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侍たちの「八十里越」 前編(吉ヶ平からブナ沢まで)

ええと、、、デジカメで撮った撮影枚数が多く すべて「峠路記録」として撮ったものなので なるべくブログに残そうと意図しております。石巻市芸術文化振興財団・阿部和夫先生の冊子に準拠しながら前編 中編 後編と三部に分けて再構成しようと画策中です。少し 完成までお時間をいただこうかな?

阿部先生の冊子によれば、、、宮城県の県北、桃生郡中津山(石巻市)に在籍した黒沢家中89名(仙台藩5小隊500名)が戊辰の役・北越戦争に藩命で出征したわけですが、その歴史は前々編(中津山の侍たちと北越戦争)に記しました。「八丁沖の戦い」で一矢を報いたものの仙台藩黒沢隊は隊長である家老の八木高明を失い、小姓組の鈴木惣兵衛、若山粂之介、徒士組の鈴木昌之助が落命しました。特に八木隊長は胸を撃たれ、さらに頭を撃ち抜かれ即死でした。7月28日(新暦の9月14日)に黒沢隊本陣である善昌寺にて葬儀が執り行われました。この日は戦中唯一の安息日となりました。楽兵隊も「悲しみの極み」という追悼曲を演奏したとあります。 現代も近代も古代も戦争は大変な苦労と哀しみが多大です。

そのご、新発田藩の寝返りがキッカケで戦局が悪化し、8月1日から6日にかけての総退却、会津藩只見への撤退が始まったわけです。撤退するその隊列に長岡藩 米沢藩 会津藩 庄内藩 仙台藩がいたわけで、黒沢家中85名もみな八十里峠を只見へと渡ったことになります。 

25000人の大移動、、、近代日本史における初めての「難民」状態ですね、これは。。。


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「椿尾根」

5:00 三条市下田吉ヶ平(よしがひら)を出ました。真っ暗で、おまけに霧が出て、霧がヘッドランプの明かりに乱反射し視えにくい状態でした。空には月齢26の三日月が浮いてるだけ。。。他には何にも見えません。新築なった小学校分校跡も見えません。分校跡の橋を渡って雨生池(まおいがいけ)分岐へ黙々と進みます。途中、かつてあった集落の面影を残す墓石群もライトに照らし出され、それらは鎮かに並んで在りました。

山道となり 右側が極端に崩れている崖トラバースが続きます。暗くて、しかも「大滝沢」右岸尾根で100mほど落ち込むところ・・・要注意な箇所です。

6:00 「番屋山」への登り口=「椿尾根」に着いたのですが、明るみ始める一歩前、しじまの中。写真はデジカメなので無理やり明るく現像させておりますが 実際には薄暗い山間部の「椿尾根」です。

失明して右目が見えないので、右岸沿いに登り進むのは不得意です。慎重に落葉で埋まった登山道を進みます。時々、沢水が過ぎっておりその都度グチャッとなりますが無事通過。暗い空も薄らいできたかな?という感じになってきては・・・います。直進する登山道に左右から「天保古道」や「明治新道」が交わってきており、その白い「案内看板」が闇の中にいきなり照らし出され慌てます。一度でも白い看板にヘッドランプが当たると真っ暗の周囲に残像が強く残り、さらに暗くなるので歩みを邪魔してくれます(´;ω;`)


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明るくなった「番屋乗越」への道

7:00 出立から2時間経過、、、切り立った崖でかなり慎重になりました。目がクッキリ見えないんで、、、ナサケナイ仕草ですが 左手を斜面の草木に添えながら「亀の歩み」でした。撮影できない危険なところばかり。。。撮れている撮影地点は安全な地点ばかりですけど・・・w


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山神さま

無事、「番屋乗越」(ばんやのっこし)手前の山神様に辿り着き 手を合わせ無事を感謝し これからの更なる無事を祈ります


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7:00 「番屋乗越」。。。 最初の関門 突破です



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すごい黄葉でした


ここからは北東面の明るい斜面に変わります。ブナ沢左岸尾根トラバースで「利かない右眼が 利く?」のでwww 精神的に楽になります。工事現場が見えてきました。橋梁が80mほどあるという難関の現場です・・・うっすら わかるかな?


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画面中央 工事中の新国道橋脚が見えますが・・・みえますかね?

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「火薬跡」

火薬で破砕開削した明治新道の岩壁(明治27年) ダイナマイトを仕掛けて開削した跡ですが数本ほどダイナマイトを刺しこんだ跡が確認できました


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守門岳(山頂は右端)を北側から

山頂左端「袴腰」に連なる 長い屋根型の守門らしい頂上稜線が見えます


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刀掛け

烏帽子岩の刀掛け(ギザギザ尾根)を北側からシルエットで眺めます

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7:54 ブナ平

樹齢300~400年ほどのブナが並びます。別天地ですね。 ここに「テント張れたら いいだろなあ」と異口同音。。。

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迷いやすい地形でした。 道が幾重にも つづら折りに二重になっていたりして、、、たぶん道を造り直していますね。平坦なブナ林・・・黒沢隊一行は癒されたのではないだろうか???生き延びよう って思ったんじゃないかな? そう思えるほどの豊かな林です。


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横から「天保古道」が交わります じっさい迷いますよ、ココ。。。測量のピンクテープが左右にはためくので 間違ってしまいます。

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8:12 ぶな沢からブナ平を仰ぐ


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2011年秋の大水害で大崩れし ダム湖ができるほどに・・・。


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8:30 高清水沢


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この石積みは 高清水沢の次に出る枯れ沢に組まれた橋脚の一部と思えるもの 


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橋の遺構は長さが20mを超えている 途中に2箇所の橋脚が在るようだ
太い材木を渡して細い枝木で隙間を詰めて土をかぶせる、、、 いわゆる土橋




(中編へと続く)




朝5時に下田の吉ヶ平を出まして…只見の叶津番所に3時着で、踏破に10時間。普通に歩けば12時間なのでマズマズかな? でも、、、まずは覚悟を決めて途中一泊する日程的な余裕が無いと 愉しめないし肉体的にも厳しいですね。月2回登山の私でさえ足腰に来ちゃったほどなので・・・午後3時を回ったら「野営する計画」がケガをセず、転落もせずに安全だと思います。水場はいくらでもあるし テントサイト適地もそちこちにあります。

最後5kmのアスファルト国道歩きで、腰に来ちゃいました 歩けど歩けど平石山の尾根裾になかなか届かない、最後は黙々と歩く覚悟が必要です。








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by tabilogue2 | 2018-11-06 06:49 | 八十里越・下田 | Trackback | Comments(0)