”八十里越”に思う 下田吉ヶ平~只見御番所

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八十里越、、、明治維新150年ともあいまって今は歩く者も多くなり、また只見側の国道建設も進んでいるようで ブームとは無縁の者にとって歩く由縁もなくなったほどの変わり様だ。以前、25年ほど昔に歩いた当時は入会権のある農家がピケ線を張っていて、建設中の砂利敷国道でさえ走ることができなかった。そのワケは他所者が入ると山が荒らされるという単純な利害意識なのだが 部外者である登山者もその枠にはめられていた。中には、登山者の気持ちを察する農家もあって、朝夕に人目を忍んで特別に施錠を外してくれたものだ。観光化が進まぬうちに、手付かずの古道の雰囲気を新潟下田側の八十里越に求め、深まった秋にでも歩いてこようかとも思う。

もうひとつ、「間道」としての「 裏 」八十里越がある。それは只見からの道をさらに北進し蒲生から入る。異様な姿の蒲生岳を右に見て真名川(まながわ)に沿って進み、いよいよ細々とした幽かな踏跡の山道となる。笠ノ沢から左に折れその沢沿いを赤崩峠まで登り、ゼンマイ小屋の掛かる赤崩台地まで降り進んで、その先 新山(しんやま)峠・蕗平(ここまでは分かるのだが、ここからの登り口が解らない)・続くは五兵衛小屋・日本平・川胡桃沢・大江となっていたようだ。
私は赤崩台地から赤崩沢を中ノ又山に詰め粟ヶ岳 青里岳 矢筈岳を眺めたが、隣の五兵衛小屋へは辿れていない。周囲は低灌木で、採掘した鉱石を焼いて粗鋼を採った後に赤紫色に焼けたボタ(ズリ)が其方此方に小さくまとめられ打ち捨てられていた。金山町の「金山史談会」古文書によれば黄銅 錫 金 銀 鉛などが採れていたようだ。一説では赤崩-中ノ又-五兵衛小屋は稜線上で繋がっていたとされる。元々それが本筋だったらしい。明治期の鉱山開発で新ルートが開かれ、それで新山峠のルートになったようだ。


いっぽう所属した仙台YMCA山岳会が桑原岳 栃ヶ森 大胡桃 小胡桃いわゆる桑原山塊の沢を歩いてから既に20数年が経っている。たとえば時代の様変わりとして、前沢・石渕の仙北街道東端 下嵐江(オロセ)に建てられたどでかい黒御影の墓石のような標石、「いったいこれは何だ?」と思ったものだ。それが古道の「象徴となしたるや如何なものか?」、古(いにしえ)の径が地方の商工課の手によって、いや、黒御影の石碑によって一方的に「観光化」されてしまった。「その土地の古道を見る目、古の価値を識る見識」がその程度でしか無かったという証しであり、恥辱の碑(いしぶみ)。この径を越えてきた者に、この碑を見て長かった峠路を回顧してくれと言えたものではない。 
古代から続く径を一日で踏破する「古道ブーム」の世の中だから 全てがすべて形ばかりの「古道歩き」になってしまって、古道を巡る情念とか、昔人への思いとか、誰がどんな思いで「峠」を越えたのだろうか?とか、想い巡らす人も居ないのだろう。その結果が「墓石」なのか? 峠道 古道 かつての径 消え去った歴史の道・・・に想いが通わないではないか。興覚めだった、、、地元とあろうものが、自分の首を自分で締めるオチにはいささかまいった。

もし、今 いにしえの径を行くとして、、、秋田・仙北街道のように「叢を掻き分けることもなく 草刈りされた綺麗な道形が刈り開かれている」ようであるならば、私の想いは裏切られたものになるのかもしれない。まあそれも「古道ブーム」という”時の悪戯”なので…仕方がないことではあるのだが。羽後岐古道も、仙北街道も、八十里越も、裏八十里も、沼田街道も、栗子万世大路も、、自分が歩いた当時は大藪 小籔 叢の杣道だった とだけは付記しておこう。それも僅か25年ほど前、今の登山ブームが始まる前のことだ。


この歳だから…これらの峠を再び歩くことは もうないと思われる。こんにち再び峠を往く価値とは一体何だろう?と考えると この世に「生きた証し」としてなら?再び歩く価値は充分にあるはず、息子、娘と行くならその価値もあがる。「これが 親父の歩いてきた山だ、沢だ」ということになるのだろうか。20数年ぶり?”老いた「会越」(あいえつ)”に火がついたが、これも”懐古趣味”という大枠の中なのだろう。自分でも何故なのか? その答えがわからないでいる(笑)。だが、通い終えて20数年が経ったと思うと 妙に不思議な懐かしさが遺る。若い時分に遠く仙台から通ったわけだが、それまでして「いったい何が「会越」へと心を焚きつけたのだろう?」、じつに!「会越」の魅力とは!?・・・と 何度も何度も「深淵の渕」に立って考えてみた。その答えを求むれば求むるほど 掴もうとすればするほど 答えは遠く、深く、奥まっていく、、、だから なお不思議なのだ。 再び 只見に訪ね行って「答え」を考えねばなるまい。 

でも そんなもんなのだろう。沢登りや冬山、雪山歩きは「生業じゃない」ということだろうし、「一趣味にしか過ぎない」ということでもあるからだ。つまり「会越」の深みにハマったのは山や谷や沢がもたらしてくれた20数年という「成り行き」、それらの「結果」、「そうなってしまった」というだけのこと、突き詰めてもしょうもない。 沢や雪山が面白かったから50年も「山」を続けられてきたということ 時に 会津の奥行きがこんなに在ろうとは…その時には気づかなかっただけだ。 が?、少なくとも言えることは、、、「情念」や「興味」を抱かない限り、20数年もの時を費やし「会越」を追い続けられるものでもない、、、ということだ。それだけは唯一、解っているつもりだ。


 

2.「中津山の侍たちと北越戦争」へ続く


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戊辰戦争150年 宮城・中津山の侍たち ”北越戦争” 阿部和夫 著  三陸河北新報社













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by tabilogue2 | 2018-11-01 11:12 | 八十里越・下田 | Trackback | Comments(0)