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40歳過ぎて 初めてリングワンデリングを経験した。

 実際、同じ場所に綺麗に1周して戻ってきた。
いや実は2周していたのだが・・・
話には聞いていたけれど 実際に面白い現象、いや、体験だった。
奇妙とでもいうべきか。 

冬の八幡平での泊まり山行で 
朝に空身で山頂往復し八幡沼の陵雲荘に戻り 
帰り支度をして茶臼方面に向かったのだが 
下山中に黒谷地あたりでやらかしてしまった。

トレースがあったので 
何気なく追ったら2回も同じところを回っていた。
さすがに3回目は
「同じ場所じゃないの?」という疑いの目で
周囲を見渡しながら歩いていたので問題は起きなかったが。

リングの大きさ的には 
直径で言えば50m~100mだろうか? 
円周は150m~300mくらいか? 
周囲が見渡せないので 
勘で言うと5分くらいで割と早く一周してきたように思う・・・。

自分たちの踏み跡なのに 
下山ルートのトレースと勘違いした。 
奇怪なリングワンデリングの 始まりだった。

リングワンデリングのトレースは 
今しがた自分たちが通過したばっかり 
昨日のトレースより濃く明瞭だった。
当たり前のことだったが 
それに自分たちがまんまとハマったわけである。

経験の浅い者にトップを任せる場合は 
リーダーは2番手に就くべきか? 
トレースが濃い > 皆が通る > 正しい > 安心 
頭がこういう図式になっていた。
この時の天候もガスだったが 
アオモリトドマツや栂の木が見えていた。

ルートをリーダー任せにしていたわけではない。
パーティ全員 いつもの八幡平で 
狐にバカサレタのだった( ´艸`)

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「ホワイトアウトの中、銀嶺を進んだ」
という記述が 某ブログにあったとする。。。

が、、、「真の」ホワイトアウトという状況を 
書き手は知らずにいるなぁ、

”ガスに捲かれた程度” を
想像でホワイトアウトという「言葉」を書いてる、

使ってみたいのかな?この人・・・と
書き手の心理を探っちゃうし、
冬山の経験度合いに関しても ピン!ときてしまう。

「真の」ホワイトアウトというのは・・・? 
自分の目先は勿論、自分の足元も、手も、
隣にいるはずの仲間も
全てが見えない天候状態を言うわけで、

実のところ
「進めない」「歩き出せない」
というのが 「真の」ホワイトアウトという状況だ。

「ホワイトアウトの中、銀嶺を進んだ」という件りは
その厳しい真冬の「現実を知らない」
矛盾に満ちた記述ということになる。

何故、進めないのか・・・?
理由は、ミルクの中に居るという表現が ピッタシだからだ。

平衡感覚を奪われ、一歩踏み出すごとに宇宙遊泳する、
自分の意志とは関係なく、雪の斜面に倒れてしまうからであり、
悲しい事故を招くからである。

「真の」ホワイトアウトに遭遇すると・・・?
「まっすぐ立ったはずなのに」「意志とは無関係に」
「眩暈がしたように」身体が斜めになって 
重いザックを背負ったまま、特に斜面の下方に向かって
「頭から」ダイブして バッタバッタと倒れ込むことになる。

何をしようとも鉛直に立てない。
まるで酩酊状態 立ち上がろうとして 
跪く間にもズッデーンと反対側に倒れてしまう。
酒に酔った経験のある方なら分かるはず。

頭から深雪に突っ込んだ者もいた。
姿勢を立て直そうと あらぬ方向に立とうとする。

「反る」「反り返る」という言葉があるが
本人は鉛直と思われる方向にビンと立とうとする、
だが 傍から見れば仰け反るように。

本人は真っ直ぐに立つつもりで 
反対側に頭からズッデーン!と倒れる。
本人はそれで正常に直立しようとしたのである。
頭から突っ込んだのは予期せぬ結果だ。

傍から見れば異常だと見えるだろうが、
本人は正常に戻すためにわけもわからず
前転後転し もがき続ける。

スキ-の事例では・・・、
実際にスキーは停止している のに・・・
本人はまだ滑っている感じがしている、
既にスキーは停まっているのだが
頭の中は滑ってる。

本人が脳内で停まったと思いきや 
身体だけが慣性の法則?のように
ズッデーン!と前へ倒れてしまう。しかも大袈裟に。 

その様を「ホワイトアウトの渦中」とでも云おう。
もがけばもがくほど 体力を消耗する。
覚えておくとよい。

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過去に、「山スキーばかりに興じていると山を見失うよ」と言ったのは、
「雪山の本来の姿」を味わおうよ という意図からだった。
基本、自然の恐ろしさに立ち向かうには 
GPSなどのデジタル機器の効力だけでは補えきれないもの。

