女優:安藤サクラ 「百円の恋」から「万引き家族」へ


女優、安藤サクラを知ったのは・・・映画「百円の恋」”一子”役でした・・・、俳優:新井浩文との共演でしたが、俳優らしくない?飾らない?素の?泣きっぷりのいい?「ヒッキー」がアマチュアボクサーに変身してゆく難しい役をこなす?「特異な才能をもつ女優」さんだなと その時に思ったものでした。

この映画の主題曲がまた印象に残る曲で、歌っていたのが「クリープハイプ」というバンドで「百八円の恋」というもの。アップテンポで、それがこの映画にマッチしていて さらにスカッと、心地よかったことも印象に残りました。

落ちこぼれ、無気力で、怠惰で、”女を捨てた”女という役どころが 安藤サクラのハマリ役でした。その彼女がボクサー:新井浩文に恋をする。そこからの展開がとても心に残る映画で、、、厭世な旧知の自分と、その旧知の自分と決別し新生するもう一人の自分という「2つの自分物語」。 

その演技は・・・おそらく、安藤サクラという女優でなければハマらなかっただろうと思えるほどでした。 

ウェストダルダルなヒッキー「はまり役」の安藤サクラがシャドーボクシングで キビキビ、シャキシャキ、ビシッビシッするシーンや、「3回戦ボーイ」デビュー戦で打たれ続けダウンしても必死に戦おうとする彼女に、涙し声援する「真の家族」を呼び戻し、喪失した「自分」を取り戻すためにボクシングを選び戦う姿に、彼の心も揺らします。
再生される本人の未来を指し示すシーンでもあり 今も頭から離れません。素晴らしい演技でした。

それにしても スパーリングやシャドウするときの安藤サクラこそ「決まり役 ハマリ役」でした。(コマオトシ撮影なんでしょうけど…)練習ジムに何度通ったのか計り知れないほどだと思いますが 俳優業というのは凄いんだな・・・と、それほどボクサーの動きをキッチリ体得してましたっけ。

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映画 「百円の恋」 監督, 武正晴. 脚本, 足立紳. 製作, 間宮登良松.
出演者, 安藤サクラ · 新井浩文. 音楽, 海田庄吾.
主題, クリープハイプ「百八円の恋」.







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女優:安藤サクラを次の劇中で観たのは「万引き家族」の映画の中。 6月8日の封切りから約1ヶ月が過ぎたので ネタバレ気味に感想を述べようと思います。長文です。この感想文で「」で書いてある部分は凡て「ニセ」の意味が込めてあります。



映画 「万引き家族」 監督,脚本,編集,是枝裕和 音楽,細野晴臣
出演者 リリー・フランキー 安藤サクラ 樹木希林 


導入部分で遮断器が降りて警報機が鳴るシーン、、、ここで シンコペーションで擬音効果を「旋律」に変えていくのは 細野晴臣さんのワザかな? 
映画の終わり部分にも聴くことができる。人生の狂いや凋落を 一種の音や音階、シンコペーションで下げてゆく・・・ことで表す




家族であって家族ではない。この二律背反な家族関係は 言ってみれば、、、「ニセ家族」。

樹木希林が演ずる初枝のシガラミで「ニセの息子 治」、「ニセの息子の嫁 信代」がいる。もう少しシガラミを述べると、老婆:初枝と暮らしているのは 別事件で正当防衛ながらも前夫を殺めてしまった「信代」とそれに関係した「治」。それぞれが「ニセの息子」役、「ニセの嫁」役とで初江婆さんと「偽家族」を構成している。
じつは初枝の生き別れた真の息子の名前が「治」であり、真の息子嫁の名前が「信代」だそうな。この三人のどちらかが、行きずりで、どちらかを「拾った」のであり「拾われた」はずだが、とくに説明はされていない。
初枝はニセの家族を得ることで「ニセの幸せ」と「ニセの老後」を得たし、、、息子もまたその嫁も「ニセ」を貫くことで自分の存立と居場所を得ていた。 

もうこの辺で妙ちくりんなキャスティングだと思うのだが さらに物語は複雑になってゆく、、、関係を覚えるコッチも必死だ。
家族の定収は「初枝」の年金、「治」の日雇労働、「信代」のクリーニング店のパート代。この核構成に 家出娘:亜紀を「信代の妹」と呼ばせ住まわせている。彼女は風俗店で「サヤカ」という源氏名で出ており、そのサヤカは実の妹の名前だという。この辺りも複雑だ。さらに、かつて初枝が別れた旦那の孫娘だそうな。しかも初枝は亜紀の両親から慰謝料という意味合いで”別れた旦那の月命日”にお金を掠めている。さらに頭が混乱してしまうような人物構成だ。
この4人にさらに男の子が加わる。「治」の息子役「翔太」だが、駐車場で車上荒らしをしていて…たまたまそこに親に捨てられた子供が乗っていた。「治」は自分のもともとの名である「翔太」を息子役に命名し「拾ってくる」。不思議な家族関係はコレで終わらず、「翔太父子」がスーパーで一稼ぎした帰り道…DVの実害にあっている娘「凛」をその家のベランダから「拾ってくる」。

