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達谷の窟





とある岩手の山に登ろうとして書物を手に取りページを捲ると
「安倍一族もまた 産馬と冶金に長けていた」・・・この文章に出あい 新たな観点を得た
また、去るところ 別の書物では
大和民族の手により討ち負かされた「蝦夷たちの文化」は大和民族よりも劣った風な書き方
これに似た文章には過去何度も出あっていた 

大雑把に言えば、この二つ 他者による歴史観の違いに「激突」したわけだがw
日本神話で日本の紀元が広められ・・・天照大神の神話教育を小学校で受けて以来
蝦夷社会に大和民族よりも気高い文化があった などと 今の今でも信じられないこと

これら自分の中に巣くう「支配者によって作られた既成の歴史観」に対し、
自分で「いや そうじゃないよ」と、「待った」をかけるには ある「儀式」が必要となる
それは「歴史を冷静に見る、客観視への眼覚め」でこの認識がまず大事

その「学び」の初めに
「蝦夷(えみし)の文化が 滔々と我ら東北人の意識に横たわっている」と心に念ずることも大事となる 
これが「激突」への儀式だ
なんせ 敵は60年もの間 教育と称し、私の心に棲みついてるわけだからw

これは一種の踏絵のようなもので、、、
蝦夷文化を見直すことは、、、「新たな歴史観」を持つこととイコールになる
なので この大和民族から見てきた歴史観の切り替えが今すごく重要となる






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西の文化から排斥され、
「悪路王 あくろおう」とか「赤頭 あかがしら」とか「高丸 たかまる」などと蔑視される背景に何があるのか? 
蝦夷たちを極悪人に仕立てる必要があったわけで、大和朝廷によって作られ語られ続けてきた歴史観や「神話」を浸透させることが
征夷には必要だったということをまずは認識すること、つまりは大和朝廷中心の歴史観に疑問を抱くことが先ず重要なんだね 

今後の 東北の山を面白くする点で それが大事だと 気づかされる、山と民族の暮らしと精神性の相互関係ですね。
なんせ、「日本は神の国だ」と堂々と語るアホな?「旧い歴史観の政治家」たちが今この時も多いわけだから

だれがみちのくの山を作ったんだ? それは神だ 大和民族の魂を作った神だ!
こういわれても即座に納得なんてできやしないし 意識して避けてしまう 




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まあここで 「征夷」という言い方に最初の関門が設けられているわけだけど
まず 「征夷」という言葉そのものに疑問を持つこと これが第一関門だ
 
それが「踏絵」となって 子供の頃からずうっと今まで聞かされ続けてきた・・・
「蝦夷は野蛮な地で 住む人々はオロチのようで 鬼のように口が裂け 鱗の肌を持ち」と
朝廷側の筋書きで語られる神話、それに登場する我らの御先祖 蝦夷たち・・・
まるでこの世に有りえない 奇想天外な「化けもの」扱いに おやまあwと疑問を持つようになる

毘沙門堂の案内書には・・・こうある
「この窟に立てこもり領民を苦しめ、女子供を掠める等乱暴な振舞いが多く、国府もこれを抑えることが
出来なくなった そこで桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に命じ蝦夷征伐の勅を下された」
これが西暦800年頃 阿弖流為が朝廷軍に敗れたのが西暦802年、世はまさに奈良・平安時代のこと

 領民を苦しめ、女子供を掠める等乱暴な振舞い・・・空想神話で語られた阿弖流為たちのイメージを 
征夷を踏絵にし「過去からの理解」を逆転させ 「蝦夷の立場」で考えることが、、、歴史を面白くする 




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そんな 征夷大将軍坂上田村麻呂で有名な「達谷窟」にでかけてきた 
朝廷軍に怖れられていた阿弖流為たちのパワーを じっくりと この目でたしかめてきた

これほどまでの懸崖造りのお堂、りっぱな毘沙門堂を建てなければ「治めきれない」ほど 
阿弖流為たちの力が強く大きいことが窺い知れるわけで 田村麻呂もさぞかし苦戦したことだろう



日高見の国 ヒダカミノクニ

阿弖流為たち蝦夷の軍事組織の連絡網は「狼煙」 その技術は卓越していた
それと 岩手の地下に広がる鍾乳洞、地下道はすべてが繋がっており 
ここ達谷から延々二百数十キロ 10日ほども掛かる道のりがすべて地下で繋がり 
白神山地が海に落ちる、津軽の「外ヶ浜」まで通じている
ひとたび危急の大事あれば 狼煙があげられ 地下の大道を駆け 
阿弖流為旗下の者たちが軍馬に乗って馳せ参ずる 

すわ大変! 嗚呼 おそろしや おそろしや と朝廷軍に怖れられていたことになる
それっ 今のうちに「窟」を塞いでしまえ! 

