦労様なことです。

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最近、テレビのニュースに「熊と一緒に出演」されている後姿の彼・・・(笑)ブナの葉に関しても ヒトクサリ持っておられるようで、黙ってここは伺った。「ブナ林に霧がよく発生する」、その訳は?という小噺。 構造的、科学的な論拠だ。それはブナの葉に関する考察、知識がある故の説明でとても解りやすかった。

ブナの葉の表面は水を溜め込もうとする構造になってるそうだ。まずは全体が「繊毛」に覆われ 葉の上の水滴を溢さず、繊毛の内側に溜め込む能力があるとのこと。コレは解りやすい。それともう一つ、ブナの葉に秘密があるそうで、、、くるりんと「U字」になっている葉の形状 更によく見ると ブナの葉の縁(フチ)は波を打つように出たり引っ込んだりを繰り返して先端に向かっている。で、波の引っ込んでる部分の縁にちょうど葉脈が当たるようになっている。容易に水滴を葉脈から葉のフチに流し落とさないため だそうだ… で 樹幹流につながるワケ。

U字と繊毛と葉脈、これらが葉に水滴を貯めており、それが水蒸気となりブナ林内を霧に包んでいる という説明。保水性の高いブナ。伐採したら山全体の保水力を失ってしまう という論拠の一つはココにある。100年かけて幹周り50cm ゆっくりと育つブナ。平均寿命は300年。その一本の木で約8トンの水を蓄える。根は複雑に絡み 天然のダムと言われる由縁。土壌の崩れも防止する。だから「皆伐」はいけない。だから「ダム建設」も要らない。。。林野庁お抱え学者によって、ブナは利用価値がないだの、曲がり易くて木材としては扱いにくいだの、さんざん言われ続け「皆伐の根拠」にされてきたが・・・、環境との関連で説けばこれほど市民に密着した、理解しやすい樹木はないのである。

熊で一躍「時の人」になった彼だが、熊以外の知識も相当に備蓄されてるようだ(´艸`) 


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「ダウンバースト」・・・いつぞや、日本中がこの話題に席巻された感があったダウンバースト。
この船形山系でもこの辺り、標高700mあたりにその痕跡を見た。

「ダウンバースト」下降気流・・・下降してきた冷たい空気は地表にぶつかり秒速30mから50mという横風になる。
その横風が通過したという痕跡。このあたりの「大量の太いブナが折れ、倒れて林が明るくなっている」という説明があった。
気象条件の凄まじさを目の当たりにした。これも今日の話題の一つ、教えて頂いた。ほんと毎回 山知識が深まる。
参加に有意義を感じる。

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「樹幹流」 よく雨の日に ブナの幹を雨水が伝い流れ落ちるシーンを目にする
それが樹幹流(じゅかんりゅう)だそうだ。この言葉自体を初めて知り 
この「ウダイカンバ」の木にも樹幹流の流れが幹を伝って滴れ落ち 白い泡となっている
、、、これらの現象を教えていただいた。

そういえば 沢荒れの日などは・・・沢水が汲めなくなるので
ブナの幹に笹っ葉を当てて ペットボトルに雨を溜め込んだもんだった。樹幹流、おかげさま!

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木炭用に伐採したブナ林も「下種更新」(落下した種から生え育って新しく林を成立させた)により
二次林となったわけだな。昭和63年に立てられたこの看板には林齢50年とある 
既にこの二次林は80年が経過してるということか。

この立て看板一枚にも 休憩時間10分ほどをまるまる割いて
立看板に書いてある言葉の意味を一つ一つ解いて、文章の中身をくわしく説明されておられる 

CLのSさん ありがとうございました。


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なかなかどうして こんなアカデミックな山登りは他に例を見ない。いや、他にない。
もともと「観察会」は「登山」という範疇にはないカテゴリーだけど それら両面が味わえて愉しい。 

「学びの心」を呼び起こす。
それもこれも 先達の皆さんがブナとの関わりを深く持ったが故なのだろうけど
今日で、僕は二回目の「ブナの森」の見学会参加・・・、カルチャーショック 依然として出遅れ気味だ。

ブナの森を遠くじっと見据えれば、「自然」を通して「国家」「政治」が霧の中に浮かび上がってくる。
懐かしい、故庄司幸助衆院議員の話も出て…、今日も本当に自分の無知無頓着さを認識した次第。
CLのSさん ピタッと後ろにくっついて迷惑だったでしょうかw たくさんお話を戴きありがとうございました。
次回 栗駒山の「千年クロベ」 再びお会いできることを楽しみにしております。






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by tabilogue2 | 2017-05-14 21:32 | 船形連峰 | Trackback | Comments(2)

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下山途中、四本桂にて…   (新型スマホで初撮り画像)