この物語は”もともと実の家族ではない”というところが味噌。”貧困の縮図”はよく観ておかないと筋書きがわからなくなる。ここに書いた人間関係が正確なのかどうか?書いてる私本人も自信がない、むしろ不安になるくらいだ。

労災補償も危うい日雇い労働、パートタイマーも解雇される不安定さ、僅かな年金で暮らす一人暮らしの老人、ゆすり・たかり・いじめ、再起資金もなくネットカフェで暮らす若年男性、風俗嬢、生活の厳しいシングルマザー、ドメスティックバイオレンスで崩壊する実親子、実家庭だったり・・・それら問題視された現実が”映画の舞台・人間関係の縮図”となっている。それらが貧困層「ニセ家族」という劇中構成。演じる役柄それぞれが”人生の限界集落的存在”だっ。

生きるために罪を犯す、嘘で身を繕う、嘘を突き通さないと生き延びれない、訪ねてくる民生委員を騙さなければ自分たちが生きられない、およそ世間の常識では論じることが出来ない。そんな世間に隠れた”貧民層”が在ることを…現実に据え底辺の様子が描かれる。必死に生きているけれど、”暮らしている”とはとても言いがたい。区役所も病院も学校も、およそ公共機関との関係は存在しない。明日や未来の計画もなく、ただひたすら日銭で今日を生きる。”勤勉な”日本人に理解できる状況は一つもないだろう。

地上げ”による荒廃がもたらすビルの谷間で 空も仰げない平屋の一軒家に隠れるように息を潜め「ニセ家族」が寄り添って生きている。「実家族」より安心して暮らせる空気感だったり、実の親子よりも心の通じ合う「ニセ親子」だったり、真の親よりも「ニセの子」の行く末を考える「ニセ親」だったり、「ニセの我が子」の前で真実の涙を流せる「ニセ親」だったり、息子との別れに真実の親でありたいっと願った「ニセ親」だったり・・・犯罪や嘘で繋ぎ合ってるだけの「ニセ家族」、それなのに『家族らしさ』が溢れ出て、またそれを映像にボンボンと盛り込む。

『家族らしさ』の映像、、、という点では、一家の団らんめいた食事シーンが映し出される。でも?どこかおかしい。よく見ると…それぞれが自分の好きなものを一家団らんの夕餉の食卓に並べて食べている。さらによく見ると違和感が、、、そう、すべてが「万引き」で得た食料なのだ。一発目からガーンと頭をかち割られる。
劇中、マンション建設現場で働く「治」がコンクリートむき出しの一室で、そこにあるであろう間取りを指さし、子らの名前を呼び、透明なマイホームを妄想するシーンなどは「男」としてのせめてもの償い、家族らしさに対する男の存在と罪滅ぼし的な夢なのか。
「ニセ父子」であっても「翔太」に父親としての愛情を感じ始めた「治」。別れのシーンで「翔太」が乗り込んだバスを「治」に追いかけさせている。そして他人には知られたくなかった「凛」とのいきさつを伏せ 職を失ってでも「ニセ母子」の秘密を守ろうとした「信代」。それは「信代」の幼いときの薄幸、「ニセ親子」の腕につけられた火傷のDV痕がそうさせた。
だが最期まで、世間に証明されなかったのは…貧困であるがゆえに寄り集まったということ。その「実の家族以上の愛と生活がビルの谷間の平屋で育まれ、営まれていた」ということだった。実親に捨てられた子に「ニセ父」としての情を知り、より強く抱きよせたその意味や、、、幼いときに注がれなかった母からの愛をせめて「ニセ娘」に注ぎたかった「ニセ母」、それらのシーンに「家族とは何か?」という重い意味が込められた。
崩壊した世間の実家族の男と女と子らが集まり 新たな「ニセ家族を拾って」暮らす。戸籍台帳にも載らない「ニセ家族」という新単位。それらの事実を受け止めることができるのは「ニセ家族」の彼ら以外には居ない
そんな「ニセ家族」も房総の海にでかけ実家族、実親子のように『家族らしさ』の振る舞いで映し出される。「ニセ家族」ゆえに?より濃い「家族らしさ」は観客に一体どういうわけ?運命?何故?と不思議がらせる。「ニセ家族」の一日だけの楽しさに、海辺での初江はポロッと枯れた言葉を漏らす。「ニセ息子」と「ニセ嫁」「ニセ家族」への感謝の言葉、それはたった一言の”敬語”だった。