・・・とまあ、こう、あいなったわけだな それがこの「達谷窟」だったわけか・・・なるほどなぁ

 



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天台宗 別当の屋敷



「差別」の文化

西の文化圏には”人にして人にあらず”「非人」なる、生まれながらにして人間扱いされない身分があった
獣の皮剥ぎや殺生をする、「穢れ ケガレ」た身分とされていた

彼らは 時に歴史の舞台に出てくる
それは咎人を脇の下から竹槍で突き刺す刑の執行人だったり、身分の低い忍びの者(下忍)であったりした
このへんは白土三平氏の「カムイ外伝」か「サスケ」を読んでいただいた方が解りやすい と思うが


対する東の文化圏 日高見の国には「非人」という身分は存在していなかった
これは巻き狩りという狩猟方法や 厳寒の地での集団農耕が大きな役目を持っていたから
・・・これが その理由だと思う

たとえば近年来、マタギの巻き狩りに参加したものには皆公平に獲物を分ける という習わしがある 
巻き狩りは集団で行うので 集団の中で格差が出ないように=集団から逸れないようにしたものと思われる
 
そもそも 西の文化にはない文化を持った東の文化圏は 狩猟は神聖なものと捉えていた 
山に入る前の儀式があるし 神聖ゆえ禁忌事項も守らねばならなかった 
いったん猟に入れば里言葉は使えない 使えば禁忌を破ることとなり狩りは不猟、失敗するとされた

熊は「神からの授かりもの」、狼・狐は「神の使い」、、、と捉える信仰的一面もあったし
そして「狩り」は共同してやらないと獲れないという「絶対的縛り」があった

 
対する 西の文化では獣・獣の肉は「穢れ」としていた それを捌く「穢れた身分」があった
ここに東西の文化の差が歴然としてくる

富の差は「地域・集団・狩り」が成立しないことに通づる
それはマタギ社会に流れる「獣の魂を天に還す儀式」に顕れるが 
二つのマタギ流派ともに同じ習い 肉も肝も巻き狩り参加者に等分に分けられる 





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当ブログの記事で 2015年にマタギの儀式を綴った記事があるので以下に引用します。


狩猟に出かければ山中に小屋掛けして泊まり込みで猟をしました。同じ釜の飯を食った日
の獲物はたとえ一人で獲ったにしても全員で均等に分配され、独り占めは許されない不問
律がありました。 熊やカモシカの解体の時は、カエデの小枝を折って神に供え、一同が
「シシは伏す、思いは野辺の露となるべし。アビラウンケンソワカ」と唱え事をしてから
解体に移りました。ちなみに「アビラウンケンソワカ」というのは真言宗の呪文でこれを
唱えると全てがうまくいくとされています。ソワカというのは呪文の最後につける言葉で
仏への呼びかけのようなものです。

神への感謝、祈りが終わってから解体に移り、心臓 肝臓 腎臓 背肉の一部を煮て藁筒
(つと)に入れて「山ノ神」に捧げ、さらに獲物の多からんことを祈念することを 堅く
守っています。また狩猟に出入りしたときは里言葉は使いません。うっかり口にすれば獲
物が獲れない 災いが罹かるといって不吉なものとされています。特殊な山言葉について
は多少ですが前記いたしました。

マタギの掟について少し記しておきます。狩猟期の禁忌習俗にも厳しく 山入り前の儀式
山ノ神の祭礼 あるいは山言葉は厳重に守られております。三条の習俗もこれに倣ってお
ります。このマタギであることの証しは「巻物」にあるとされています。見れば漢文で書
かれており どのマタギも大切に所持しておりました。



首巻きーとねまき  着物ー身ぐるみ  ズボンーふんごみ  かんじきーつまがけ
川の上流ーいり  川の下流ーでと  くまーなびれ  飯椀ーおおかせ  飯鍋ーおおくま
汁椀ーこかせ  血ーなじ  獲物を捕ったーさじのった  鉈ーこたたき  小刀ーえむし
動物の足跡ーはみ  食事するーはむ  戻るーさしかえす  火を焚けーさしぶをたてろ
出かけるーさしむかう  天気が変わるーなぞら変わる  なだれーひめころぶ


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史実が語るように 
蝦夷(えみし)の地は馬の産地であり、沿岸部の多々羅文化も栄えていた
鉄を治める文化は かなり強大であるともいえるが
むしろ 蝦夷の国の差別のない社会に 私的には興味があること

 素性や貧富による身分差別のない国「日高見の国」
この 「蝦夷たちの文化が 滔々と東北人の意識に横たわっている」 と思うのだ
これこのことに興味がおこされており 国としての形が理想郷に近いのでは…と
とくに遠野の「マヨヒガ」の文化とどこか通じていて、興味深いのである


遠野郷に入ると・・・普段考えないことに 集中して考えこんでしまうので
そして それが思考の壺にスリップしちゃう 韻を踏むと云うか、合うというか、実に不思議だ

異空間 トオヌップ 

また考えて また資料を集めて また行こうか とおの郷





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おまけ:岩手県北バス「世界文化遺産平泉と猊鼻渓号」が案内するようです
1968年式 いすゞTSD40 ボンネットバス 四輪駆動



by tabilogue2 | 2019-04-24 07:43 | 花巻 遠野 岩手 | Trackback | Comments(0)