「4本・カツラ」の謎が解けずに1週間が過ぎていたので、解決を見出すべく先週に続けて今日も2週連続で北泉ヶ岳までw 今日は「船形山のブナを守る会」の観察会(山行)の日だったので、千葉さんに招かれて初参加した。今日の参加者は21名、、、うち会員外の初参加者が1名、むろん私だw それだけコアな方々が集っていらっしゃる。「船形山のブナを守る会」は1985年の会創立、かれこれ30年が経過している。一般的には「自然保護団体」といわれている集団だが、この30年間ずうっと、常に50名前後が入れ替わり立ち代わりで観察会や行事に参加され今日まで継続されておられる…、ということは、余程に実力の備わった会ということ。今日の参加者も県内各地から来られている。

「船形山のブナを守る会」の活動には仙台YMCA山岳会として団体で参画しており、それに「追従」し、船形山の各支流の紹介、ブナの森と沢との関わり、沢に懸かる滝、沢登りなどのパネル展示等をしていた。なので、「守る会」の活動は今日で4回目ぐらいの参加になるのだろうか。小関代表とは既に25年前にお見うけしていた。とはいえ彼ら本体とのご一緒観察会(山行)は今日が初めてである。

「守る会」の活動目的は設立当初からみれば、だいぶ変遷した。1990年代、「リゾート法」の破綻により国土は乱開発の深手を負うとともに全国の保護運動下にあった「ブナの森は残された」わけだ。 代わりに1997年林野庁の実質的解体による「国家営林事業の放棄」(営林署職員の三分のニを解雇)による間伐未処理の弊害や、最近の緊急の課題として「原発のゴミ集積場建設問題」や「ゴルフ場建設問題」にも新たに監視の目が必要になってきている… この30年、取り組んできた課題、或いは今後、取り組むべき問題である。

そんな「行動的集団」と山行をともにするのだから、初参加の自分は「どんな格好wで参加すればいいのか?」悩んだ末に、「四角四面」風に装ってみたw。ところが、蓋を開けてみたら気さくな方々ばかりでw居心地の良い雰囲気で行動を終えることができた。まずは参加された皆さんの温かい心に「感謝」である。


今日の問題は・・・「四本桂という地名」ができた理由を知ることと 実際にその木の「実態を知ること」であった。以前、泉ヶ岳ヒュッテで「開拓史」が冊子となって売られていた。それでは詳細が不明な部分も多かった。詳しくは県立図書館で史資料を得ることでも解決につながるだろうと千葉さんに教えられた。

1950年7月、それまで存在していた「船形山-後白髭山経由の定義参道」に加え 新たに根白石方面から船形山へ「北泉ヶ岳・長倉尾根を経由した新登山道」開削の依頼を受けた人たちがいた。その資料に拠れば、作業者たちの便宜的な「作業上での通称」が現在の「地名」になり代わった経緯・流れがわかってくる。その資料は 千葉さんのブログに説明されているので参照願う。つまりは、この「四本桂」という地名も長倉尾根の「水源」や「熊の平」という地名も新道開削に当たった「人夫たちが呼んだ通称」がそのまま残ったようだ。(ただ、泉ヶ岳から北泉ヶ岳までの仮道開削にあたっては 前進基地が”1番最初に小屋掛け”をした「川平」という場所だが、それがどこを指すのかが不明だった。後日その資料を詳しく読んだところ、「川平」は四本桂の真西を40分ほど横川方面に降りた所、高度1000m付近で涸れ沢となっており、地巡りの水=伏流水が湧き出る所であることがわかった)

資料で分かったことは 開削に当たっては南丸松保沢源頭の「大平の水源」(現在の「水源」地点)に笹の葉で屋根を葺いた”2番目の仮小屋”を作ったようであること。不明だったのは「八合目の見晴らし台」(北泉の肩のことかと思う)と、「定義の阿弥陀如来を見下ろして拝む石」(山頂の西側から横川の流れを辿れば定義山の門前町がみえたのだろうか?或いは柴崎先生がいう1115m西端の”ソバ倉”のことか?不明)とが作られたという事実。今となってはそれぞれどの辺りになるのか?不明なことが多い。次回の後白髭観察会の課題にもなるのだろうか?とひとまず期待したい。

まあ、そんなわけで主題から逸れるが、大平の仮小屋を発ち20分で熊ノ平さらに20分で二ツ石、30分で爪先立ちの急坂、15分で坊主岳東端の笠松の峰、ここまでは藪が濃く笹も深くブナの森だ、馬の背を難なく越え一ノ峰、いつの間にか主峰の二ノ峰に達し そこから三ノ峰は高山の体をなし、昭和12年頃まで定義詣や三峰参りの人達によって踏まれた道形もところどころに現れたと記されており、それを越えて船形山の手前「蛇ヶ岳三叉路」まで開削したようだ。こうして長倉尾根新道の開削は1950年8月17日から始まり、実働14日を掛け完成は1950年9月6日となっている。