場面は急展開する。警察の取調室でのシーン・・・この映画の山場だ。葬式代がないので初枝の遺体を居間の床下に埋めた。それは望みもしなかった”死体遺棄”だったが、死体を捨てるというのは重い罪に問われる…と取調べを受けるシーンで、「捨てたんじゃない 拾ったんです 捨てた人は他にいるんじゃないんですか」と抗う「信代」の言葉。貧乏ではあるけれど「ニセ家族」の初枝を拾って、どの家庭にもある普通の ”嫁としての幸せ” を拾おうとした。ただそれだけなのに解ってもらえる世間はない。ましてや権力に向かって「捨てたんじない 拾ったんです」と訴える「信代」は行き場のない切なさの限りだ。
訴える「信代」がアップされた。その目には拭っても、拭っても涙が滲み出てくる、、、”世界のカンヌ”で感動を呼んだといわれたシーン。安藤サクラの演技に涙が誘われ出る。『百円の恋』で女優:安藤サクラの名演技 涙 泣き声 呻き声を 既に 僕は観て聞いて知っていたはずなのに…。

先日まで住んでいた、誰も居なくなった空家を亜紀が尋ねる。いまでも誰かが顔を出しそうな部屋の四隅を見つめる、、、もう全てが終わったのだ。 この映画の底辺に流れる、どうあがいても抜け出せない『貧困のカースト』という厚い壁。貧困のドロ沼に一縷の藁も投げ込む世間ではない。
劇中のラストをどう捉えるべきか考えさせられた。「凛」が実母の元に戻ったとして実母から注がれる愛情は望めない。その「凛」が握ったビー玉はお兄ちゃん「翔太」から貰った宝物、そのビー玉の数え方は「信代」から教わった。「ニセ家族」のほうが実家族以上に濃い関係を築いていたことになる。反して、それほど実社会はうらぶれた面が強く出ているということなのだろう。 『盗んだのは絆だった』 この映画のサブタイトルの意味はこんなふうに理解すべきなのか?
貧乏は貧乏を新たに生み、薄幸は薄幸を呼ぶ。。。ラストシーンでの「薄幸の定め」におかれた「凛」。その不安な表情。かつてDVを受けた傷跡を「転んだ」と言い張ったほど、幼くして生きる”知恵”を体得していた少女。ビー玉こそは「ニセ家族」との繋がり。
それを手に持ち「凛」ベランダから眺めた視線の先は 一点を指した。 その先に写っていたのは、、、「治」・・・だったのだろう。 愛は見えた。 だが、その未来はとても淡く、輪郭はどこまでも朧気だ。 


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日本社会で、顕著になってきた「カースト化された貧困層」という問題。

貧困という悪循環」にハマって生きている。一度そこにハマったら抜け出せない。「貧困のカースト」…貧乏人は永久に貧乏人という身分から脱出することができない。罪を犯したり 嘘をついてでも生きなければ ただ死が待つだけ・・・それら日本の貧困の問題が今回映像化された。スラム街はなにも巨大なニューヨークや アフリカやアラブの難民キャンプや 東南アジアや中南米ばかりじゃない。堅実で勤勉な国民には到底理解できないだろうけれど この日本にはこの映画が指摘する現実が社会の底辺に渦巻いている。

是枝監督のおっしゃるように「大きな物語」と「小さな物語」とそれぞれの展開で現実を観る必要があるのでしょう。憲法 規範 保障 正義 法律 教育 そして自衛隊、、、「国民を守る」という見かけ倒しの「体裁」は整えているのに「極貧」は平然と忍び寄る。日本の政治がそれを救えないのは実に不思議そして福祉国家 文化国家と呼ばれる国でありながら実はその枠外で切り捨てられ「底辺」を生きている人たちがいる。『貧困な政治』という「大きな物語」の視点。
老婆の年金に定収を得て、日雇い、パート、風俗、万引きとで生きている「ニセ家族」。その家族は『お金』で繋がっている。こんな脚本、構成を考える監督は先日、文科省からの表彰を断ったという。エンターテインメントな映画が多く作られている日本の中で この映画は「小さな物語」の現実を捉えた、かなり異風な映画だ。とても「常識的で勤勉な」人たち、お金持ちと呼ばれる人たちには理解出来ない複雑怪奇な人物構成、現代の縮図。

「美しい日本」を呪文のように唱える政治家に ”底辺に在る” 現実を見せつけ、政治貧困の実態を指摘する。  校了



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by tabilogue2 | 2018-07-07 20:13 | art | Trackback | Comments(0)