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遠野附馬牛(つきもうし)の早池峰神社 
座敷わらしが集まる神社と云われている そんな遠野に 再び 出かけた





山に登ることに厭きたわけではないが どうしてその地が崇められてきたのか?
歴史との関係で 山との由縁を知りたいと思っていて 
その一つが「端山信仰と暮らし」だったりもする 

端山 葉山 麓山 羽山 早山 すべて同じ 
集落の端っこにある山に神が下りるということの謂れで「端山信仰」という



少し回りくどい言い方だが 
視覚に入る山を地勢的にとらえる「単純さ」を僕はもっていない
支配・被支配 神仏 伝承 習わし 「地域の歴史・文化史観」から地域の山を観ることにしている

過去から変化しつづけ、その結果に今現在「地域生活と」「暮らしと信仰」の観点から
山を見るようになっている この変化に気づいている今の自分だ じつに楽しい




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ものの見方を変える 見方を変えて物事を見ることは 
当ブログの一つの趣きになっている

キッカケは「面白山大権現の御神体を探し出す」あたりから始まっていて 
もう25年前になるだろうか

「登るだけの登山」に興味が持てなくなったころだと思うが 
倦怠期だったであろうかw
単純な登山行為を 「目的を持った遊び」へと変化させたところ、
山が面白いと思うようになった

25年前、当時の「船形山のブナを守る会」の運動もその一つだった・・・
そういう意味でいうと
「テーマを持って山に登る」ことがいかに大事か 
ということになる
 
そんな登り方もあると知れば 
今後もっと楽しい山登りができるのかもしれない

これは福島時代にはなかった感覚だった もっとも当時は 若造だったからだがw 
仙台に来てすぐに知った新しい登り方だった、

これは深野さんのお陰かな あかんべーを袖に隠したりしてw



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間違えてほしくないのは、、、登れた人が偉いのではないこと
同じ箱に 登れない人をも一諸に住まわせる「社会」の仕組みが賢いのだ 
と思うようになって 
それもまた人間が支えあっているからなのだが

山が主体であって人間はその山の客体である と認識すれば 
そんなにそんなに問題は起こらない
ときどき これを逆に捉えて論じるお人がいるから 問題が起きるのだ

・・・この原理が解らぬお方は 今まで通り「俺様」を演じてもらいたい
反面教師で役に立つw


しかし最近、、、
山を材料とし、ネットで「名前を売りこむ」売名行為の向きが多い 
それへの「アンチ観」がブログにこれを書かせているのかも




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昔も 山にはいろんな人が ある目的をもって登ってきた、、、

たとえば 山伏・修験者は「産金・治金の専門家」という見方もあるとして
彼らは信仰をも流布し 吉凶を占いもするが
金脈・鉱脈を探しあてる山師であり、権力者の隠密でもあった

とすれば??? 

一般人が思いみる「山伏観」、ひいては「宗教観」も変わってくるのではないだろうか?
さらには その仰ぎ見る山さえも変わって目の前に在ったりもするか?



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雑記 「変化」

変化・・・という点で自分を見ると 当ブログなどは ”変化のプリンアラモード” かな?

こんなブログであっても 手段に過去の材料を並べ、取材したものを述べ 
それを書いては消す、論じては質す作業がけっこう続くものだと 
僕なんかはそう捉えており 作業はなかなか大変になる

大変だからこそ 
山に登っては写真を撮って軌跡を残すことで 何とかブログの体裁をとって写真でやり過ごすわけだw

どんなブログであっても 
その連続の中で一つの自分なりの「完結」をもたらすわけで 
毎回 綴るたびに社会人としての質を形成する、一枚の新たな肌着を着せるようなものだ 
と思っている

それに自分のブログでは 物事への意見を曖昧に表現することは 敢えてしていない 
極力 白黒をつけて 抽象的表現を避けたいと思っているからだが
これが、なかなかどうして、、 自分を苦しめさせてくれるわけだwww

「ズバリ!」・・・をやり続けることによってw 対人関係を損なう怖れはあっても 
曲がったことをせずに済むので むしろ長期的には安心という益はある

ツイッターやフェースブックとは違う、短文では「思考の展開」が為されない
とも思っている
  
以前に・・・ 
ブログ内容がチョコチョコ修正されコメントしにくい と指摘されたw 
主旨を変えれば大ゴトだが 主客や接続詞を変えたわけでもない、、、硬いことを言う人もいる
尤も 
コメントを得るために せつせつと書いているわけではない

自分の意見がめっぽう大事で、他人の意見に耳を貸さない人と 思われるのも困るのだが
価値観の違いから 同じコメントでも「大違い」になることもあるので 
あまりコメントにムキにならぬ方がいいのではないかな 所詮 直接会わなければ知らぬが仏だ
「本」にまとめる予定もあるので 表記、言葉遣い、筋に修正をかけることは常のこと