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左に南宝森1360m 右に三峰山本峰1417m


67年前の史資料全ページに目を通した(3/31現在)。古風な述語体で、何よりもセルバンテスの誇大妄想狂「ドン・キホーテ」を思い起こさせるミリタリー調な「登山道開拓記」は当世に於いては小腹が痛いほど滑稽な部分もあったけれど お陰で問題の一つは解決した。新道開削工事の発注者は仙台市であり、受注者は根白石に住む五百城幸治(いおきこうじ)さん。余計なことを付記すれば、五百城さんは受託にあたって、お住いの根白石から仙台市役所まで直線距離12キロを徒歩で往来したと記されている。梅雨の明けた夏の炎天下に徒歩で往復する体力・気力のお有りになる方のようだ。おそらく仙台市の意図としては戦後5年を経て「市民の楽しみを拡大するため」に定義山参詣が泉ヶ岳経由でもできるように…ということなのだろう。なんせ1950年といえば、仙台の青葉通の建設工事が始まった年で「戦後復興」で世の中が大きく動き出した年でもある。

現代風に言えば「市民のレクリエーションの充足」とか「ディスティネーションキャンペーン」みたいな施策なのかも。当時の交通事情を考慮すれば有りうる噺で、たとえば 泉ヶ岳に登って、定義詣でをして、作並に泊まって…みたいな(´艸`) ついでに記しておくが、10000発に及ぶ焼夷弾の絨毯爆撃で焼け野原となった仙台の街並みは、1950年、ようやく復興の途にあって斬新な区画整理により二番町通りや青葉通り、定禅寺通りの拡張工事が為され、その工事現場は大風が一たび吹けばひどく土埃が舞い立ち、辺りが霞むほどだったといわれている。そんな時代に、少年少女や青年たちの心に「生きる希望の光を灯そう」という狙いもあったことだろう。当会、仙台YMCA山岳会が創立されたのも「戦後市民の福利厚生の一助」がキッカケとされている。

もう一つの今日の問題は・・・なぜ「カツラ」の木なのか?ということと どうして「4本」なのか?という疑問についてだ。

それについては 会員の柏さんから説明があった。開削した人夫たちが特定樹種を知識として持っていなかったことによるものであり、「誤認」をしたのでは?とされた。正式には「シナノキ」。葉っぱはカツラのハート形ではないし、樹肌は似つつも、違いを見分けることができなかったのでは?と推測。シナノキは動かぬ水、つまりは谷地を好み、カツラは動く水、つまりは沢辺を好んで棲息する特徴がある…そのような説明もあった、納得。 次に、何故4本なのか?については 雪原となった一帯を奥の方へ進むと、数えることができた大きなシナノキは8本ほどあった。つまり「4本」というのは登山道開削作業上の資材置き場であり、目印となる場所でもあり、「沿道に限った樹木の本数であろう」という理解の仕方に決着した。 



今日は北泉ヶ岳山頂のランチタイムまでは風もなく日差しもあり 良い天気。観察会(山行)は知的な説明が付加され「カルチャー教室」さながらのアカデミックな内容が盛られていた。なかなか他では味わえない山の奥深さを「言葉として学べた」ことで有意義な一日だった。ソロ山行の身にとって「観察会」という人様の言葉が耳にできるほどありがたいことはない。長年山に登ってはいても「山を知る、深く識る」という点で自分の登山スタイルはどうであったろうか?という見返りの機会にもなった。

「山を識る目」を持つことが 山に関わる見方、見識を深め、豊かな味わいにしてくれる…こと、それと社会問題にも参画する意志を養うことが将来的に「社会的価値」として表出するはず。30年前に”ブナを守る”という命題に取り組んだ先輩たちが居られたという事実、今もこうして和やかに森の観察会を継続しておられるという事実とが 30年経ても曇りのない「社会的価値」を具体的に表しているのである…ということも、、、今日の観察会の感想として付け加えておこう。

つまりは「登山を私的な楽しみとして捉えている」うちは ”社会的にかかわっている人間” としてはまだまだ「稚拙の域を出ない」ということでもあるのかな(´艸`) 「山が好きな人=登山行為が好きな人」と限定的に評価されてしまいがち。そこを一歩飛び出るには自然観察、歴史、草木、地質などの視点などにより副次的な「生活にかかわる教養」を身につけることが大事で、必要とあらば「社会的行動の意志」を伴うことも知らねばならないよ と「守る会」の先輩諸氏は語っておられるのだろう。

次回の観察会は5月14日、定義からの後白髭山ということで「ヤンビツ尾根」(矢櫃尾根)の横川コースを使うのか それとも定義から一般的な「カラサワ尾根」の定義コースを登るのか? まだ定まってはいないようだが、またまた足腰を鍛えて参加してまいろうか? 船形山塊の楽しみが今日また一つ増えた。60歳を過ぎたら歩きなおそうと思っていた宮城近景の山々に、「観察という新鮮な歩き方」の一歩が残せて非常に嬉しい。




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by tabilogue2 | 2017-03-26 18:21 | 船形連峰 | Trackback | Comments(0)