生温かい無風の日、
濃霧が発生するということを 予測できるかどうか? 
午後から冷たい空気が入って
温かい地上との間で濃密な霧が発生する って
予測できるかどうか? 
その経験も含めて「判断」が生存のキーとなる。

アナログ的な「判断」「経験」がものをいう。
脱出か、停滞か、
自分たちの居る高度や地形、体力、天候悪化の予兆
などの要素で意思決定される。

ホワイトアウトか リングワンデリングか 
いずれかを経験すると自然の怖さが分かってくる。
つまり雪山に臨む覚悟が違ってくる。 



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by tabilogue2 | 2017-07-28 01:15 | mount | Trackback | Comments(0)

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三岩の小屋で 白秋の山を語りあう
 
夜は更け 月は高きにあり 透明な白で輝きをます 
小屋を囲むシラビソの木々を 白く照らしだす


シラビソの米つぶほどの葉先には 小さな雫が垂れ 
その一粒一粒の葉の 一滴一滴の雫を 月が透明な白で照らし出す
キラキラと幾千幾萬の葉先が 光の瞬きを繰り返す


とてつもなく大きい クリスマスツリーのようだ


闇に立つシラビソは 幻想のうちに薄衣を纏い 光を飾りとした
深く静かに魅入ると 突然 風が吹きあげた 
枝が揺れ 光の飾りが掃われ どぉっと「光」が降りかかってきた  


凄い 見惚れるばかりで 何もすることができなかった
この驚き、、、これが自然の茶飯事なのか? 
魅入る者に感動を宿らせ それに触れた心を震わせる

 
その感動に 崩しかけた身のアンバランスを知る
都会ズレした身の そんな浸し方でも いいではないか 
オオシラビソの光のシャワー・・・、少し早いメリークリスマス


振り返ると 薪ストーブの灯りが 小屋の硝子から漏れだしている
その硝子のこちらとあちらとに 人間臭さの境界が見えた


仕事に追われ 山にも行けないと嘆いたS
忙しがり屋の彼も そんな硝子の内側の人間だった
賑わいの夏が終わり 山もそして仲間もそれぞれに迎える秋


山との関わりを 静かに見つめなおしている
山は思考の場でもある 
白秋の宵に 想いを・・・、じっくり 語り 伝えよう   

1994年 山行記録より


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by tabilogue2 | 2017-07-28 01:14 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)

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若い時分にふとした縁で南会津山の会の会報「いろりばた」をお分けいただきました。
その会報での常連寄稿者は川崎精雄さん 望月達夫さん 中西 章さん。
知人の縁で、森澤賢次さん、笹川慶子さん 成田安弘さん、野口冬人さんなど・・・。

今から60年ほど昔、
当時は登るという行為と論壇というサロン行為との混合が 
当たり前に盛んな時代だったようです。山という一字に「深み」が与えられた時代ですね。
単に山に登るというだけの行為で「山を語る」のはどだい無理な話で、
尽きることのない山への情念が地域研究や「歴史が通った峠」史などの中身を伴って 
会報誌として毎号まとめられてきたわけです。
その陰には 果てなき山への熱情があったわけですが 

冬になり時間に余裕ができたら 
愛読書となっていた「いろりばた」をインデックスとして整理しようと思っています。
いつか誰かがデジタル化しないといけないのでしょうけど 
故人や古老たち会員に敬意を表する意味でも手持ちの会報25巻を
インデックスにでもできればいいのかなぁ などと思っております。

尻に火がつかないとなかなか実行できるものではないのですが、
昔の山行を学ぶ意味でもこの冬から内作しようかと思っております。


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私の書棚:「いろりばた」69号("昭和"の最終号)

かつて「南会津山の会が発行した会報“いろりばた”紀行文を 
デジタル化して遺そうとい私的な試み」である。 
この冬 暇を見つけてはタイピングを継続してきた。
約1ヶ月をかけ手元所有の「いろりばた」を全巻読み終え、
各巻ごとに貴重な紀行文、好みの文体をピックアップし
(但し、茗渓堂などで広範囲に販売された特集号・記念号などは省いた)デジタル化した。
この第69号が昭和年代発行分の最終号となる。