でもしかし
まさに今 変化中の人間がブログを書いているわけで 最初から変化せずに済ましうるわけがない
そういう前提で 当ブログを見ていてほしいとも思うのだ 
そのへんの小僧が書いているわけではない 必然 内容も重くなる 芳しいものでもないこと多々 

当方の変化もまた宜しくお願いしたい






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卯子酉(うねとり)さま 

縁結びの赤布に愛しい人の名を書いて あらゆる杉枝に下げ 縁を結ばんとす 
神頼みも ココまで来ると おぞましいものがあるなあ

にしても 携帯カメラでもよく撮れるわw
















by tabilogue2 | 2019-04-23 07:13 | 花巻 遠野 岩手 | Trackback | Comments(0)

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「続石」






「トオヌップ」・・・ アイヌ語で「湖のある地」

岩手県盛岡の言語学者・金田一京助 その彼にして・・・
「自分がひとり 未開人の世界へ後もどりして、蒙昧な低俗文化の中に 
いつまでも いつまでも さまよって暮らすのかと さびしさがこみあげる」
と述懐させるほどアイヌ語研究に勤しむ生活に悩んだようだ 

そのわけは 学窓の士たちが 高尚な西洋・東洋哲学にて志を立てているのに 
自分はただアイヌの生活言語研究に明け暮れている ああ嘆かわしい 
と 金田一さんは悲嘆したのである 信じられない話だが



新潟から関東以北の全ての地名や事象を「アイヌ語」で理解しようとすれば 
すべての地名や事象が 其の間尺に収まるわけではない
ただ、「遠野はトオヌップというアイヌ語から出た」と解釈すれば 
世のほとんどの論壇が それで落ち着きを見せるらしい

その向きは一種の「金田一京助」流の解釈に光明を得た方が多いようだ
その方々は 東北の山名地名などをアイヌ語の意味を宛てがって理解しようとなさるようだ




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神 神楽 獅子舞 鹿踊り 信仰心 高原地形 鉄鉱石 民話 座敷童 幽霊譚・・・
外界との拒絶感?と言えば言いすぎだが 外界と暮らしとが日常で交わらない空気が遠野にはある
 
歴史は動いているのに ここだけ時計が停まったような そんなイメージ
それが遠野に伝わる「マヨヒガ」と総称される文化であり 遠野人の血にはそれが流れている

遠野は れば知るほど、さらに知りたくなる土地柄 知りたいものにとって時間が足りないと感ずる町だ
時間が足りずにいると それとの競争で いっそここに住んでみたくなるらしいw
遠野に住み着いた写真家もいるほど だから・・・そう言い切れる 



金田一京助は「遠野物語」の骨格をもたらした佐々木喜善を”日本のグリム”と称えた
また柳田国男は「遠野物語」を次の語り口から筆を起こしている
「この話はすべて遠野の人、佐々木鏡石君より聞きたり 思うに遠野郷には比類の物語猶数百件あるならん」と
柳田国男は佐々木喜善と出会わなければ「遠野物語」は書くこともなかった 偶然且つ運命の出会いだったと言っている
その証に明治43年「遠野物語」の完成を見た時に 柳田は初版本第一号を喜善に贈っている

また佐々木喜善を知ったことで 柳田国男や石川啄木、水野葉州、宮沢賢治、金田一京助らとの関係性を知り 
遠野物語の背景や 遠野の土俗・土風・気風について あれこれ長い時間、思いを巡らしえた 
まあ「考える民」として これ以上の幸せはないのだろうw 

ちなみに水野葉州こそ 柳田国男に佐々木喜善を紹介した人物である 運命の人だ。





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アイヌ語の「湖のある地」という意味から 逆に遠野の地を観ると・・・
盆地でもあり、四方から流れこんで水が集められる・・・という意味で
アイヌ語的な解釈が合っていそうな気もするが?

地質学的に疑問の余地があるのに、「決めつける」のは宜しくないかも
「トオヌップ」を遠野と結びつけ 観光用に囃せば?しっぺ返しが怖い

宮城においても、町が「古代遺跡発見」と大々的に町興しに利した件があったが 
それが 一考古学者の個人的利益のために創られた偽りの遺跡だったと
事件になり(座散乱木遺跡事件)町も県も手痛い過去を持ったではなかったか?
 
商魂は歴史を悪戯に作り 事実を曲げてしまうことがある
トオヌップの語源と遠野の町とを直に結ぶのは 根拠を強かに持った後でもいいのでは?





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気になることがあって言うのだが 「古代万葉 浪漫の遠野」を模索するなら・・・




北の貞任山、南の貞任山、、、
二つの貞任山が示すように「安倍一族」はいくつもの牧場を持っていた
その一つが遠野であった 
近世、南部藩の城があった鍋倉山には南部藩の「番屋」があったという 

この地は「馬の放牧」に適していた 
標高340mの鍋倉山からは四周の牧場の状況が見てとれる

 遠野の北部に「附馬牛」という地があるがこの辺りが番屋と同じ標高となる 
これ以南は鍋倉山から見渡せる 
遠野の東部「六角牛」の方なら 青笹町まで見渡せる・・・

日高見の世から 民俗文化が土俗・気風となって今に残る 豊かな地 遠野。。。


”高原に出向いてごらん 
万葉の風をうけ、古代浪漫に思いを馳せる君に・・・なる”

  

このような切り口、「歴史」という具体的事実から
現代人の心に芽生える浪漫心を紡ぎださせる手法が ”遠野らしいアプローチ” 
といってもいいのではなかろうか?
 




