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しばらく更新すねえでいたもんだったがら~昔の記事を前にもってきてみだぁ
ちょっくら 読んでみでくんち~♪  

次の登山は東吾妻なんだげんと 鎌沼の雪 解けでっといいな~♪
東吾妻から鎌沼の写真とっかな~ て思ってんだげんちょ
どんな あんべえだべがぁ?

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*会津学研究会」とは? たとえば・・・こんなところ。。。



奥会津・昭和村で 節約することを「カボイカタ」という。
現代の言葉に言い宛がえれば、”かばう”「庇う」に該当する。

集落の周囲の山(コナラ林)を伐り、薪を燃やし、湯を沸かす・・・
風呂のことだが、新しい水を張った風呂は「あらゆ(新湯)」といい、
翌日にまたその水を汲み変えずに湧かせば「たてかえし」。
三日目に水を入れ替えると「二晩でたてかえす」という。

新湯は 熱量を必要とすることから薪の使用量が多くなる。
「たてかえし」は新湯より薪の使用量も少なく、また使用する水も量が少なくなる。 
我が家だけで風呂をたてずに、村の家では数日おきに風呂をたてることとし、
そのかわりに 隣家に「もらい湯」に行くことも多かった。
そうして集落全体で使う薪を節約した。
これを「木をかぼう」といった。(木をかばう。薪が減らないようにする) 

県北の福島でも同じ。
福島では「たでげえし」と言っていた。
あら湯は「シンキ湯」とそのまんま呼んでいた。
家と分家の関係筋では本家に風呂を貰いに行った。

木をかばう 米をかばう… とは、
誰の立場で 何を 大切にしているのか?というのがわかってくる。


米の減りを少なくするため、トチの実をアクだしして混ぜる。
それを「コメかぼい」という。
ダイコンの葉を乾燥させて、コメに混ぜる「カテメシ」もよく食べられた。
主食である穀物、とくに米を節約する。
秋に収穫した米など穀類・野菜を節約するために、男衆は冬期間に地域外に出て暮らす(出稼ぎ)

そのことで自家の穀類等は減りが少なくなる。
こうして自家の「米を節約する」のである。これが「出稼ぎ」の主目的であった。
「雪が降ったから コメカボイに行ってくっかあ、、、、」と語られていた。 

戦前までの出稼ぎの目的は自家の「食料の節約」であり、
「得られる労働報酬よりも 冬期間に他地域で寄食することに主たる目的があった」。
それは「会津の茅手」と呼ばれた茅葺き職人としての出稼ぎでもあったろうし、
漆器商人としてでも、あるいはホイド(物乞い)として
無雪地帯を冬のみ、物乞いして歩ということでもあった。
そして 雪の解ける春先に集落に帰るのである。
南会津郡はまわりが山ばっかりで 田畑の耕作面積が限られ 
なかでも 水耕田となる土地はごく限られた地域だけ 他は自給する野菜畑だ。


*会津学研究会」とは こんな伝承・記録を今の世に遺している集まり

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ここからは 私、もときち本人の小さい頃の話(´艸`)

福島・伏拝(ふしょおがみ)の母の実家では・・・暮れにホイドが家々を回ってくると、
必ず裏木戸に回るように声をかけて 
婆ちゃんが黒札(拾円紙幣)と米、豆などを
手拭いを縫い合わせたけの「手拭い袋」にザーッと一生升分けてやっていた。

福島・佐倉の実家では・・・裏磐梯・木地小屋辺りの人が
座敷箒や笊、桶、竹籠などを天秤棒に下げ各家を回って売りにくる。
お袋が庭に出て品定めして、箒は2本、笊や桶は2個つ、
まとめて買って、さらに 米を分け与えていたのを覚えている。

その人たちは 日ノ倉橋という荒川にかかる橋の下で、
ゴザ掛けして仮小屋をつくり煮炊きし寝泊まして 日中は曲物、木地椀を売り歩いていた。
その仮小屋には子供もいたが、学校には通っていなかった。
日たって橋の下に行くと、橋の下のゴザ掛け小屋はなく、
供も、大人も消えていた。昭和35年ごろの話。
小学4、5年生の頃だったな?少年時代。

サンダラボッチ」とかって一種の「不思議」な世界観をもった人たちが暮らす
そんな「文化圏」みたいなイメージがあって、
その人たちは「流離の人」というイメージもあった。
実在するとかしないとかではなく 子供心に湧いた「イメージ」なのだが、、
そのイメージと木地小屋の人たちとをこかで結びつけて見ていたよな気がする。
思えばそれが「差別意識」だったんだろう。
大人が持てば子供の心にも どことなく それがうつる。

それと「牛買いの博労」たちが来ると「女子供がさらわれる!」という噂が流された。
牛を買い集めて県北から県南、宇都宮の方へ牛買いたちが渡り歩くのを
子供心に怖ろしげに「夢想」したこともったかな? 実際に見たわけでもないのだが。

「人さらいが来て サーカスに売られるぞ!」
遅くまで遊んで家に帰らなかった子らをそうやってたちはたしなめたんだなぁ 
って、大人になってフンフンと分かってきたもんだ。

木地小屋部落も、牛買いも、サーカスも 「差別用語」だと知ったのは
「橋のない川」いう映画を見てから のことだった。

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口暮(くちぐらし) 稼ぎのために他国に出て暮らすこと。
「鋤取(すきとり)=働き手の長男」は口暮に出て、、、帰村しないものも多い、、、
つまり食糧が無くなり、生きるために冬期間に家を空ける。
食べ物を得るための行為であるから 物乞い(乞食 ホイド)も含まれると思われる。

伊南伊北(いないほう)地区、現在の南会津郡伊南川から黒谷までの流域では、
「若者どもは 関東へ口竈(くちかまど)にまかり出た」とあり、
冬に「口減らしのために出稼ぎに行く」とのことを言っていた。

「クツギ」  
富山県五箇山の話。明治までは、一人前の若者は「クツギ」に出た。
家に食べるものがなかったので、冬はどこへでも行って 働いて 食べさせて貰う。
クツギに行くと、盆にはたいてい夏着と五尺五寸の白木綿が貰えた。
お盆に家に帰ってきて、この新しい夏着を着るのが何よりも楽しみであった。

・・・とまあ、「奥会津の暮らし向き」がどんなに大変であったかを知る、
「語り伝えられる資料」である。
これらの「学び」をせずに会津は語れないし、
現代生活がいかに飽食をもとに日々暮らしが営まれているのか
知るきっかけにもなる。

伝承を学び知るのが「*会津学研究」の一端と。
当面は研究会の刊行本を読み漁るだけだが。

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以下は「*会津学研究会」の「会津学」による


トチモチ(栃餅)は、「コメかぼい」どいう。
昭和のはじめのころまで、秋上げは三斗五升で一俵。六から七人家内で一冬喰った。
大正期までは耕地整理をはじめ、コメがとれはじめた。大正の十二・十三年ころ開田した。
湯ノ花で田ができたのは百年たらずと言われている。

塩ノ原と熨斗戸は田どころだ。 
うちのジサマはよく「コメは塩ノ原から持ってくっからいい」といっていた。
トチはトチガユ。灰汁に入れ煮たものを、「米入れ粥」にして喰った。