47~69号まで こうしてみると・・・登るという行為を基に
会員の想いや人生観が浮き出て、会津を基盤に様々な方々が集い、登り、
その会津を語っておられることがわかる。
(語れるほどの”山”を愛し持てておられることが今さらながらに羨ましい)

中西章さんの造詣深い短編詞に
「雪国に住む人は、冬になるといつも暖かき南の大地に想いを馳せるという」の行りがある。
どんな土地、どんな辺境にあっても
その土地を受け継いでこられた先住の方々が
住み慣れたその土地を払い新しい土地へ土着することへの困難さ、切なさ等を
「峠路の紀行」を通して理解しえた。
峠を越えることが旧来の生活との離別という
「辛さ」「哀しさ」を隠し持つことも理解できた。

特に今回、望月達夫さんの阿武隈紀行シリーズ
「阿武隈の晩秋」「阿武隈の低い山」「阿武隈の低い山(2)」「阿武隈日記」を
転載するうちに阿武隈との関わり方 
例えば「故郷の山を形容する地元人の敬い」、「風土や暮らし向き」、「会津や阿武隈、福島の人情味」
という点でビシリと伝わってきた。

ましてや3年前、原発事故で立入禁止、故郷を失ったことへの
怒りや口惜しさが尚更に理解できたという副次的心得も備わった。

それは、30年という時を隔てもなお、
「人の暮らしとは本来どうあるべきか?」という問いとなって伝わってくる。
「幸と不幸」「文明が文化を駆逐する」という背反性、
この不条理が見えてくる。


今となって会報「いろりばた」は老会員たちのアーカイヴに留めるのか?
今後如何に伝えるのか? ただただ消滅の一路をたどるのか?
甚だ恐縮ながら朽ちることへの覚悟をせざるを得ないのか?
仮に図書館の書棚の隅に遇されるならされるで
それも一つの終え方かもしれないが、
どの道を採るのかは誰もわからない。
老齢による会活動再生産がなされない現状を鑑みて、
いろりばた愛読者ならばこれらを「過去の遺物」とするのは
もったいないと考えるのも道理。


手軽に 広範囲に「インデックスから本編へ」PDFファイルをネットを通じて
「会員制にて読む」ことができれば
かつての紀行文の遺し方として 一つの良い方法かと思うが、
「権益」にすがるばかりじゃ「将来の形」は見通せない。
それを指し示すことが現存会員たちの任務であろうか。

版権を持つ版元(南会津山の会)や著作権絡みの受益者に損害が及ばぬように、
インデックスを各号記し不遜の備忘録としたい。
今号でこの「いろりばた」の「抜粋」ならびに目次と表題だけの
インデックスタイプ作業を終わりとしたい。
では何分宜しく願う。



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by tabilogue2 | 2017-07-28 01:12 | 会津学 | Trackback | Comments(0)

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仙台神室の「ダンコ平」が、最近は「だんご平」と濁って呼ばれる。
「ダンコ」より「だんご」のほうが親しみやすい、
安易に「だんご」が市民権を得てしまった。

さらに ネットでどんどん間違ったまま 
無制限に拡散されていく。
YMCA山岳会でも 歴史や史実に興味のない会員は「だんご」と呼ぶ。
私自身も いちいち面倒なので
相手を選んで諭すように話していた。

ネット伝播が真実味を帯びるようになると
「無理が通らば道理ひっこむ」の喩えどおりになる。
民俗学的な「検証」が頭をひっこめてしまう恐れがあるので
きちんと解説しよう。

秋保・馬場の古老に聞き取り調査を行なった際、
「ダンコ馬」の言葉を採集したとある。
荷駄を「駄んこ」、それを運ぶ馬を「駄んこ馬」といっていたようで、
仙山の峠となる平らかな地に荷駄を一旦集めて、
荷繋ぎ中継所のようにしていた(駄んこ平)
というのが「民俗学的考察」であろうか。