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桜はまだ 北上辺りでその花開く勢いをとどめていた 
その間 観光客が居ないのを良いことに昨年と同様、いにしえの地を一巡りしてきた

もっとも観光客ではなく、「天平の甍」に興味を持つものとしての旅だから
巡る史跡仏閣は観光ルートから外れるものがほとんどであったが

そんな変わり者が一人駅舎に佇んだからと 誰かが咎めるような土地柄ではない
ありきたりの観光地を巡らずとも 旅人として遠野の絵に溶け込むことを遠野人は許すだろう 

また 次回も行きたい 

座敷童が年に一度集まるという附馬牛の早池峰神社例大祭に夜な夜な出かけて 
舞神楽の奉納を見ながら・・・
社のそちらこちらで ひとり増えたり、ひとり姿が消えたりする座敷童たちと
遊んでみたい そう願ってもいる 

ボケた頭は 童たち恰好の遊び相手になるぞ (笑)

















by tabilogue2 | 2019-04-22 09:58 | 花巻 遠野 岩手 | Trackback | Comments(0)

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遠野と花巻を中心に ”「旅のテーマ」を決めて 旅する”、と数日前に決めた。自分の狙ったところだけ 順路を検討し コンパクトに巡ってきた。ただなんとなく…ではなく 明確にテーマに沿った旅をする 結構これが難しいw

賢治が通った種山で、、、風の又三郎の銅像をじっくり見て、、、 賢治も受けたであろう岩手の風を、、、この身にも思いっきり受けさせた。。。花巻農業高校にいき「羅須地人協会」となった賢治の家を見て 「イーハトーヴォ」を心に築いた。賢治記念館にいって賢治の文献 生い立ち 環境 政治情勢など当時のことをたくさん見て識った。賢治の通った花巻大沢温泉の露天にもつかってきた。そして遠野物語の「とほの」に行けた。土淵の佐々木喜善(ササキキゼン)の生家を薬師神社から遠くに眺めた。目と鼻の先にある「ダンノハナ」と「デンデラノ」を散策し こんな環境にあった喜善の生い立ちや暮らしを想像した。水車小屋、カッパ淵、博物館にも行けた。数十年間も? 心に思っていたことを 順当に訪ね歩けた。この眼でみたいものを挙げ 全てをこなせた。”中座”を得意とする身にはw快挙に等しい、 ある意味「事件」だっともいえる。

そして「岩手路」の最後に遠野物語の情景を一挙に見下ろすことのできる「六角牛山」に登った。心に宿す、広がる盆地を、この目で、ついに、現実の「遠野」にさせて、すっかり眺めてきた。皐月の風を受け、それは、じつに、爽快だった。


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はじめての山なので いちおう「備忘録」として留めておきたい。年に数回あるかないか? 自分にとっては 久しぶりの山行報告になるw 花巻のジャンクションから釜石道へと入り一気に遠野まで進む。天気は曇りだが 昼には晴れる、登山には上々だ。朝、8時過ぎに六角牛山登山口にあたる六角牛神社にて手を合わせ 無事を祈念し、4kmほどの林道をゆっくり車を進めた。登山口、、、準備を整え 装備をCHECK 不要なものを省いて車にデポし 9時に出発。春の目覚めとでも云うのか? 山全体が未だほんのり色づいたばかり 先っぽしか芽をほころばせていない。明るい登山道を歩き出す、、、ぼぼっぼぼっぼぼっ♪ 夏の渡り鳥 托卵族のツツドリが鳴く、小さな鳥たちがそちこちで歌う 中低木のなかに引かれた一本の小道を辿るように ただまっすぐ山に招き入れられる。


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道の脇に顔を出しているのは どれもこれも 今しがたホコロビ出したばかりの小花たちだ。エンレイソウ、チゴユリ、ヒメイチゲ、スミレサイシン、すみれ3種類、カタバミソウ、ニリンソウなどすべてが小さい。その小さな花を見ながら なんともあっけなく4合目。さてさて、ここから急登と成るらしく 衣服を一枚脱いでみた。水を飲んだ ゆっくり休む。朝、躰の順応を待つのが最近の習い。スタート後 汗をうっすらかいだなら 順応時間を躰に与える。

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つづいて 一気に7合目までつめるぞ と「精神」に気合を入れる。岩がゴロゴロしているけれども 特に問題もなく進む。拍子抜けか? 景色は 林の間から時々垣間見える程度。苔の生えた岩をどんどんと登る。樺の木が増えたかな? そう思いながらも快調 快調、登る 登る 汗があまり出ない。

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7合目での休憩を終え 山頂まで一足飛びに詰める。笹が出てきた。笹の中に 古いちいさな観測小屋がある。先日まで雪が被っていたのか? アチコチの方向に笹が倒れている。寝た子を起こすように進む…手前の稜線に飛び出る。どうやら双耳峰っぽい、騙しピークのようだ。 一旦窪に下って残雪を右にみて 登り返すと奥の宮にでた。奥の宮を回り込むようにして 眺望の良いピークにたった。11時、明るい日差し 心地よい風を受けながら眺める。 音のない 春のにおう これぞ遠野盆地! 

