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秋の会越・・・流離うか?彷徨うか?

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浦和浪漫の面々(赤崩にて)。。。 見てのとおり小綺麗な男子は一人もいないw、「ザ・沢ヤ」専門集団。奥利根を渉り歩く猛者ばかり集まっている・・・といえば嘘になるか?…じつはその真反対、一人ひとりは とても繊細で、恥を充分に弁えており、自己アピールを特にせず謙虚、にこやかだが、己の殻にこもるのを得意とする面々だった。だが一旦 組織の力をまとめ上げれば、どんな険しい奥利根の沢でも越えて集う、「ジッピ」の険谷に入り縦横に踏査し続ける、会を愛する「帰属意識」の高い連中だった。今は解散しており会名称は誰も使えない。高桑さんだけが「ろうまん山房」を名乗ってマスコミ業界の端っこで過去を肥やしに著作活動しているけれど?傍から見れば、おかしな話にも見える。 なんせ山岳会が為した偉業を崇める人は全国で数多だったから。その多くは「解散したのは何故?」と尋ねるが、、、すべては闇の中。 ”すったもんだ”は世の常というところか? 現在、旧会員たちは新たな山岳会を立ち上げ活動している。




せんだって 谷川岳案内登山の帰りに秋・黄葉の山を下見しながら「六十里越」を通って会津若松に抜けた。

入広瀬の村から眺める山は 昔々に歩いたお山が居並ぶ。ホント懐かしい。国道252号線から見える山は 横山、猿倉、前毛猛、毛猛、百字、太郎助、浅草、中ノ又、蒲生、大峠、御神楽、、、残念ながら会津朝日、城郭朝日、丸山はその奥に据えており国道からは見えない。

もともと村杉(半島)を巡るというのは 只見から田子倉の集落、銀山平、日暮平、大津岐へと陸路による往来道があったからだが、ダム完成(1960年)以前からここの水利権はここで暮らしていた田子倉集落の人たち(50戸 290名)の生活権でもあったわけだ。また当時の記録(昭和29年南会津山の会)には大鳥下流に「カゴ渡し」が記録されており、ダム完成以前の只見川がいかに深い谷であったかが推察される。そんな奥まったところにも開墾の出戸小屋があったそうだ。すべからく埋もれてしまった。その生活補償問題で大いに揺れたということだが 曽野綾子『無名碑』、城山三郎『黄金峡』に当時の補償交渉(田子倉ダム補償事件)やダム建設に絡む人間模様が描かれている。


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只見川のカゴ渡し(昭和29年)「いろりばた 59号」より



六十里峠を越えてトンネルを抜け田子倉ダムサイト駐車場に車を止めた。20数年前、ここから小舟をチャーターし向かいの村杉半島に渡った場所だ。かつて歩いた尖った山並みが続く。表正面には村杉半島の先端がもう少し右手に見えるはず。半島には白沢と岡沢の中間に突き出た岬があるがそこに船を横づけして(下の画像)、いよいよ半島に取り付いたものだ。稜線で待ち受ける大藪はこの世の終わりかと「悲壮感」で登った、漆の木ほどの潅木の嵐だった(´艸`) 送電線下を抜け、横山、猿倉山を目指した。氷と雪壁と密藪と険谷と、、、目を瞑れば一筋となって思い出される無名な山たち。