トチモチは、ヤマノクチ(入山解禁*訂正です 日だけで、一から二俵も拾った。
留山(トメヤマ=入山禁止)になっていて、お彼岸のお帰りの日がヤマノクチで、その日から拾える。
トチとカヤノミがそうだった。 
(ゼンマイ わらび きのこ 茅 雑木など 大字単位の地域ごとに入会権を仕切っていた) 


昔から温泉がある。

湯の利用はトチノミのアク(灰汁)だしで湯に浸けた。流水のより早く灰汁がぬける。

共同浴場は三十四人の共有だ。利用している人で掃除している。

正式に集落に加入していない人は除く。一年のカカリ(経費)を払わない人は酒を買う。


イシクラにトチクボがある。

タカモリにもトチがいっぱいある。粉をいって、「トチッケイ」をよく食べた。

ツッツメ(つっつめ)という燃えない丸太、太い丸太を燃やして、アク(木灰)をとった。

アクがたんにぇくなっから、アク抜きに使ったアクを、また、ユルイ(いろり)に入れ、乾かして使った。

トチは何俵も拾ってた。

(1986年2月16日、金山町上野沢 若林武喜さんから聞いた話)


カブの食べ方は、カブ漬け、煮ても食べた。ご飯を少し入れカブ雑炊。

そばがきが中心。煮たカブを温めてそばを入れて練りつぶす。

カブの菜は、干し葉にしてカテメシにするし、おつゆのミとした。

ぜいたくな漬け物として身欠きニシンとカブ漬け。

身欠きニシンは三センチくらいに切って、カブと一緒に入れた。

葉っぱと茎を少しづつつけて、丸ごとつけて八十八夜の雪溶けたあとに食べるものだった。


ダイコンは丸漬けが長持ちした。

茎葉を少し付ける。丸漬けダイコンを千切りにして、納豆や豆腐でよごして食べるととてもうまい。

切り漬けダイコン、古くなって酸っぱくなったダイコン漬けを煮てカラシを入れて食べる

アザキダイコン(辛味大根、 ネズミ大根)。野生のダイコン。

そのタネをこいてきて、畑にまいた。花は六月に紫のが咲いてきれいだ。

荒らしてしまうと出ないが、耕すとまだでる。

ソバに負けない。塔がたっても食べれる。とってすぐ水につける。空気にあたると硬くなる。

からい、硬いので福神漬けの材料にはよい。

アザキダイコンは、外皮が固くて百年も腐んね。弘法様のお授けだ、なんていう。

食糧難のころ(戦中・戦後)、カテにしてよく喰った。

タネになる前に、おひたしにして喰ってもよい。


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この記事は 2015/12/03 ブログにUPした









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by tabilogue2 | 2017-04-21 10:14 | 会津学 | Comments(0)

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今日も 仙台ゆうゆう館で油を売っていたら、この映画を観てきたばかりのお客さんが
興奮冷めやらない口調で ストーリーを 一気にまくし立てるものだから・・・
こりゃヤヴァイ ってなわけで、MOVIX利府へ シルバー料金で観てまいりました (25日まで?)

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ヒマラヤ山脈 「メルー中央峰」 にそびえる岩壁 ”シャークス フィン”
この壁は過去30年間 一人のクライマーも寄せ付けなかったキワモノ

コンラッド アンカー、常に冷静な彼が唯一私情を挟んでサミットに挑む・・・
世界のビッグウォールをこなしてきたウォールクライマー達による
ヒマラヤ未踏の”大岩壁”に挑んだ実録映画です(メインスポンサーはノースフェイスです)

今まで・・・、ヒマラヤに挑んだサミッター、ヒマラヤ遠征隊とは、まるで違う角度からの
アプローチ、そして企画、撮影がなされています 言ってみれば「私的なヒマラヤ登攀」です

1度目の登攀、、、
世界の屋根に挑む彼らは 90キロを超える登攀具、食料、テントなどを
ポーター無しで、自力で担ぎ上げて、ベースキャンプからルート工作をします 
無駄に資金をかけず、純に目の前の壁に命をかけた 3人のビッグウォールクライマー、

完登まで僅か100mのところで ギア類が尽き 壁を諦めざるをえないシーン
ギアを納めていた空っぽのツールバッグが 6000mの大岩壁を舞いながら落ちていく
このシーンの虚無感、、、「無情」を感じました ここが一番見応えあったかな 
この重要なシーンを いとも簡単にサラッと流してゆく・・・しびれました。。。

この映画は彼ら、登攀家の手による企画、撮影、自らの手に依って為された実録映画です
過去に制作された、どこかの国の、どこかの企業が提供し、宣伝までも仕組まれた
企画・脚本通りに撮影と編集がなされ 意図的に制作された「大遠征隊」の映画とはまるで違います

大掛かりな遠征隊を組むでもなく、5000mでコックが料理の腕を振るうわけでもなく、
医師が健康状態を診るでもなく、そんなド派手なベースキャンプシーンやら、
アタック隊との無線交信シーンなど これっぽっちもない 専ら「壁の中の3人」でした

2度目の登攀、、、
スポンサー企業の思惑に左右されずに、壁に挑む3人のクライマーたちの夫々の内面が
くっきり露出されます、関わる人間たちの内面に照準が当てられた珍しいドキュメンタリー映画でした
そう、これこそが、、この映画の魅力であり その無駄な演出を省いた映像が
ヒマラヤサミッターたちが有す葛藤を 純粋に「言葉」「動き」として前面に浮き立たせます



完登シーンでは 涙こそ出ませんでしたが、
この日に至ることを悟り、プロのクライマーを夫に持った婦人の ”「死辺」に佳人を送り出す気持ち”
しかも前夫(アレックス ロウ)を雪崩で亡くし、2人目の夫(コンラッド アンカー)は前夫のクライミングパートナー
しかも コンラッドは現在進行形のバリバリの登攀家 そんなビッグウォールクライマ-たちとの「関わりかた」、
じつは そっちの方に、強く胸を打たれました

世界の屋根に挑むクライマーたちの友情は すごく気高いんですね、、、
映画を見て、もしそれを察して頂けたなら 僕と同じ観点に一緒に立てたことになります

是非 ご覧になっては如何でしょう?