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二等三角点の頂に立ち、東に蟹が岳、片羽山(かたばさん)の雌岳、雄岳がすぐ目の前、空堀した廃坑跡も見える。遠野盆地の見える西側に場所を代えて ゆっくり弁当をひろげる。眼下に遠野盆地を眺め、下山後に巡る土淵のデンデラノ、ダンノハナに思いを馳せる。疲れた躰に甘いお菓子を口にした お茶を飲んだ ゆったりした時間が身体の中を流れていく。

11時45分 靴紐を締め直し循環コースの下山にかかる。出だしから急降下と笹薮が続く、ソレを過ごせば 岳樺と水楢と思しき灌木の小道 気持ちいい。まさに春山 どっちを向いても新芽ばかり 太陽の光をさんさんと浴びながら歩む。
笹が、草が、光に反射してまばゆい。

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途中、カラマツ林となり 景色がスカスカに広がる中 ピンクテープを拾いながら ゆったりとした伐り出し材の運搬道だったであろう綴ら折れを ウネウネと右に左に折れながら それでも時々 ショートカットを試みながら のんびり進む。カラマツ林の皆伐が済んだ地点をさらにミズナラ林に入ったところで 遠くから 哀愁を帯びた短調♪の汽笛が 響き渡ってきた。「ボーッ」…♪、釜石線 SL銀河”だ、、、一日に片道切符たった一本。そうだ 蒸気機関車が走っているんだった たった今思い出した 眺めればよかったかな。きっと 遠野駅12:41発 花巻行の上り列車だったのだろう。そう気づいたら もう一度、「ボーボー、ボッボーーー♪」少し長めに汽笛が響く、、、汽笛の余韻が山間にコダマする、、、連れの目がクリクリと輝き アレは何?と聞いてるよう。こんなタイミングで 汽笛が添えられたのだから チョッピリ旅情を感じとったか? 旅愁が そこいら一面に漂う、、、旅に出ているんだ…と 実感した。

ついつい 線路に耳を当て…遠くからやってくる汽車の音を聞いた 幼い日を…同時にそれは、懐かしい「引込線のある風景」だったことを…またそれは 幼かった頃の「長い、暑い、夏休み」… 母の実家の暗い土間… 土の匂いのする… 一挙に思い出させもした。 豊かな山旅となったことに感謝した。

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12時45分、暮坪コースと中沢コースとの分岐点。これを右折し中沢コースを採る。道に草が生え、落ち葉がかぶり判然としなくなる。よくよくピンクテープを目で追いながら進むと 道は沢上の山肌をウネウネ巻くようだ。13:10 ヒトリシズカの咲く 太い作業道に飛び出る。

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一服して、のちにスグ林道にでた 一安心だ。今朝の駐車場まで 150mの高差を登りかえす仕事が待つが 急げば30分ほどか? 途中に登山道を右に示す四辻に出る 右には折れずに林道をまっすぐ40分ほど掛けて歩く 余韻を楽しみながら駐車場に戻った。 午後2時だった。

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画像データより
登山口9:00-4合目9:35休憩-7合目10:09休憩-観測小屋10:50-山頂11:06-出発11:45-中沢分岐12:43-林道13:15-登山口13:55




by tabilogue2 | 2018-05-11 22:12 | 花巻 遠野 岩手 | Trackback | Comments(5)

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社会人になってからも ソレを終えた今も…「とおの」、「とほの」という言葉の響きに一つの淡い思いを抱いていた。未だ見ぬ「とほの」という響きを持つ街に足を踏み入れその言葉の響きの正体を見にゆこうと暇に任せて勇みだった。

遠野の昔語りに「遠野三山」の話があって、それが神社の開祖の関係からか、修験道の関係からか?会津の思案岳(ちやがたけに伝わる民話「本元飯豊山と飯豊山」の民話に出てくる「姉妹の嫁ぎ話」が…ここ遠野では「三姉妹と三山」になりかわっていた。まるで筋書きが重なり、おや?と思った。いつの日にかこれら三山に登らねば…と心に懐いて月日が意味なく経つというのも 三山を目指して登る一つのキッカケとなった。

遠野三山の一つは言わずと知れた早池峰山であり、さらに一つは鉄梯子の石上山、もう一つは六角牛山であるが そのニつ目、三つ目の山に登ろうとも思っていた。やり残してきたともいえる「遠野への想い」が私に登らせている山たちでもある。それで どうせ山に登るのだから、遠野の山に登りながら遠野の民話と「とほの」という言葉の響きそのものに身を横たえてみようじゃないか!ということになったわけだが、いずれ怖いもの見たさの範疇を逸脱することは決してないw