ちなみにマタギたちは猿をベイと読んだらしい なので「猿倉山」の読みは「ベイクラヤマ」が正しい



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「六十里越」の話に続き、「八十里越」の話に変わる。入広瀬から来ると只見の駅前で黒谷宿場への道を右に分け、まっすぐ只見の街中を過ぎ叶津へ向かう。その集落を左折し浅草岳への登山口である入叶津から 司馬遼太郎の長編時代小説「峠」に記された八十里の峠道が始まる。(旧)八十里越は、山神杉(さんじんすぎ)を通り、小三本・大三本沢・木ノ根峠・田代平・鞍掛峠・ブナ沢・番屋乗越・吉ヶ平となっているがまさに大三本・小三本を渡っている。天保時代に造られた石積みの路肩も平石山に確認されている。いま現在は建設中の国道289号線、そのアスファルト道の途中 大麻平(おおまだいら)からの(新)八十里越だが難度がかなり違っている。さらには「天保旧道」と「明治新道」の間に、遅沢左岸に「化け物谷地」のある「明治中道」とされる道もあって国道沿いに石碑が建っている。長岡藩の敗走には「天保旧道」が使われた。

新潟側下田(しただ)・三条と会津側を結ぶ道は律令時代から既に交易で存在していたわけだが(たとえば霧来川の三条集落の形成のように)、たまたま北越戦争時に 落城とともにそれを伝って継之助が落ち延びた。目下、「明治維新150年」企画で「逃避行」「敗走」が話題にはなっているが、”河井継之助の存在があって八十里の峠路がある”と考えたか?小説のように…官軍に追われる長岡藩士1200名(総勢5000名 子女・家人も含む)さながらこの峠路の悲話を追い求めるファンが後を断たないそうだ。その点からしても 主客を「逆さま」にして峠路を想う方もおられるのだろう。そこで、まずは「人々の往来 生活 交易のために道は開かれた」ということ。それがすべての道の基本だということ。それを時の権力者たちが利用したということ、、、事実はそれだけのことなのだが。。。全国各地で古道復活・温故知新などを旗印に「武士階級や上位者の立場」で物事を観るばかりで 今の古道ブームには当時の「生活者」の立場、観点が備わらないのはドウ?かと思う。

たとえば、暮らしにとって重要な「塩」であるが、江戸時代の初めまで会津地方の「塩」は小名浜一帯と相馬から仙台にかけての浜から採れた東入り塩が中心だった。その後、大阪から日本海を通る西廻り船で播州や尾道で採れた良質な塩が新潟に陸揚げされた。それが西入り塩である。あまり聞かされていない話だが、幕末に京都守護職になった会津の殿様:松平容保が幕府から領地を加増された際に、特に「新潟の一部」を容保は希望したといわれる。瀬戸内からの「西入り塩」を安く安定的に手に入れようとしたわけだ。文政三年(1820年)、御蔵入地:今の高田町以西、只見川以南の地方に7000俵の塩が運ばれたという。新潟港より阿賀野川をさかのぼって津川町で陸揚げされ、津川から野沢や西方へ駄馬で運ばれた。瀬戸内の塩は十四貫入り(52.5キロ)の荷姿だったので、津川での陸揚げの際に坂下の叺(かます)と縄で 米同様に一俵60キロに荷造りを仕直して運んだそうだ。奥会津に入る「西入り塩」は 1新潟-津川-野沢-西方-御蔵入(主として金山谷) 2新潟-津川-八十里越-奥会津-伊北 3新潟-津川-柴倉-柴倉峠-宮崎(大山越) 4塩沢でとれる地塩 だいたい以上のルートで 御蔵入地に用立てた。 この「塩」の記録が示すように ここは厳然と古来からの「塩の道」なのである。なかには時代錯誤した「明治」「権力の復古」を標榜する諸輩もおられるので 私との立場の違いを明確に記しておきたい。あくまで「歴史は歴史のまま」、この考えが基本。権力を美化する「歴史修正主義」に陥ってはならないし、それこそ会津藩「什(じゅう)」の教え「ならぬことはならぬものです」を学ぶべきと思うが。。。