*コンラッド・アンカー

アメリカでもっとも著名な登山家のひとり。
ロッククライマーとして北米の数々の岩壁を攻略。
ラトックⅡ峰の西壁ルート登頂など輝かしい記録を持つ。
エベレストではマロリー捜索隊として遺体を発見した。

*アレックス・ロウ

1999年10月5日、チベットのシシャパンマで雪崩により遭難
アレックスはコンラッドの最大の友であり、クライミングパートナー。








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by tabilogue2 | 2017-01-17 19:45 | アラカルト | Comments(0)

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「会津学 vol.3 」 発行人:会津学研究会 \1540

三岩岳に登った帰りに「道の駅かねやま」に立ち寄って 「会津学」3,4巻とを買ってきた。
冬に手に取る雑学書として もってこいの分厚さである (´艸`)

ようやっと雪が降って山は大荒れ、今冬一番の寒い日、今日は本を読めとのお告げか?手に取る時間がやって来た。
特集1「雪と暮らす」、特集2「会津に生きる」を一項ずつ 読んでいきたいと思っている。

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日中集落の人々が猟場にしていたというのは 現在の日中ダムの西側にそびえる日中飯森山(1595m)だ。かつて田を持たない日中の人々の生計を支えてきたのは山仕事によってだったという。春のシバ山を始め、炭焼き、山菜採り、カゴを編むためのブドウ蔓などの採取、秋はキノコ採り、木材の伐りだしなど、生活の中心に山があった。そして同時にこの山は飯森山神社を含め九つの社を祀っており(上から 飯森山神社、種播神社、子安神社、鉢伏神社、高倉神社、大倉神社、地蔵神社、薬須神社、小倉神社)かつては成人儀礼の参拝の山として、日中集落の青年団あるいは氏子が毎年参道の刈払いを行い守ってきた。こうしてみると日中飯森山は、日中の人々の生活と信仰を支えてきた大切な場所だったということが伺える。

日中飯森山のクマ狩り 遠藤 戌(まもる)さん

熊が生まれんのは寒中、1月下旬から2月初めの頃だ。4年に一度、必ずオス、メス2頭産む。たまにメスばかりって時もあったようだが、必ずだ。生まれたときにはパンダの赤ちゃんと同じぐらい。それを穴の中でおっぱいで育てるわけ。あんまり小さいのをちょろちょろ外に出すと目立つ。上の方ではクマの子をさらうほどの力を持ってるクマタカってのがいつも待っている。だがらその子を外に出すのは青葉が出て、上からあんまり見えなくなって、狙わんにぐなってからでないと出さないんだって、子を産む「ネス穴」はあんまり険しくないが天敵を防げる場所を選ぶ。そしてその穴のあんまり遠くない所に、水場があるっていうんだな。この日中飯盛山あたりの話な。

朝、暗えうちから待ち合わせ場所に集まって、その中の長老が「ジュンダテ」といって熊狩りの持ち場を決める。例えば大倉にいたどすっと(大倉という場所に居たとすれば)尾根の方に何人行け、「ホンブッパ」(鉄砲を撃つ場所)、「ナカブッパ」(中間の撃つ場所)にベテランが立つように決めていく。たとえば目立つ石があるところは「石ブッパ」とか「一本松のブッパ」とか、立ち場所を指示する。追い上げる勢子にも長老格の「セコゥ長」って配置を決め、「どこどこの沢からお前が出てこい」「どこどこの途中からお前が出てこい」とか、そうして包囲網をつくる。「巻狩り」って言うんだ。

ウサギを追う時は「アッアッ アッアッ」なんて言うんだげんとな、熊は「ホーイ ホイホイ」って高い声で追うんだ。目あて(尾根で見張る人)が見つけると「〇〇にシシ出たぞ-ーーっ」って合図する。シシつうのはクマのごと。次に「〇〇の方 強くがなれ-ーー」って(ガナルというのは大声を出すこと)指示が出る。熊は遠目が利かないようだが耳と鼻はよく利く。タバコの匂いとか絶対駄目な。熊は頭を高く上げて匂いを嗅いで耳を澄ますようなごとをする。テッポぶちなら声出すでないど と言われた。

合図は鉄砲の薬莢を笛にしたり、指笛。熊が包囲網を抜け出したときの合図は、見通しのいい場所で「雪の上を腹ばいで進む」。クマの真似をするんだな。それが見えた人は 何か違う動きだから・・・何かあったぞと気をつけて見るわけだ。クマが行ってしまったと言う時は「這って進んで歩いて戻る」それを何べんか繰り返す。そして「クマがここにいるぞ」っていう時は「這って進んで、また這って戻る」。それを繰り返す。そうして連携して「ブッパ」まで追い上げる。。。

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今では無線があるし携帯だってあるけど、、、昔は手合図 身ぶり合図で伝達していたなど 当時のクマの巻狩りを口述記録された本編特集がまことに面白い。時々 福島弁というか会津弁が混じって心地よかった。サワリを紹介しました。




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by tabilogue2 | 2017-01-15 14:09 | 会津学 | Comments(0)



しばらく山行しないで時間を弄んでいたので
罪滅ぼしにと・・・ 過去のブログ記事から
「小川登喜男・伝」を引っ張り出して・・・
間の空いた投稿を埋め合わせしたい(´艸`)


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emoticon-0162-coffee.gif レビュー

ひとたび、激しい行為を通して強い生命の喜びを知りえた者にとって、心はただ自然を愛する自由な旅人ではなくなっている。彼の眼にはやはり山の美しさが映っている。しかしそれは静かに眺められた美しさではない。彼の心には、彼みずからの意欲によって開かれた山の激しい美しさが目覚めている。黝(かぐろ)い岩、鋭い雪稜、きらめく蒼氷、身をきる風の唸り、そして雪崩の咆哮。これらの美が彼の心を引きつけ、彼の魂に息苦しいまでの夢をつくり出す。その時山は、彼自らの生命をもって贏ち取ろうとするプロメテウスの火となるのだ。 
「森の中」 小川登喜男 1934年 山岳雑誌「山」梓書房 


このエッセイは小川が大きな影響を受けた英国の登山家アルバート・F・ママリーの登山論が起源となる。ママリーの原文は慶応の大島亮吉によって和訳され、それに啓発を受けた小川が書きしるした登山論の一遍である。

「人はなぜ山に登るのか」 この永遠の課題をもって登山家小川の思いが始まる。「真に新しいルートへ向かう。誰もまだ到達したことのない地を愛し、大地がカオスの世界から生まれて以来無垢の地、氷の襞におのれだけの径を刻もうとするものである」ママリーからの啓発である。それは穂高で落命した大島の心を酔わせ、彼が和訳したママリー登山論が若い小川たちを谷川初登攀へと駆り立てたのだった。

小川登喜男・彼が仙台近郊の山に足しげく通った東北帝大生時代(1928-1931)、その4年間に東北の山々を登り白銀の峰々を滑走したことが、彼の人間性の礎の一つになっているのは間違いない。その天賦の才に恵まれた彼は小さめな体躯(165cm)ながらも持ち前の柔軟さで谷川 穂高 冬の剣などでその才能を咲かせるのだが、それ以前に泉ヶ岳や大東岳 船形山 黒伏 丸森 霊山 蔵王 八幡平 吾妻 飯豊 八甲田といった東北の豊かな大地・ブナの森・たおやかな峰にて培われたであろう山への想いは天才クライマーとしての技術ばかりか人間としての心の豊かさをもバランスよく埋め込んだ。それが著書に出てくる言葉「Gemut」(心情・情緒)なのだろう。それらがヒュッテンブッフ(蔵王小屋に備えられた自由ノート)や部室に備えられた「ルーム日誌」に多く認められた。落書ノートの「ノリ」そのものである。それに見る男たちの友情は濃くそして思いは熱く、読む者に昔日の良心を見せつける。熱いものが伝わってくる anthology だ。

哲学的とも宗教的とも思想家的とでもいうか帝大生の山に打ち込むストイックな姿に私などは敬服の念を抱くのみだ。それにしても読後に悲壮感めいたものを感じなかったのはなぜだろうか。恐らくこの本の背景に流れる「帝大生」という磊落な気質がその因子なのだろう。それはそれとして、書き手の出自が岩ヤか沢ヤかでこうも違ってくるものだろうか?沢ヤであり山岳スキーヤーでもある深野氏が書けば山への情念と描かれた心情が中心となり 仮に岩ヤの遠藤甲太氏が書けば、滲みだすあの生死の境から生まれる悲壮感で世界をも陰鬱に包んだことだろう。