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”とほの”という言葉の響きに巨きな影を落とすものとして柳田国男の「遠野物語」がある。そこに書き残された多くの短編が遠野の文学者、民俗学者ともいわれる「幽霊譚の蒐集家」佐々木喜善の口述によって成就できたもの。その佐々木喜善の何たるかを探究するのに多くの教授、諸氏諸兄が当たられていることを改めて驚きとともに知った。ことに「会津学」でお世話になっている奥会津の「地方文化史・生活史の紐解き」をご指導なさった赤坂憲雄先生もまた遠野物語や佐々木喜善の研究に時間の多くをあてておられることも知りえた。

「遠野学 vol.2」で赤坂先生が「遠野物語における述者:佐々木喜善」をこれまでの評価とは違う角度で「怪談、お化け話で別の世界観を持った”学者”」として再評価しようとする向きがあると仰っておられたが 今現在それは「迷える羊」に喩えて”評価の際に立つストレイシープな立場”に それ「佐々木喜善研究」はあるようだ。これからもなかなか興味深い趣である。

そういえば 柳田国男と佐々木喜善とは「遠野のお化け話」の捉え方に根本的な違いがあるようだと何処かに書いてあったような?。どういうことか解りやすく誤解を承知で言い換えると…、柳田は全国の中での一事象として遠野の民話を記録したに過ぎないのかも?であり、反して喜善はお化けの正体である「怨念幻影 おんねんまぼろし」をグッと深く知って、専にそれを伝えようと柳田に口述していた、そこに両者間のギャップがあるのだろう…ということになるのだろうか。

こちらもさらに深く知らなきゃ「遠野のお化け話」が先に進まない(笑) 佐々木喜善の「お化け談」「幽霊譚」に耳を傾け、「オマク」「念惑」「怨念幻影」という喜善の言葉に含まれる「幻影の素なるもの」を理解する方向で彼に向き合うことも「有り」と思った。山にも土地にも触れながらの良い刺激になるかも。

ところが、足の踏み入れ方が悪かったのか?はじめの一歩からしてどんどん深みに嵌りだした。先行き、今年のお盆の頃には現実お化けを見ることにもなりそな勢いだ。今から期待に足を震わせている(´艸`) ゆくゆく佐々木喜善と同県人で5年ほど親交のある宮沢賢治の理想郷「イーハトーヴォ」の世界観とも関連させ、佐々木喜善の「村民運動」などにも触れながら彼の人柄を見てゆこうと狙ってもいる。おもむろに「遠野学」も齧って行こう…と夢は描かれる。しかし「門前の小僧」であることには違いないので、これからも間違いは多々あるのだろう…それも愉かし・をかし、途上人の常であると諸先生方にはお赦しを願いあげるものである。

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「とおの」という言葉の響きを持ったこの町。東麓にたつ六角牛山より眺めてはきたが、南部の殿様が城を構えたその裾野に四方から流れが集まり一つになる豊かな盆地の姿がわかる。馬による物資・木材の搬送が生業としてあった時代から現在まで時計の進むスピードがゆったりと流れた街。だからこそ佐々木喜善の人柄が育まれたのだとも思う。そのせいか、彼は東京で女性たちにモテモテだったという(´艸`) 都会に在っては、少し吃りながら岩手訛りで話す彼のお化け話を聞けば…その周囲は時計の針が一瞬遅く進む不思議さに虚を突かれ、ついつい母性をくすぐられるのだろう。その鈍臭さの残る人柄に惚れた、、、という人もいるくらい。

昔話の宝庫、そこいら中の川の淵に河童が棲んで(遠野市の文献では常堅寺を含め20箇所ほど淵が数えられた)、「マヨヒガ」の昔話が語られ、重く暗い居間に「座敷童子」が顔を出す、その幻覚めいた物語をあたかも実話のように、そう日常性に転化できるほどに、「日常と非日常、夢と現実の境界が曖昧になっていてヒョイと越えられる」感覚がありそな?”土地のユーモア性”が確立されているからこそ、「遠野」を懐かし味のある「とほの」と世間に云わしめるのだろう。

遠野」というキーワードにストーリー性を持たせた会心のだった。幸いにして六角牛山に登った折に、SL銀河号の汽笛がボー、ボー、ボッボーーーと山裾の遠くから聞こえてきた。遠野の遠野たる情景に懐かしい「音色」も添えられたことで「心象風景・遠野」がより深く我が心に刻まれたのかもしれない。 そうか! もしかするとそれは 「とほの」の河童たちの土産だったのかもしれんなぁw どんどはれ。





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by tabilogue2 | 2018-05-07 23:09 | 花巻 遠野 岩手 | Trackback | Comments(0)