「荷駄を駄んこと呼び、駄馬を駄んこ馬と呼んでいたことに依る」
と口語検証が深野稔生氏によってなされている(「神室岳」・深野稔生著)。

駄んこの「んこ」は
犬っこ、どじょっこ、女ごこ(メゴコ)、野郎こ(ヤロコ)、どろんこ
 語尾につけられた愛称。

いずれ 「駄んこ平」が「だんご平」と変化するのは 
口語伝播の陥りやすい「罠」である。



歴史に興味を持ち、
地名と歴史との相関関係を紐解いてみようという気持ちがなければ、
否、山を単に「スポーツの対象」として観ているようでは、
「だんご」はいつ迄経っても「だんご」のままで終わる、
けして「駄んこ」にはならないものだ。

世の不思議さに
何故?どうして?と振り返り見る観点を持たないと、
何事も深く捉えることはできない。


山を始めてから10年前後の方々の特徴だが・・・

50名山、100名山、それに飽きると200、300・・・と 
横っ飛びにピークハントする。

「山」を深く味わおうとしない、
上辺だけのネット情報、ハウツー登山情報を求め、
それをコピーし鵜呑みにする。
これは、、、便利なネット情報、ガイド情報、トレース情報に
たむろする「ネット民」の共通点であり、
「他人の登山情報」を疑わない「コピー登山」指向の典型である。

ネット情報という他力情報を「疑わずに絶対視」し済ませる、
さらに引用先を明示すれば
「引用文の責任は自分にあらず」と意思表示したのと同じで 
こんなところにも 
責任を取らずに済ませる
ネット民たちの「軽さ」が現れ出ている。

いつまで経っても
「山の妙味」に縁遠い存在である自分自身に気づかず 
今日も横っ飛びに山に向かうことになる。




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by tabilogue2 | 2017-07-28 01:10 | アラカルト | Trackback | Comments(0)

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本元飯豊山(闇川)と山都の飯豊山(昔噺)



何百年もめえの話だかぁ 判んねぇわし 
地夜ヶ嶽(ちやがたけ)さ、姉と妹 昼寝しに行ったんだど
起きたどぎ、自分の胸さ蓮の花が咲いていだら、
その娘が闇川(くらかわ)の飯豊山へ
咲いてながッたら、山都(やまと)の飯豊山へ行ぐ
と約束して 昼寝したんだど

そうしたら、妹はかしげぐって(ズル賢いという意味) 
途中でそおっと起ぎで 
自分の胸に咲いでいっと思って見だら 
姉の胸さ咲いでだんだど、
なんじょしても闇川の飯豊山さ行ぎっちくて、
我がの胸さぁ蓮の花を持って来て、
また寝だんだど

二人が起ぎだっけが 
妹の胸にたしかに蓮の花があったんだげんちも
動かしたもんで花が萎れっちまって 
姉の胸から取ったのがバレたんだど
それで 嘘っこきは家に置がんにぃ と、
妹は山都の飯豊山さやって
姉が闇川の飯豊山に行ったんだど 

それがら闇川が本元飯豊山になって、
姉と妹が昼寝して どっちか考えた山を思案岳(しあんだけ)と
呼ぶようになったんだど


この話 私ら子供の時分から年寄りに聞かされでいるし 
ここいら辺の人達は皆知っていで、
まるっきり でたらめな話ではねえと思うなぁ



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by tabilogue2 | 2017-07-28 01:09 | 会津学 | Trackback | Comments(0)

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塩と峠


奥会津は名の通り山に囲まれている山国である。
どこへ出るにも 何処から物資を運び込むにも山を越えねばならない。
それは今も昔も変わらない。

江戸時代の初めまで会津地方の「塩」は
小名浜一帯と相馬から仙台にかけての浜から採れた
「東入り塩」が中心だった。
その後、大阪から日本海を通る西廻り船で
播州や尾道で採れた良質な塩が新潟に陸揚げされた。
それが「西入り塩」である。

あまり 多くを耳にしていない話だが、
幕末に京都守護職になった会津の殿様:松平容保が
幕府から領地を加増された際に、
特に「新潟の一部」港地を希望したといわれている。
瀬戸内からの「西入り塩」を
安く安定的に手に入れようとしたわけである。 

文政三年(1820年)、
御蔵入地(おくらいりち):今の会津高田町以西、只見川以南の地方に
7000俵の塩が運ばれたという。
新潟の港より阿賀野川をさかのぼって津川町で陸揚げされ、
津川から野沢や西方へ駄馬で運ばれた。
瀬戸内の塩は十四貫入り(52.5キロ)の荷姿だったので、
津川での陸揚げの際に会津坂下(あいづばんげ)の叺(かます)と縄で 
米同様に一俵60キロに荷造りを仕直して運んだそうだ。