確かに、クリンカー、トリコニー、ベルニナ、ムガーなどドイツ製の鉄鋲を打ったナーゲルシューズでしかも麻縄のブーリン結びで、プロテクションもおおかた無しで断崖の岩場に挑むわけだから宗教的な文体になるのも必定、理解もするのだが、いずれそのような貧祖な道具の時代での登攀なのである。今を見て知って当時を思えばなんと無茶で恐ろしい意気込み至上の登攀だったであろうか。小川が田名部、枡田とで登攀した谷川岳 幽の沢右俣・右俣リンネ初登攀の回想が読み手をかなりビビらせる。この装備で逆層の岩場をバランスのみでしかもノーピンでクリアしていく彼らに「日本の近代登攀技術を一段上がらせた」・・・と。岩から身体を離しオーバーハングをクリアしていくという近代メソッドがそこにあった・・・と。足しも引きもしない岩壁登攀の実力者である遠藤甲太氏が全てリードにて同ルート実録検証をしその上で語っておられた。余談だが、深野さんと遠藤甲太氏は旧来より親交ある仲だ。それは当時の僕がよく知っている。なので深野さんのルート推考と遠藤甲太氏の実登攀による検証とでこの評伝を書きあげるに互いに補完しあったのだろうと推測する。

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emoticon-0162-coffee.gif 読後感 

深野稔生さんの本を読んだのは共著である「ブナの山々」が最初。それが出会いで、それが元で郡山からの転勤後にYMCA山岳会に入った。次の本は「山遊び山語り」、「宮城の山ガイド」だったろうか? 土樋にある深野宅の書斎で戴いた「昨日からの手紙」「神室岳」が最後だったろうか? 彼の文学的?形容文体を少しトレースしてみたくなって・・・、amazonでポチったら かの本は翌々日には届けられてしまった。まだこちらが本を読む覚悟をせぬうちだったのでその分厚い装丁におののき、パッと本棚の何処かに隠してしまいそうだった。ついついページをめくると、意に反して、どんどん惹きこまれてゆくではないか! おそらく自分にも そういう素地、山のDNAが潜んでいるんだろうと思ってもみた。ただ、18歳から山にのめり込んでいた割に自分にはストイック性がまるで無い。あるといえば、「山は総体だ」という哲学のみだ。そんな自分なのだが、この本を読んでいると山への向かい方に教示され、反省もし、山岳愛好家として理想への道標にこれを据えようと思うに至る。

山行には焚火と酒があればよいなどと平気でのたまう自分はとても恥ずかしい。とはいえ文中にある「バドミントンスタイル」という言葉にこそスポーツを楽しむという英国近代登山発祥の姿(British hill weather 1892年より)があり、慶応の大島亮吉が流行らせたらしい言葉がある。そんな下りがあるのでパイプをくゆらす、スコッチを嗜むというのは登山に於ける紳士道として許される覚えなのだろう。さらに雨が降ろうものなら止むまでマントを被って山野に宿り、霧が出れば晴れるまでパイプを咥えて幻想の世界に身を沈め移ろいをやり過ごす、という気候をも含めて自然を楽しむ彼らに欧州における古来伝統のスポーツの香りが利ける。元来、スポーツという言葉には”楽しむ”という意を含んでいる。それが英国バドミントン村での貴族紳士の生活スタイルなのだとファッションも交えて大島らは慶応の部内報にて披露し実にやがて社会人全般にも流行するようになったとある。今も昔も学生こそ時流の先端にいたわけで、この下りにあるファッションにさえも日本近代登山の黎明をビシバシ感じてしまう。

「岳人」とは、「アルピニズム」とは、いったい何ぞや?「岳人」と称するには如何ほどの時間を山と渓谷に費やさねばならぬのか?厳しく危険な山を追求する一方で憩いを大事にし、緊張を持続させる行動はやがて肉体ばかりか心のくつろぎを要求するもの。緊張の登攀を終え、ひと休みするアルピニストには瞑想的な精神があらわれる・・・イギリスではこれを「The spirit of the hills」“山岳の精霊”と呼んで尊んだとある。その「岳人」に宿る精霊とやらを得るにはどのような心境に自らを浸らせるのか?この下りを理解せずに「岳人」は成り立たない。この辺を現代の万民登山とで比較してみたいと思う。自らを「岳人」と呼び悦に入るなどは身の程を知らぬ滑稽な行為と先人たちに笑われそうである。そこのところは一度学生時代に戻って、いわゆる「登山とは何ぞや?」に思惟を巡らさねばならんのだろう。

さらにもう二、三度、当著を読みこんでみようと思う。「岳人」であるなら一冊は持つべき本であり 山岳愛好家であればけして損はしない一冊である* 草稿なので 今後書き換えることがあります。

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emoticon-0162-coffee.gif 登山家 小川 登喜男(おがわ ときお、1908年 - 1949年) 
東京浅草の生まれ、旧制東京高等学校在学中出より登山を始め、東北帝国大学山岳部(1928-1931)では草創期のスキー登山によって、蔵王、船形山、吾妻連峰、八幡平など東北各地の山で活躍。登山のために入学し直した東京帝国大学山岳部(1931-1934)では、谷川岳一ノ倉沢や幽ノ沢、穂高岳屏風岩、剣岳雪稜などを初登攀した。

「行為なくして山はない、情熱なくしては、いかなる偉大なことも起こりえない、山への情熱は、山に行くことのうちに純化されるだろう」(東北帝国大学山岳部ルーム日誌より)

肺結核で若死にし、長くその登山の偉業が知られることがなかったが、東北帝国大学時代に残した日記に小川直筆のメモを見たという。部室や蔵王小屋に集う岳友たちとの交情、山行報告、思索と随想、帝大生たちの青春、登山がロマンであった時代の伝記である。昭和の天才登山家と評される小川登喜男の実像に迫った力作評伝。

「銀嶺に向かって歌え クライマー 小川登喜男伝」 深野稔生著 みすず書房発行 定価 2800円

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でも こんな読み方もあるので 紹介しておく


いちおう「評伝」だから史実もののジャンルなのだろうけれど  脚色もあるとして事実との符号に苦慮する点も多々あるらしい 
それを小説だと指摘する方もいるので そこの所にまだまだこの本の問題があるようで その一方の意見主のURLも表記しておく。
* http://kletterer.exblog.jp/20207595


それらを指摘をする彼は自身のブログに「クライミングという行為が、無機的な岩塊の上で繰り返される筋細胞の伸縮でしかなく、幾つかの数字だけがその結果を表現するものであるとしたなら、なんと虚しいことだろう。」と書いているので その一文で真摯に岩に取り組む方だということが傍目の私にも直ぐにわかる。ご訪問してみて下さい。



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by tabilogue2 | 2016-11-25 22:56 | art | Comments(0)

秋の水晶尾根 Ⅲ級

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藤島玄著「越後の山旅」に出てくる『錫杖尾根』は
水晶尾根の枝尾根3本のうち 
本名穴沢寄りの尾根ではないかと推測される