話が大きく逸れてしまった。もうひとつ、「間道」としての「 裏 」八十里越がある。それは只見からの道をさらに北進し蒲生から入る。異様な姿の蒲生岳を右に見て真奈川に沿って進み、いよいよ細々とした幽かな踏跡の山道となる。笠ノ沢から左に折れてその沢沿いを赤崩峠まで登り、ゼンマイ小屋の掛かる赤崩台地まで降り進んで、、、その先 新山(しんやま)峠・ふき平(ここまでは分かるのだが、ここからの登り口が解らない。高桑さんだけが知っていたが当時は踏破していない)・五兵衛小屋・日本平・川胡桃沢・大江となっていたようだ。私は赤崩台地から赤崩沢ー五枚沢を中ノ又山に詰めて 粟ヶ岳 青里岳 矢筈岳を眺めたことがあるが 隣の五兵衛小屋へは登っていない。周囲は低灌木で、採掘した鉱石を焼いて粗鋼を採った赤紫色に焼けたボタ(ズリ)が其方此方に打ち捨てられていた。金山町の金山史談会所蔵の古文書記録によれば 黄銅 錫 金 銀 鉛などが採れていたようだ(鉛鉱は隣村の金石ヶ鳥谷山でも採れたようだ)。赤崩-中ノ又-五兵衛小屋は稜線上で繋がっていたとされる。というか 元々それが「裏八十里」の本筋だったらしい。明治期の鉱山開拓で新ルートが開かれ新山峠のルートになったようだ。




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未丈ヶ岳-大鳥岳-銀山平奥只見国際スキー場の山行後の一服



叶津川、蒲生川、塩沢川、滝沢、霧来川、風来沢、、、かつて浦和浪漫や郡山労山と行動を共にし、YMCA在籍時に仲間ともよく通い手慣れた山域になっていた。凍った雪に削られ、ビンビンに尖ってる峰が続く。なかでも 守門岳隣りの烏帽子岳などは地元・下田の言葉で「ツンネ」と呼ばれているが、ドイツ語の「チンネ」と似る。これは尖塔・岩塔を意味するが、近代登山史の黎明が地方の言葉を変遷させた一例であろうか。



2019.06.26 「ツンネ」についての補正いたします。吉ヶ平閉村20周年「吉ヶ平物語」鈴木由三郎著に説明がありました。
「ツンネ」とは下田の用語で「津根」のこと 地元ではさらに訛って「づんね」と発音しています。
「づんね」とは「稜線」をさした言葉のようです。滝の脇づんね 椿づんね 関屋づんね 小松づんね 風穴づんね 中峰づんね など
以上のように訂正します。


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アバランチシュートのスラブ群や細尾根の岩山ばかりだが 眺むれば眺むるほどホッとするものがある。会越山脈、私は親しみを持って「アイエツ」と呼ぶことができる。これが所謂「情念」というものだろう。心に情念を宿さず山を登るなんてこと自体「無味乾燥」で「脱けガラ」を意味するし、山に対する礼を失している。「ヤッタ」「登った」と「脱けガラ」を数百も並べて数えるのはまことに無意味と思えるし「大人のすることじゃない」。むしろ冷静になって山に対する「造詣のなさ」「タメの無さ」を嘆く自分でありたいものだ。

ちなみに余談だが・・・ 会越か、岩越か?と「南会津山の会」でも論争の緒wが(いろりばた69号 川崎精雄 昭和63年発行)ゆかしく紹介されていた。いわく 会津という国はもともとなく、会津という名は地方名、もとは岩代国という旧国名であると。なので国境というのであれば岩越ガンエツ国境と呼ぶべき ということらしい。確かに 野州と岩代を結ぶ鉄道を野岩鉄道としているが、登山体系でのアイエツがやがて市民権を得たのだろう。

八十里越、、、明治維新150年ともあいまって今は歩く者も多くなり、また只見側の国道建設も進んでいるようで ブームとは無縁の私のような者にとって歩く由縁もなくなったほどの変わり様だ。歩いた当時は入会権のある農家が自主規制、ピケ線を張っていて建設中の砂利敷国道でさえ走ることができなかった。そのワケは、他所者が入ると山が荒らされるという単純な利害意識なのだが 部外者である登山者もその枠にはめられていた。中にはそんな規制された登山者の気持ちを察する農家もあって 朝夕に人目を忍んで特別に施錠を外してくれたものだが・・・逆に 現在の観光化が進まぬうちに?手付かずの古道の雰囲気を新潟下田側の八十里越に求め 深まった秋にでも歩いてこようかとも思う。