奥会津に入る「西入り塩」は
1 西方街道 新潟-津川-野沢-西方-御蔵入地の主として金山谷
2 八十里越 新潟-津川-八十里越-奥会津-伊北(いほう)
3 大山越え 新潟-津川-柴倉-柴倉峠-宮崎(大山越)
4 地元岩塩 塩沢でとれる地塩
だいたい以上のルートで 御蔵入地に用立てた。

大塩組では年に390俵が要り用で
津川廻りの塩と八十里越の塩が半々くらいだったとされる。
津川廻りの塩は八十里越の塩より金一分につき一升分ほど安かった。
野継ぎ荷駄賃が少なく済んだからだろう。
津川と西方には「塩囲い蔵」が置かれ、
西方には年間で6000俵から12000俵が入荷したそうだ。
蔵のおかげで潤った村だったという。

嘉永元年(1848年)の記録によると
大山越は1575駄、(ちなみに 野沢から西方へは1625駄) 
峠を越えるということはどれほどの苦労があったのだろうか。
宮崎村より柴倉まで三里、津川まで五里、
この三里の大山越を牛馬にて運べたらどんなに楽だったことだろうか。

*「大山越」おおやまごえ・・・
金山町宮崎より只見川を舟で渡り(現在は上田ダムを渡る)、
関根より北ノ子沢(北の湖沢)を越えて、
急峻な道を登り国土山を尾根伝いに行くと、
新潟県境に大山祇神社の石の祠が立っている。

そこから県境の稜線を登るとほどなく沼越峠(鉾峠)となる。
標高830m、ここまで関根から一里半6kmの道程である。
それより再び急峻な坂道を下ると柴倉川の支流・大川前沢につく。
さらに二つの小さな峠を越えると 最初の村落である柴倉に着く。
ここは大倉峠からの径もあわさる。

この柴倉までが峠より一里半の道程である 
現在は4キロほど行くと林道となっている。
この三里の道を 大山越(おおやまごえ)とよんでいる。
現在は東北電力の送電線:新潟幹線と鹿瀬線が通っているので 
道は狭いながらも良く刈り払われている。

江戸時代に何度も 大石、大塩、野尻、黒谷、古町、和泉田、熨斗戸(のしど)組の
農民は連合して嘆願書を役所に出してはいたが聞き入れられなかった。
野沢や西方の街道筋の問屋が裏で役人とグルになって反対したと言われている。
同じ金山谷でも水運に頼った滝谷、大谷組の名主は
大反対に廻ったと言われている。

ちなみに塩は十貫目俵を半分(20kg)にして大山越をしたとされる。
また 一駄は・・・牛馬の背中に「俵を2つ」着けることをいう。



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by tabilogue2 | 2017-07-27 06:00 | 会津学 | Trackback | Comments(0)

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なぜ 世界谷地などとオーバーな名前を付けたんだろう?」


もう28年も前のことになるが…、
YMCA山岳会では「栗駒山の全流域・踏査」を行ったことがある。

その頃、深野さんから以下のように教わっていた。
なぜ 世界谷地などとオーバーな名前を付けたんだろう?」
という会員の素朴な疑問に、
彼は既に答えを持っていたようである。

もともと湿原のことを「臍下」「谷地」(セイカ、ヤチ)というようだ。
「谷地」はともかくとして、、、”臍下”、、、?
彼は既にその「古い時代の一般的表現」を文献上で拾っていた。

ただ、地元としては「臍下」という呼び名では
栗駒観光には活かせない、「格好」が悪い…と云うので
「臍下谷地」がいつの頃か(戦後、第1次登山ブーム時代?)
「世界谷地」に転化した。

なぜ「格好」が悪いのか?といえば、
”臍下丹田”などという言葉どおり 臍下とは「ヘソの下」のことで
「湿地」「谷地」を指す。
淫語ではジメッとする「女陰」「ホト」を意味する。

きれいな湿原が”女陰”じゃどうにも「格好」が悪い、
観光の妨げになる…ということで
「臍下」が「世界」になったようだ。
これには会員一同納得したものだった。


こんな淫靡な話は山ではよくある、
例えば二重山稜の地形ゆえに尾根上に湿地を持つ山…
例にあげれば、南会津の黒谷川沿いにある二重山稜の山
といえば”火奴山”(ひどさん・ほどやま)が有名だが、
まさに「女陰」の淫語”ホト”がそのまま山名になっている。