ルート図の掲示は今月末まで




memo リンク先






水晶の細尾根は山伏尾根よりは簡単(らしい)、御神楽は岩質が脆くボロッといく とだけ聞いていた。

まずは湯沢から先、広谷川左岸を進み、ラクダの窓沢を過ぎて本名穴沢との出合いに至る。本名穴沢沿いの途中、左から入るトマノ左俣に入って 水晶尾根末端の丘に登りついた。前回の敗退が頭にあるので何としてでもクリアしておかなくちゃ。呪文は「山伏よりは岩は立っていない」だ。

先行で枝尾根にとりつく、小松の枝が邪魔ながら20mも登れば 所々の岩穴に3cmほどの水晶が光る主尾根に出た。水晶尾根の名前の由縁だった。水晶尾根に上がった途端 素晴らしい景色が飛び込んできた。御神楽稜線からは何度も見下ろしたことがあったが 今は奥壁の上に広がる稜線を真下から見上げている。右が湯沢奥壁の鋭鋒群とアバランチシュート、左は御神楽沢、谷まで深く切り込んでいて、滝が幽かに見えた。左手奥がつばくろ尾根だ。愛機CONTAXを軽量化のため「写るんです」に変更したのが悔やまれた。

後続がコンテで続く。やがて大きな太さ50cmほどの美形な松にでた。このスラブ帯によくも生き残った奇跡のような松だった。松の根元をスラブの左手から跨いで進むとP5。P4手前の岩塔は2ピッチで処理。いよいよP4、高さ6mほどの手がかりのない丸い大岩に行く手を塞がれた。この丸い大岩だけが安山岩のようだった。その岩のクラックにコメツツジが根を食い込ませているのが見て取れた。大岩にボルトが打たれていたのでアンカーとした。バンドを右に進みツツジの株を手がかりにして登る。ロープをフィックスできる倒木でセルフビレイ、後続を確保した。

面白い箇所はココまで。 あとは山伏尾根が合流する山伏の頭P1まで、細尾根の起伏を左右のバランスをとりながらひたすら登るだけだった。後続は単調さに飽き、P3で稜線を右へ逸れスラブに出て手ごろな壁を見つけ7mほど直上したいと言ってきた。右のスラブに降り横壁で少し遊んで、それでも満足させるものではない。ここら辺のスラブは平坦で、なんら怖さも持たないほどフラットバーンだった。

途中、あるはずの岩峰、御神楽槍はどこだったのか???いつ乗り越えたのか??? 印象そのものが薄い。 それらしきものといえば3枚目の画像になるのか?急峻さはないなぁという感じ。御神楽槍、尖った槍というほどの記憶がないまま山伏尾根の合流点を過ぎ、チンタラと湯沢の頭に出た。スラブ群を眺めながめ 取りつきから尾根踏破に6時間かかった。


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by tabilogue2 | 2016-06-24 14:23 | 会津・越後 | Comments(3)

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この道、大山越にいく長谷川沿いの道




●中西章編 「いろりばた」黒沢越・柴倉峠 に拠れば


旧・耶麻郡の野沢町(現・西会津町)から物見遊山で旅をし大山祇神社をお参りして 
さらに柳津の虚空蔵尊にも詣でるには峠道を二つ越えなければならなかった。
一つは 黒沢越(540m)であり もう一つは柴倉峠(490m)である。
黒沢越を越えたその足で柴倉峠も越えねばならなかった。

話を聞いた野沢の十一塩屋のご主人の記憶によると、仲間内の元気のよい人は、滝を
見た後さらに足を延ばして神社の奥ノ院にも詣でて峠の直下で追いついてきたという。
事実、手元にある一色刷りの昭和四十四年十月三十日発行の五万図には、奥ノ院の手
前から等高線沿いに峠に向かって破線路が付いている。

野沢から黒沢越に南下する道は 西平の鳥追観音に詣り 中野川に沿って大久保の
「大山祇神社」に出る。ここ大久保の遥拝殿に寄ったあと山道に入り「弥作の滝」の先
から左へ折れ黒沢越に向かった。それ以前は「大山祇神社奥ノ院」手前から峠に向かっ
て破線路があったようだが今は(昭和60年9月22日)草に埋もれたか、見つけることが
できなかった。

峠一帯は昼もほの暗いほどに成育したブナの林で、沢詰めから峠にかけては路形もはっ
きりと残っていた。大滝側もコースは小沢を下るが、滑りやすい渕の岩肌には誰が穿っ
たか、程よい感覚の足掛かりが刻まれている。

黒沢越を南に下ると路は尾根裾のトチ巨木の袂で長谷川の上流に出合う。ここから2キ
ロも歩くと五軒が家居する大滝である。さらに流れに沿って下ってゆくと落合に出る。
落合とはその名の通り 長谷川と面倉川が落ちあう所で、橋の袂には今もそのまま時代
劇の舞台装置に使えそうな好ましき旅籠が二軒ある。
かつて中西さん一行は野沢から南下し「黒沢越」を通り長谷川沿いを下って・・・、
もう一つの川、面倉川と落ち合う地にいたった。落合、オチエイと訛る。

写真はそこに建つ橋本旅館の今現在の姿を納めたもの


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野沢-西平-中野-大久保-黒沢越-大滝-落合-黒沢-柴倉-麻生-野老沢-柳津




今回、私は 西方から黒沢経由で落合まで街道筋を車で北上した。塩の道の大きな標柱があるように
会津藩、幕府直轄お蔵入り地代々の歴史路、物資、西入り塩(ニシイリジオ)の交易のあったところ。
人足、宿場としての集落がまとまり、山あいを転々と埋め、街道を成し南北の地を縫い合わせている。

たまたま 以前立寄ったことのある西方集落の一番山手にあるお宅に 本日ふたたび訪ねた。
そこのお父さん(私より随分お若い方だが)に幼かった頃の遊び場や昔話を窺うことが出来た。

それから黒沢集落に移動し道すがらお婆さんと歓談、、、
落合の橋本旅館の旦那さんは だいぶ前に野沢に出た という話をお聞きできた。

当の橋本旅館に現在居住されておられる方もいて、
今日はそこも訪ねてちょうど野良作業から戻ったところで・・・、
ご夫婦に昔の街道筋の賑わいや暮らしの話や 大山祭りの話や 昔の黒沢越の様子も聞けた。

「熊が出っから、黒沢越はもう藪で歩がんにがんない 行くときはよっぽど気いつけねど~」

鉱山掘りで昔は百戸も集落があったといわれているが・・・今じゃ長谷川沿いの奥には5戸のみ。
長谷川沿いに入ると「百戸沼」があったらしい、百戸も鉱夫村がたつのは金山か銀山か黄銅鉱山だろう。



話は変わるが、、、 この黒沢越の西、高揚山の尾根沿い沼越峠のさらに西に
「八人岩」という岩場がある。グリーンタフという緑色をした凝灰岩だが、
名前が「八人岩」というので ヘンだなと思って謂れを調べたら 悲しい事故を知ることになった。


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この川が 長谷川
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この川が 面倉川