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守門 浅草を背景に 朝の定時交信をとる 田中パーティはまだ三ツ岩あたり。。。



だが、、、もし 20年たった今に いにしえの径を行くとして、、、

秋田・仙北街道のように「叢を掻き分けることもなく 草刈りされた綺麗な道形が刈り開かれている」ようであるならば、想いは裏切られたのかもしれない。まあそれも「古道ブーム」という”時の悪戯”なので…仕方がないことではあるのだが。羽後岐古道も、仙北街道も、八十里越も、裏八十里も、沼田街道も、万世大路も、、、自分が歩いた当時は大藪 小籔 叢の杣道だったとだけは付記しよう。それも僅か20数年前のことだ。

所属山岳会が桑原岳 栃ヶ森 大胡桃 小胡桃 いわゆる桑原山塊の沢を歩いてから既に20数年が経っている、、、たとえば時代の様変わりの例として、前沢・仙北街道東端下嵐江(オロセ)に建てられた、どでかい黒御影の墓石のような標石、、、いったいこれは何?と思ったものだ。それが古道の「象徴」となしたるや如何なものか? いにしえの径が地方の商工課の手によって一方的に「観光化」されてしまった。「その土地の古道を見る目、古(いにしえ)の価値を識る目」がその程度でしか無かった という証しであり、恥辱の碑み。この径を越えてきた者に この碑を見て、長かった峠路を回顧してください なんて言えたものではない。 

古代から続く径を たった一日で踏破する「古道ブーム」の世の中だから 全てがすべて、形ばかりの「古道歩き」になってしまって、、、古道を巡る情念とか、昔人への思いとか、誰がどんな思いで「峠」を越えたのだろうか?と想い巡らす人も居ないのだろう。観光課 商工課にすれば所詮は上辺仕事、、、予算が立てば、その消費にしか身が入らぬものだ。その結果が「墓石」なのか? 峠道 古道 かつての径 消え去った歴史の道に想いが通わないではないか。その結果には興覚めだった、、、地元とあろうものが、自分の首を自分で締めるオチにはいささか まいった。


この歳だからこれらの峠を再び歩くことは…もうないと思われる。こんにち再び 峠を往く価値とは一体何だろう?と考えると この世に「生きた証し」としてなら再び歩く価値は充分にあるはず、息子、娘と行くならその価値もあがる、これが親父の歩いた山道、沢だ ということになるのだろうか。20数年ぶり?”老いたアイエツ”に火がついた、これも”懐古趣味”という大枠の中なんだろうけれど 自分でも答えがわからないでいる。だが 通い終えて20数年が経ったと思うと 妙に不思議な懐かしさだけが遺るのは確かだ。若い時分、遠く仙台から通ったわけだが、それまでして「いったい何が?会越へと心を焚きつけたのだろう?」、、、じつに会越の魅力とは? 何度も何度も「深淵の渕」に立って考えてみた・・・。

その答えを求めれば求めるほど 掴もうとすればするほど 答えは深く、遠く、奥まっていく、、、だから なお不思議だ。 おそらく まあ でも そんなもんなのだろう。だってもくそも、沢登り 山歩きは僕らの「生業じゃない」ということだろうし、たかだか個人の「趣味にしか過ぎない」ということでもあるからだが。つまり 深みにハマるのはその「成り行き」、それらの結果、だから「そうなってしまった」というだけのこと、突き詰めてもしょうもない。その必要もないが(笑)ただ、少なくとも言えるのは「情念」を抱かない限り20年もの時を費やし追い続けられるものでもない、、、それだけは唯一、解っているつもりだ。 