他に 会津志津倉山では「細ヒド」コースがある。
或いは七ヶ岳の「程窪沢」とか・・・探せばたくさんある。
会津では「ヒド」といったり、福島では「ホド」とよんだりしたが 
一般的には「ホト」と読む。

とまあ「臍下谷地」から「世界谷地」への転化、
その成り立ちを、今じゃ珍しい言葉を使って当ブログに書き遺した。
インターネットとしては「初公開のネタ」になる。

初めて眼にして妙に納得のいった方も居られたろう。
このネット時代にブログにしたためておかないと
「因を含んだ言葉」が闇から闇へ葬り去られてしまう。

50年も歩いた中で、
山に関する些事や言説はこのボケた頭にほどよく備蓄されている…、
でも呆けて取り出すのに少し手間取るのが難点か?(´艸`)。

また、「世界谷地」は古くは「八ツ頭原」ヤツガシラハラ 
といったそうである。水芭蕉を里芋の葉と見做したのかな? 
それにしても、「世界谷地」と称したのには
深いわけでもあるのだろう。 これも付記しておく。


仙台YMCA山岳会というのは徹底して「沢遊び」をし、
単にフィジカルに登るだけじゃなく「総体」として山をとらえ、
山を「学び」の場にしていたんだなぁ…と、
今さらながらに思った次第である。


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by tabilogue2 | 2017-07-26 18:20 | アラカルト | Trackback | Comments(0)

何のために 登るの?

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南会津・田子倉ダム村杉半島にて、横山よりダム湖越しに浅草岳・鬼が面山を臨む
GW4泊5日、20キロ超のザックを横に置き 山旅のメモを録る今出さん
ラクダシャツが印象的な、「奥羽山脈冬季単独縦走」を遂げたYMCAの鉄人だ



皆さま 本年もよろしくお願い申し上げます
(喪中につき 失礼いたしております)


年頭に当たり、自分の「山の捉え方」を述べてみたいと思います 
長文・・・!?、不慣れ・面倒くしぇっ て 御仁はパスしてくださいね
無理して読んじゃうと 既成の考え方とぶつかり頭が混乱しちゃうかも♪

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ふた昔も前ならば、、、
電車とバスとで登山口の民宿に一泊し、それからニ泊三日の縦走をおもむろに楽しんで下山したものでした。その際、下山口の温泉地にも野営し、また夜行列車とバスとで帰宅したものです。さらにもっと以前ならば、深田久弥の百名山にも書かれておりますように 入山に際して町場から登山口まで2日をかけ、下山口から町場までも2日を要した とありますので 交通面では難儀だったようです。山も一大決心しないと入山さえも怖じ気ずく、冒険心がないと困難に立ち向かうことも敵わない、そんな時代だったんでしょう。実際にそんな「さすらいの旅人」風な登山スタイルが多かったのです。 そうです、その昔 山は「旅」そのものでした。大袈裟に言えば、全山縦走という「山旅」に出たものでした・・・最悪の事態を覚悟もして。

「海から山へ」、、、
亡くなられたYMCA山岳会の岸先輩は「海から山へ」のエッセイを多くしたためられました。秋に発表される彼の「紀行文」が毎年私の楽しみでもありましたが、趣向の変わった?その山行記は決まって「海」から始まりました。 盛夏、海から山へと向かう道中で、見知らぬ「旅人」である自分に声をかけてくれて、触れ合った地元人との心温かな交わりに 彼はドンと背中を押されて山に登ってきた とも、「海から山へ」シリーズの根っこがそこ(人情や旅情)にある とも、仰っていました。

一つの山旅が、、、
かつて 一つの山旅が「人生讃歌」の一遍に加えられた瞬間がそこここにありました。海から…、不便を乗り越えて旅を続け、世間の多くの事象と触れ合って、車中の、旅の宿の、その時その時の旅情を味わい、人生観に備わる何かを心に据えることができたようです。でもこの話はたかだか十数年前の話であり、しかも仙台の身近な人の話です。山と触れ、地元の人たちと触れ、旅を続けてこられた岸さんの紀行文には 「旅情」という現代では失われたものを発掘しにいく「旅」、そのように僕は受け止めておりました。