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大滝集落への案内標識





次回は 西方集落の「屋号・通称」を街道筋に沿って調べてみたいと思っている。
また手土産品持って訪ねて 村の年寄に話を聞いてゆきたい。会津通いの「行きがけの駄賃」である。


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by tabilogue2 | 2016-06-15 08:47 | 会津学 | Comments(2)

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(前半より)

趣味の会だからこそ・・・
趣味の会だからこそ趣味の会らしく世の中の「真偽」にこだわって生きよう! と普段から提唱していた運営委員長。栗駒山のクロベの森保護運動の際も青森営林局に掛け合い 船形山のぶな伐採問題にも古川営林署に掛け合い奔走したのは運営委員長の彼だったではないか!彼がいたからこそ守り通せた「会のアイデンティティ」ではなかったのか! もうお忘れか?山に向かう真摯な姿勢を「生きる鏡」として我々会員は学び、仲間を慮った会運営に助けられていた。会に尽くした貴重な20数年の歴史に感謝こそすれ除名とは恩を仇で返すとんでもない行為! 非道そのもの。

金の扱いにこなれた会員(保険屋)が入知恵をし数百万の遭難保険金詐取問題と運営委員長の実績とを相殺してしまった。会運営に疎い保険屋稼業が事実を曲げ、その一方、会の運営で神経を細めた運営委員長が当会史から抹消されてしまう 天地逆さまな驚くべき事件だ。このことを耳にし、OBの私などは怒り心頭になった。抗議者は運営委員長だけとあってはYMCA山岳会の名が廃るので 旧運営委員の私も名を連ねることにした。
 
もう一つ気になることが・・・
新刊に書かれていた。それは5年前、3.11以降に世の禁断を破って月山に登ったこと・・・である。当時、ことある度に大阪から石巻にボランティアに駆けつけている会員もいたし、月2回の生鮮物資を避難所解散の11月まで配り続けているOBもいたというのに、会長たるものそれには目を向けず、それから逸らすように己の精神性のためにだけ、世間の禁をも破って、雪山に向かった・・・、その心境がたった数行で語れてしまう人なのか?。まったく「自己中な人」だ。なんせ当時山行を我慢しているのは会員皆同じだったのだから・・・さらに当時、世間の白い目にたじろぐことしばし!だったはず。当時、自分が山に行きたいと欲するならば「会山行」を催し、心に潜むジレンマに禊ぎをして会員皆で行けばよい事。自分だけ行きたいだなんて・・・、世間と隔絶した生活意識の持てる人だったのか? 「真実」が書かれなければ「嘘」が晴れることは決してないだろう・・・、墓場まで持って行くつもりか? 

深野稔生:著書に初めて触れたのは・・・
「ブナの山々」(白水社)だった。1990年に単身赴任を終え仙台に戻ってきたばかりで 何処の山岳会に再入会しようか機を窺っていたところだった。その頃、発刊されたばかり此の本を手に取り読んでいくうちに強く惹きこまれていった。すばらしい短編の論理構成、レトリックだった。それがキッカケで深野稔生のいるYMCA山岳会に入会した。私も当時40歳、純粋に深野作品に文学性を感じ惚れ込んでしまっていた。それほど文章力には他を圧倒するものがある。地域研究や民俗学の実証的研究には一歩もニ歩も先ゆく、知識は深い。でも一方、人生の終末に一人の爺さんに成り切れぬ哀れな男であることも知った。会長とまで言われた男だから、陰で息つく暇もないはず・・・常に世間に見られている感じがするのであろうが、強がりだけ、嘆くこともできない男に人間的な魅力は感じない。否、弱さもあっていいじゃないか! 会長だからって人間的な弱みを陰に持つのは決して恥じゃない。そういう腑に落ちぬ所が山岳会を辞めた私の一つの理由にもなっている。人柄の裏表とは皮肉なものである。

彼の側面、敢えて言えば・・・
苦々しいが、、、山岳会での会長職最後の頃、彼の利己的側面をモロに見てしまっていた。例会後のいつもの居酒屋で会員と口論の末、取っ組み合いになって拳をあげる騒動を起こす、その現場を2度もみていた。他者の意見には「貴様 俺に指図するのか!」と目ん玉ひん剥いて恫喝し、己の意見が絶対だとする不遜な態度が彼にはある。それには私も抗議したほどだ。醜い。

人間的には悪い人じゃないんだろうが、おそらく・・・むかし育った家庭環境や家族関係が起因してか?「他者に馬鹿にされたくない」という思いと、どういうわけか「他者を信じられない」「自分の目と足で確かめないと信じない」ところが彼にはある。「品のある知性」とは真逆で「自尊心とコンプックスの塊」のような一面があり、その琴線に触れると極端に激高する。そんな深野稔生氏本人の前で 僕が言い放ったことがあったらしい。すっかり記憶から漏れていたが最近(2016.10)になって YMCA山岳会OBの町田くんからメールを貰った。そのメールにはこう書いてあった・・・「私は深野稔生を尊敬するけれども、人間的に嫌いだ」と(深野稔生氏本人の前で僕が)言ってのけたことを私(町田)はしっかり覚えている・・・と書いてあった。事実のようである。この辺りから営業の仕事も忙しい立場になり、僕は会活動から遠ざかってしまった。

一昔前ならブランドだったであろう”土樋”に宅地を求め「蔵書に囲まれた暮らし」をしてもいる。居間にはジャズが流れ、茶道の囲炉裏も切られている。広瀬川に面し桜を愛で、夏は花火も間近に見れる。安保時代に学生運動に身を投じたものであれば 誰しも嫌ったであろう「私的財産欲」「プチブル」「中流意識」。それらの上乗せでの「個の確立」論者であり「中流意識の権化」でもある。もはや山をめざす者として 山を前にし身を屈める蹲踞の姿はそこにはない。物事の善悪、保険金詐取の見境もつけられぬようでは 単に独居の老人ではないか?老化は正義や彼の精神までも蝕んだようだ。 

僕は深野稔生をこうみる・・・
「異見を持つ者を排する・・・」裏返せば じつに肝っ玉の小さい、鷹揚に構えられない、「自己愛な男」と見抜いた。口撃で論破し、ディベートで潰せぬ者には暴力と恫喝で排し、「深野稔生」という山岳会の知性派と言われるまでの「権威、名声、ブランド」をガードしてきた。それら半生の弁解、今事件の弁明、我々会員の前で真実を吐露する書物も いつかは出版されるのであろうか。それこそレトリックの怪、深野稔生という「男の懺悔」の時であろうとも思っている。

もし仮にそうでなければ、異国の地に死んだヒロシも 師と仰いでいたにもかかわらず断絶するほどに裏切られたヨーコも 会をファッショ的に追い出されたユタカも ボランティアに精を出してきた現役会員もOBも ともに浮かばれない。YMCA山岳会を踏台にし自分の名誉を守らんがために 組織を私物化したのは深野稔生自身ではなかったのか? 会長ともなれば 会の今後の発展を願って止まないはずだが?運営委員長をクビにするようでは先見性に蓋をするようなもの。 器が違ったか?懐疑の心も成り立つほどだ。いや、ひっくり返せば? 埃が出そうな話が深野さんにはまだ他にもある。よほどに社会的地位、自慰的美学にこだわってきたのか?そうとうの自己愛な人と見える。今はもう 彼の周囲で誤まりを指摘しNoを云える者がいなくなった。Yesマンばかりで議論を交わせるものが一人としていない。親が名づけた「稔生」の意味するものは「稔ってさらに実を活かす」であるはずだが、もはやその実も枯れた火宅老人になってしまったか? 彼からの弁明を待ちたい。