次の山旅にでて自分で納得さえできれば、、、かつて高桑さんたちも一宿一飯の世話になったという越後長野温泉「嵐渓荘」で豪勢な酒宴を開くつもりだw。



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「帯広わらじの会」に所属していた知沙子さん 入会一年で既に「山の気」を感じ取っていたらしい 感性が素晴らしい女性だった
そんな彼女のもっていた感覚的なものを 現役の登山者にはこの本を手にとって 朧気にもちょっとずつ掴んでもらえばいいかな。。。



「みんなちさこの思うがままさ」 

池田知沙子さんが亡くなって20年が経つ? 私より数えで3こ歳上なのに…50歳のままだなんてズルイ(笑) 最後に会ったのは・・・? たぶん春合宿3日目の朝、トランシーバ交信が最後だったのかな?。。。「風邪ぐらいなんだ!?」「体調が悪いって?そんなの 酒呑みゃ治るっ!」とか、ご託宣だったw お酒ならウワバミ級?そんな彼女からのオシカリ、自分たちが歩いた背後にルートができるという只見の山中での電波のヤリトリだったが、、、ご自分だってバテてるはずなのに叱咤して頂き、それが実に池田さんらしくてありがたかった。

20年が経った・・・ということは 彼女が浦和浪漫に在籍した年数とほぼ同じ年月が流れた ということ。今でも 彼女のクシャクシャしてる笑い顔を思い出す。おまけに あのクリクリの瞳で見つめられちゃうとヤンチャ坊主は直ぐにおとなしくなったもんさ。すてきな女性だったなぁ 二度と現れ出ないだろうなぁ。



吉ヶ平-椿尾根-番屋乗越-ブナ沢-空堀小屋跡-殿様清水-鞍掛峠-田代平-木ノ根峠、もぅ一度歩こう。紀行を書き記すうちに どんどん記憶の扉が開いて、まるで昨日のことのようにw 「追記の嵐」にあってしまった。 同様の追記は今後、下田八十里越を歩いてからにしようと想う。きりがナイ。















Commented by torasan-819 at 2018-08-28 08:05
浦和浪漫ですか。私のような遅れてやってきた沢屋にとってはレジェンドのような存在です。もっと早くから沢をやっていれば出会いもあり触発されることも多かったでしょう。そういえば高桑さんは門内の小屋番を続けているようですね。偶然ですが私も「みんなちさこの思うがままさ」を手に取っていたところです。
Commented by tabilogue2 at 2018-08-28 10:19
> torasan-819さん
そうでしたか そうでしたか 素敵な知沙子さんでしたよ。あの本には 沢が呼び起こすチカラ・・・沢遊びの原点がまとめられていると思います 山行のたびにコツコツしたためた山行報告が、、、かつて登攀記号に占められたソレとは違っていて新鮮でした。何故 山に沢に雪山に招かれたいのか?人間の本性が書かれた本だと思います。山を利用して写真を撮ったり 山を利用して己れ個人を売ったりするのとは本質的に違う山への向かい方、「自然との芯からの触れ合い」が記された山行記録集だと思っています。

高桑さん個人や、深野さん個人を崇める方々、教祖のように慕う方々もいますが それは「間違いの原点」だと思います。がしかし現役の沢ヤだからこそ 浦和浪漫山岳会という集団を畏敬の念で見るというのは あの揺るぎない沢への確かな取り組み 偉業、脈絡からして「間違いではない」と私も思っています。そんな山岳会は もう日本では皆無になりましたね。


そうですか また小屋番してるんですか? 飽きないで「小屋番日誌」の続編を書くつもりかな?売れてるからね、そこそこw 宮城の地酒を持って上がれば喜びますよ 彼。。。
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by tabilogue2 | 2018-08-26 20:36 | 八十里越・下田 | Trackback | Comments(2)