今日ではどうでしょう?
車で誰もが簡単に山に行けるようになり、誰もが「日帰りピストン」する山登りスタイルが主流になりました。世の中が「さすらいの旅人」を拒絶した?かのようです。(スローライフは「奇人・変人」扱いの現代社会、それに抗うには勇気もいるのですが) 山に登ることが一般的になりますと、山はただ「消費されるだけの山」に変わっていきます。だいぶ「山」も軽くなったものだ と率直に思います。 反面、手軽に山に行けるようになった代償として、私たちは山の、山旅の、「旅情」を失うことになりました。

自分の人生だから、、、
自分がいいと思えばそれが一番ですが、そんなに「生き急いでどうするの?」と強く思います。ゆっくり「山旅」を愉しむことはできないの?とも。 自分は18歳で山を覚え、郡山・仙台で山岳会を20数年、仕事の関係で陸に上がって10年程のブランクがあり今にいたって、定年で再び夏道を歩き始め7年目になるのですが、、、山を再開して気づくことは、行き交う登山者の誰もが「同じ顔・同じ匂い」に感じてしまうこと・・・です。

まるで「金太郎飴」、、、。
他人のトレースをコピーするのが当たり前の世になり、「山レコ」のGPSトラックを辿る「他人任せのコピー登山」が横行し、オール日帰り登山?、てっぺんまで登らないとせっかく来た甲斐がない?、なので 雷雨にも歩く?、冒険と危険の違いも分からず?、無駄せず?、遊ばず?、徹夜で「効率優先」?という捉え方、コースタイムが山歩きの基準となり?、行き着く土地に金も落とさず?、薀蓄を垂れる割には山を歩いた「泥臭さ」が感じられない、そんな「華麗臭」漂う人に多く出会うようになりました。

しかもその誰もが、まるで「金太郎飴」のようです。山を再開するまでの、たった10年のブランクですが、日本のお山関係はすごい様変わりになってしまったようです。メーカーに踊らされ、山ガールが雑誌”山と渓谷”に囃され、さらに一家に一台のネット社会、一人一台のモバイル社会で、一律に同じ方向に走った結果がこの始末かと思っております。山に登る登山者はすっかり「個性」を失ったといえます。

この現象はつまるところ・・・、
しがない初心者向けガイドブックや、他人のヤマレコや、他人のGPSトラックで・・・、メーカーの宣伝もその一つの因子なんでしょうけれど、「右向けっ 右!」の号令一下、皆な一斉に右を向くってことになるわけです。少しヘンじゃないですか? 自分の「個性」を失うことに通じませんか? 個の存在が否定されてると感じませんか?・・・と、そう思うのです、いかがでしょうか? どうして想像を膨らませないんでしょうか? 僕の言ってることは間違っていますか?



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右から 前毛猛山 中岳 百字ヶ岳 太郎助山 毛猛山 ビンビンに尖った峰々をバックに緊張する



山を深く味わうこと? 
老人はある意味、経験を積んだ「老獪さ」の持主のはず・・・、でも残念ながら、山で出会う中高年人種は画一的であり 平易であり、常に動き回っており、同世代として情けなくも映るようです。40歳になって登山に目覚め、過去の20年を取り戻さんと、少しの時間も惜しい勿体無いとでも言いたげでしょうか? 余生は100名山を登るのに余念がなく、100登れれば幸せで99なら成仏できないとでも言いたげかな?(´艸`) ましてや50を過ぎて山を始めれば負い目もあるというんでしょうか? 山をスポーツ的、高効率的に捉えることが抒情的に捉えることより即座に心に適い、面白いとでもいうのでしょうか? 今の登山者は山の深みも知らず、、、そんな浅瀬で座礁しているか?または”名山”という「落とし穴」にハマっているんじゃないかな?、逆に 彼らに捉えられた山がもつ価値とはその程度なのか?、と登山という概念に根本的な疑問を抱きます。

「山が勿体ない」なぁって、、、
大らかに、山を味わいながら歩きたいと思うのですが 沢から陸に上がれば、自分の周りには抒情を介せぬピークハンターばかりが占めたりします。いつのまにかブログにアップすることがイコール、山に登ったことになっていたり? 自身が感じとった山での感想は「素晴らしい」の一言で終わらせ、あとは素人写真のオンパレだったり? 行間さえもそれで埋め尽くす そのように見受けられます。