自己愛に偏執してきた深野老人・・・
齢73になって かつての仲間たちの「真実を見抜く眼力」を忘れ、ナルシシズムに陶酔するかのように引き籠り、「自らの美学」に浸るような山行記を出したとあって、彼を知り尽くす会員にすれば「灯台の元を暗くするな、灯を当てよ」という言が耳元で囁いているはず、また相当に的を射てる指摘でもあるはず。





ブレスする彼の表情を見たら・・・深野さんはなんと思うだろうか? 尋ねてみたい。





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by tabilogue2 | 2016-03-24 07:30 | mount | Comments(0)

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「てっぺん駈けた記」著者:深野稔生(白山書房)・・・
直近の10年、山岳会会長を辞した後の「山行記」。「臥月眠雲」ga getu min un(つきにふし くもにねむる)仙人のごとく昼夜を継いで歩き、深山を一日で駆け抜ける修行僧ならぬ単独行やスキーによる山岳滑降の記録のような本だと彼は言っている。こういう自由なスタイルの山行が、高齢となるにつれ、深野さんはしたかったのだろう、、、と本音のようなものを探ってみた。会長という職責に普段は縛られていたんだろうなぁ、と普通人は慮るだろうが じつはそれは、まだ彼の「表向きの顔」のテリトリー内だ。本の内容はマチコミ誌「りらく」に寄稿していたものがほとんどで軽いタッチでまとめられていた。この本のために新たに書き下ろした記事は特にはなかったように思う。強いて付記されたのは 最初に付け足されている七峰の項。彼の生い立ち、、、不遇な親子関係が垣間見れる。それが彼の自己愛に通ずる人生の基盤となったものか、独り善がりな人間性に翳を落とす因子にもなっているようだ。それと 第6章の 今後の山との関わり方 ぐらいだろうか? 他は 深野稔生「自慢話」である。 井の中の蛙で、旧い文体で書かれても 面白いと触手を動かす御仁は滅多にいないだろう。

YMCA山岳会在籍だったころ・・・
「山スキーに有効なジャンプターンを教えてくれ!」と彼にせがまれたことがあった。「ヒネリのタメを作らなきゃジャンプターンは早々にできませんよ」とだけ伝えたが、どだい一、二度教えたとして 内倒する癖は直らんだろうし、逆に山スキーではそれを是とする場合(フレンチメソッド)もあって 欠点として矯正すべきものでもないだろうし。ただ、内倒をカバーするために「内足がシュテムする」悪癖が直らないことには けっして外足に乗り込むことができないだろうし、つまりは「タメ」ができない。そればかりか私が教える総てが意味をなさない。最近滑りを見ていないが、おそらく今でも彼にはその癖が遺っているんじゃなかろうか。我流スキーヤーが数十年やり通してきた形を他者である私が手を加えたとして 即席じゃどうしょうもない。ただ、「諦めてください」と無下には言えなかっただけだ(笑)

在籍中、彼が若かりし頃に何故山岳会に入会したのか?という動機を知らずにいた。それと今の今、何故に一人単独で山と対峙するようになったのか?という最近の単独登山の動機が新たに記されていたので興味を惹いた。読後、前者は淡い郷愁とともに一風殺伐とした家族関係を匂わせたし、後者は内容的に「そんなの!」が動機なのか?利己主義の典型みたいな事由ではあった。まあ、早暁に山野を単独跋渉するなどは常人に真似のできる山行内容ではないので特に惹かれるものではない。・・・と、こういってしまえば新刊に託した彼の美意識は身も蓋もないか(笑)一言でいえば、深野稔生であるならば「さもありなん」というところであろうか。いやいや?、エゴイスト中高年ら未組織登山者たちのヒーローにでもなるおつもりか? ( `ー´)ノ とでもしておこう・・・。

この本を評して・・・
”「利己主義」の深野さんが書いた「自己愛の塊」のような山行記である” と評すれば、それは言い過ぎだろうか? いや、外れてもいないだろうよ( ´艸`) そしてそれこそが彼の裏の顔であり、真の姿なのである。



気になったのは・・・山岳会員の船形・花染山での遭難死の件がほんのチョット記されたこと。それへの少しばかりの事実が無感情で書かれていた。じつは・・・山岳会として存立にかかわる重要な問題を含んでおり、こともなげに既成事実化されても困るし、「事件の風化」をさせないためにもそして除名処分された元運営委員長の名誉を守るためにも少し自分なりに記しておきたい。

事件の内容について述べれば・・・
当時、会は冬合宿中で本体は八幡平だった。ところが秋に入会したての新入会員、教職のAが計画書のない無届登山をし、遭難死してしまった。これがこの後に記すドロドロ事件の発端だった。これに対し、こともあろうに会長たるものがブレーキ役を果たさず、一部会員と一緒になって事実を曲げ、遭難保険申請を決済させてしまったという重要な過失を含んだのである。

それまで会活動の一切をしてこなかった損害保険屋の丸山某が「便宜」を図り、YMCA山岳会創立以来半世紀という歴史、栄えある名誉をおとしめる大破廉恥=「保険金詐取・背任事件」を起こしてしまったのである。30年近く当会に貢献した運営委員長のたった一人の「反対」があり、上手くやろうとした会長一派との間に軋轢が起きた。結果として①「事実」を押しやって、②一人反対した運営委員長をクビにして、③遭難保険金を詐取し遺族に不正な保険金を渡してしまった。会においては無届山行はずうっと禁止されており、特に会山行時の個人山行は許可無しではできない。それは保険の制約条件にもなっている。

その後、「この間の事実を述べる義務あり!」と運営委員長が日本山岳協会共済会に不正を直訴したのだから、さあ大変! 火消しに躍起となりさらに嘘を嘘で塗り固める。④彼らは事前に謀議し、総会にて引地某による動議発議を行い、⑤強権的に運営委員長を「会の名誉を傷つけ会を貶めた」と作為的な事由で処分してしまった。まるでファッショではないか?⑥さらに運営委員長の為した会活動30年の在籍歴をないがしろにする除名処分で葬り去った。こんなことが有っていいのか! 

なにが臥月眠雲なのだろう?誰が仙人だというのだろうか?何をもって道元禅僧の引用を為したのか?俗界を離れた 神仙の境地・・・だと? ヘソで茶が沸くとはこのこと、深野稔生氏にとっての知性とは嘘の上に成り立つ「悪知恵」のことらしい。

あれほど山に対して真摯に向かっていた運営委員長は山から遠ざかり、今は自ら忘れ去ろうと音楽活動に挑戦しているが、、、当の御大は知的生産物の発刊と名誉づくりにぬくぬくと勤しんでいる。片や山岳会員としての名誉を奪われ山さえ忘れようと苦しんでいる男がいるにもかかわらず、此方は臥月眠雲の仙人気どり・・・?おかしいではないか? 