理解できない超常現象だ、、、
いったい誰のための山でブログで、何のための山でブログなんだろう?と。して、貴方にとっての登山行為はどのような意義をもつのか?と思わずにはいられなくなります。そんなブログを覗けば、山への思い入れや山での実感がいっさい書き込まれていません。まるでガイドブックのような「無感動で平易な山道案内」と「写真日記」が続くのです。いったいこれで、大人として(言いすぎかもしれませんが?)満足できる何かを捉え得たと言うのでしょうか? 何が深く記憶に残ったといえたのでしょう? 考えさせられました。たとえば、先述した深田百名山は著者深田久弥が山を旅して、感動しそして称えた「山の讃歌」です。けして「百名山の記録簿」ではないはず、、、そのことを読まず気づかずに今日も抑揚なく、起伏のなさで山を語る大人が多いということなのでしょうか? ついつい横目で見てしまいます。

「山を登ること」と「山を旅する」こととは次元が違う、、、
旅もせずに点から点へと ETC特典で「移動」、深夜に現地着でそのまま「車中泊」は彼の計画通り。その計画には地元の文化に触れる時間や 地元の民と交わることなどは予定されませんで、汗と汚れた垢を地元の温泉で落とすだけ。せいぜい、地元でラーメンを食べたと書かれてあるだけ。明日に登る山へ移動するだけの今日の終わり方しか書かれていないようです。その今日の登山さえ既に八合目から始まるわけで しかも 100、200、300を目指すんだそうです。 これって?、一体全体、日本の、今の登山ブームは、、、何なのでしょう? 

「山を登ること」と「山を旅する」ことは次元が違う、、、考えればお分かりになることですが、それに今日も気づかず、単に「移動」し「無感動な記録」の「個性のないコピー登山」を今年も続けるというのでしょうか。 嗚呼、もったいない! 評ずれば、皆一様に横並びの人生でしょうか?、個性と感情の喪失でしょうか? 自分はそう思うのですが・・・言い過ぎてたらごめんなさい。

最後に、、、 
登山ブームがもたらす此等って・・・、先日 豪雪に閉ざされた千歳空港で100人余りが集団ヒステリーに罹り、暴徒と化したどこぞの国の観光客にある意味似てはいないでしょうか? 皆一斉に「右向け~ 右!」、、、エキゾチックジャパンならぬヒステリックジャパンとでも申しましょうか?・・・文明大国の日本ですが、創造的文化という点では まだまだ「惰眠の中」のようです。

オリジナリティ、個性、自分らしさという面は 「右倣えの国民性」の何処に見受けることができると言うんでしょうか?、、、今年は これらを一緒に考えて山に登りにゆきましょうね。



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とまあ 年頭にあたり、チョイと述べてみたくなりました。 
これを携え 本年も山に向かいたいと思います( `ー´)ノ
よろしくお願いいたします。 


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以東岳冬季合宿 茶畑尾根パーティ、、、左から 町田、佐山、今出、佐野、菅原、舘岡、秋山、故佐藤、神崎
偶然、このパーティは会の歴代運営委員長たちで構成された、、、すごいメンツばかりだった
深雪ラッセルを3日間、ただ専らの毎日でついに稜線を得た だが、CLは猛省しきりのようだったが?
                                    撮影:大鳥繁岡にて

そういえば、、、写真の町田くん 彼とは「酒の縁」で今でも繋がっているような?気がするのですが(´艸`)
当時、彼は「早池峰にゴミは似合わない実行委員会」(菅沼賢治会長)の提唱する山頂トイレの屎尿担ぎに
参加していましたっけ、気合がじつに違ってた!こだわる男でした。東北山岳写真家集団にも入っていました
 今は、NPO:川崎-仙台薪ストーブの会会員、宮城県森林インストラクター協会会員とのメールでした                  


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禿岳集中3パーティ 火ノ沢尾根P 水上沢尾根P 花立峠稜線P
前列左から 故佐藤 私 秋山 丸山 
後列 佐藤(芳) 西田 坂本 舘岡 太田 故岸  

当時は 明けても暮れても朝日、朝日、朝日、でした。夏も秋も冬も朝日連峰
時々、こうして禿に登ったりはするけど、頭の中は朝日の銀嶺と緑の谷でした
この時代 YMCAには20代 30代 40代 50代 60代と各世代が打ち解け合って
何とも言えない「黄金期のような」山岳会活動でした。粒選りな会員のあつまりでした。
もう二度と やっては来ないでしょう。











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by tabilogue2 | 2017-01-03 23:29 | mount | Trackback | Comments(2)