真実が公然化しゆくゆく正体が暴かれる日も来るだろう・・・その際には眠雲ではなく、一派ともども社会的に雲散となるかもしれない。 なかなか面白そうじゃないか。 (後半に続く)




ブレスする彼の表情を見たら・・・深野さんはなんと思うだろうか? 尋ねてみたい。












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by tabilogue2 | 2016-03-21 18:13 | mount | Comments(2)

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いつもの「ゆうゆう館」で ヘルメットを購入してきた。。。

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「どうしたんですか? ヘルメットなんて 突然???」 
続けて店主・・・「深野さんも本を出したし・・・、何かYMCA山岳会には有終の美を飾るに 
なにか過激なことでも流行ってるんですかね?異変?」ともいわれて、、、
あ~また彼、出版したのか・・・と知った。 

お彼岸に山に登るような男じゃない と店主は観ているのか・・・、
「お暇でしょうから・・・」の一言で、新刊「てっぺん駈けた記」を読んでみることにした。

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話をヘルメットに戻そう、、、

長年愛用のGalibier製も手元にあるが 「黄ばんだガリヘル」じゃ、向かう山に申しわけない。
それに新調したのには ちょいとした目的と確固とした意志があって・・・
「今夏は沢を遡って遊ぼう」という魂胆だ。
出羽丘陵:弁慶山地を沢から訪ねようと、かつての仲間に声がけしていたものだが 
いよいよ今年、現実味を帯びてきた。片眼を失い、昔日のように登れるのか?ちょいと不安だが・・・。

というわけで 大袈裟だが「出羽丘陵3ケタ遡行同人」(仮)を結社した( ´艸`) 
たかだか標高3桁の山だが、弁慶山地の標高200m~400mあたりの沢がじつに面白いのだ。
沢の詰めは滝だらけで稜線に抜けだせないかもしれないけれど、それはそれでまた面白い。
 
先日、大阪からMが来仙したので さっそくイロハ横丁に集まって計画をネタに一献やった。
YとMと俺とでのスタートだが徐々に昔の仲間が集まるだろうと予想するのは容易だった。
「このメンバーなら心底楽しい」とかつてのメンバーらの濃厚な記憶として残っているからだ。

弁慶をどの辺りから入渓し、どの辺りで幕を張るかも決めた。さしあたっては中野俣峡谷。
オシメ沢、白糸滝がかかる小滝沢は登っているので 次の矢櫃沢、四熊沢あたりになろうか。
沢の名称にも四足動物の名が出てくるほど出羽丘陵は自然の色濃いところだ。
北には鳥海富士があるが、その気高き標高のもつ呪縛には全く捕らわれぬ山域で
沢遊びに興じることを誇りとしたい。

「技術」と「遊び心」が備わらないと、この地の沢登りは愉しめないし面白くもないだろう。
自己愛に耽るなら自身を美化できる標高もなければ、登山体系を揺るがすようなネームバリューもない。
 
どんな小さい沢でも僕らは登る時、遊ぶ時には大真面目だった( ´艸`) 
かつてのように入山する際には虚栄心を捨て、得意の技を持ち寄り、ゾロアスターの如く焚火を楽しみ、
数日を遊び尽くすことに「遡行同人」の楽しみ方がある。

だから・・・、価値観や気心がピッタシ合うヤツでないと?遡行同人は無理なのである。
お酒は庄内の酒と決め、日本海の酒肴があれば焚火の他は要らない。
今年の夏、15年ぶりの弁慶山地。やり残した沢登りを完結できそう。今からワクワクしている( `ー´)ノ

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おじいちゃん ことし いくちゅ~ぅ? ・・・って
声も聞こえてきそうだが 仲間がいれば 実に怖くはないのだ。




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by tabilogue2 | 2016-03-20 16:37 | 弁慶山地 | Comments(0)


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愛読書、南会津郡東部の山(郡山山岳会編)18ページに「風土」という項目がある。
俄然、山岳会の ”教養たるもの斯くあるべし” そう思いハッとした。

南会津地方の民家に見られる典型的な「造り・構造」の話。
雪の多い南会津は一般住居でも二階からも出入りできるように 
玄関のような引き戸がまるまる一間の間尺で二階の道路側に仕付けられている。
これは「兜造り」と言われる、鎧兜の兜をすっぽりと被ったような屋根の造りだ。

その一方「鍵家造り」、いわゆる「南部曲り家」同様の造りが目立つ。
主に農家のようだが 家がカギのように折れ曲がった「曲り家」造りの家。
田島から伊南に抜ける途中、舘岩の前沢地区には 
観光用に「曲り家カフェ」なるものがあったように記憶する。

豪雪地帯では母屋 厩舎 収農舎(すのや)トイレ 風呂場 収穫物の下処理場 保冷庫などを
全て母屋に繋げて取り込み、屋根の雪下ろしの雪を積み上げるスペースを確保している。

雪解け水が浸透する「逆漏れ」(すかもれ)を防ぐため屋根の勾配は急で、
落ちる雪の重みで軒が潰されないように 軒の出っ張りは短くできている。

常居(じょい)と呼ばれる広間には大きな炉が切られ 
土間や板間が広くとられ冬の藁打ち仕事や 簔づくりができる様になっている。
長い、そして暗い冬、人も家畜も同じ屋根の下 食事も給餌も 同じ屋根の下で・・・
こういう生活文化が南会津の礎になっていたんだね。

会津駒ヶ岳も家畜の馬を雪形にみてとっているし、隣の中門岳も「鍵家造り」の呼称から名づけられている。
生活に山が密着している度合いが高いという証拠。
「中門造り」とは鍵屋造りの一形態で 凸の字型に家が作られ、
座敷など居住部や囲い通路が突き出した、真上から見るとT字型に造られた家をいうらしい。
そういえば 中門岳は 
会津駒の主稜線から北方に突き出た山容であることを思い浮かべることができる。

中門というのは、台所や土間入口から直接吹き込む雪や、屋根から落ちる雪で
屋内に持ち込まれる湿気・水気を避けるための「緩衝の役目」を果たす。
冬期間だけの仮設で造られる中門もあるようだが、
突き出した中門に厩舎 トイレ 風呂場 物置などがあるのも雪国の必然性から来ている。 


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とても面白く 読み直しました。
そしてもう一つ 

こうした家々が山間に点在し集落や村を形成し 強い共同生活を営み自給自足の村社会を築き
今日まで営まれてきたことに この書物、郡山山岳会は着目しているんですね。
地方山岳会としての在り方に当時、地域文化研究に一つの指針を示したものと思います。

1980年出版。地方山岳会が最も華やかな時代。ネットなどなく、すべての山情報の発信が
「山岳会」という組織から為されていた時代です。「B層」の付入る隙もありません。





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冬道具 
ブラックダイアモンド社製の用具が多い・・・ピッケル バイル スワミ カラビナ アルミアイゼン
他は エキスパートジャパン製かな? 最も古いのはフランス製ジュラルミンシャフトのピッケルだ
沢登り ロッククライミング 冬山、どの山行にもワイカンのロープマンやペツルのグリグリは重宝する
水は欠かせない マルキル社製の水筒に詰めるウィスキーは日本製が優しい ビールはクラシックラガー





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by tabilogue2 | 2016-02-14 11:40 | 会津学 | Comments(2)