宮沢賢治と地人協会

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当時の時代背景、政治と当時の人々の暮らし向きを充分に理解していないので此のページは写真だけ貼って 内容は保留にしておくのがいいのかも。労農運動とも社会主義とも関係するのだろうが それがどんな風に花巻 賢治に関係するのか?この時代は民主主義が未発達で 未知なことが多いし「排赤」の運きもあって 今の世ではあり得ない言論統制など 自由主義が蹂躙されていた時代。そんな時代背景に 凶作の年に身を削ってまで農民のために尽力し命果てる そんな生き方。 農民楽団オーケストラも 化学肥料の調合も 法華経も エスペラントも含め これだけ「人間博愛の精神」に身を捧げられる素地はどこからくるのだろうか

当時の花巻、盛岡、遠野、、、岩手、東北、日本の農民全体に関わってくる問題も含め当時の社会状況の”根本的な理解”をシないと「献身という生き方」を語れるような気はしない この生き方が「ジョバンニ」に通じ 「銀河鉄道の夜」の夢物語に成るのか 今は 彼のもつ「世界観」を学ぶことが 後世の我々ができることなのだろう



現代なら、、、
民主的に政治を司る権力の構築に献身する政治家または指導者
ということになるのかな?

「アベ政治」ではありえないこと




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by tabilogue2 | 2018-05-07 18:29 | 花巻 遠野 岩手 | Trackback | Comments(3)

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むかし…子どもの頃に観た映画 それは白黒の映画だったが。。。
今でも 心のどこかに引っ掛かっている…高田三郎くん
夏休み明けの小さな小学校に突然降って湧いて、嵐とともに去っていった転校生
「風の又三郎」と地元の子らとの交流を描いた宮沢賢治の作品  

このオリジナル映画は昭和15年に制作された日活映画もので
田舎の子供:一郎役は俳優の大泉晃さんだったようだ。 
その後 昭和32年に東映が制作した映画もあったようだが
昭和40年ごろ、中学生の自分が観たのが
そのどちらだったのか…は 覚えていない。

おそらく、というか
期待値も込めて、、、日活映画だったのだろうw
私が子どもの頃に観た映画、「風の又三郎」の不確かな記憶だ。

   

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そして 次に読んだのは 「よだかの星」
 
悲しかった・・・ ものすごい悲しい読後だった と、覚えている 
思い出してもいる いったいあの悲しさは 何だったのだろう? と

その後の人生で知ったのは・・・
敷かれたレールに抗うことの「虚しさ」とか
持って生まれた人の「運命」とか「宿命」 社会の無意味な「摂理」とか「さだめ」
そういったもの…「無情」を 中学になった自分は感じ取っていた
今の世代以上に 多感な少年時代だったようだ

賢治の「世界観」は 大人であってこそ知りうるものだからね
そういえば、、、「市蔵」って 何の比喩だったのだろう?



家の本棚には「少年少女世界文学全集」という分厚いシリーズ本があって 
当時 片っ端から読んでた(みたいだ)

少年少女対象の童話としてではなく 小説のように読んでいた
なかでもグリム童話は大人向けの本だったよ あれは

たしかに、、、
メルヘンを「童話」と訳すことによって生ずる誤謬(ごびゅう)は
きちんと捉えられていなければいけない
メルヘンは「民話」と訳すべきものだったと 今もそう思っている



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by tabilogue2 | 2018-05-07 12:06 | 花巻 遠野 岩手 | Trackback | Comments(0)

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妖怪 あかいのっぺらぼう




岩手、遠野の文学者であり民俗学者である佐々木喜善(ササキキゼン)の生家、
土淵を訪問したい

以前に書いた*会津学 vol.5 の記事で理解できなかった
姥捨ての地:デンデラノ(蓮台野)、死の世界:ダンノハナ(壇の端)とを
佐々木喜善の生家から この目で眺めようと思う 

関連書物をあさっている最中だが 調べれば調べるほど遠野に住み着かないと 
知れないことが たっくさん出てくる 既に お手上げ状態だ。

どこから? 手を付けてゆけばいいのやら? さっぱりわからない 
先に深く親交のあった宮沢賢治の考え 共通であった”エスペラント”の志向を理解したい 

賢治が好んだと云う種山高原にゆき 「おお風」の中に立ってこよう 
近くの山々には 50基ほどの風車が回っているという

あ、市原悦子さんの朗読も聴かなくちゃ 山師のオヤジと転校生高田三郎
青い胡桃を吹き飛ばせ~♪ 酸っぱいかりんも吹きとばせ~♪



周囲の山には 安倍一族の冠がつけられたものがあり 
生活圏に大和朝廷文化との交わり、蝦夷文化の排斥が散見できるという 
それと六角牛山にも登ってみようと思う。
眼下の遠野と その地の暮らしが眺められるだろうか

その後に「遠野物語」の柳田国男に民話を口述した
民俗学の先駆者:佐々木喜善の”人となり”にアプローチしてみよう

とはいえ、、、「遠野」を研究した先人はあまたおられるわけだから
その中、エキスを吸えれば 素人としてはそれで充分
”古”を興し、満足するよな「懐古趣味」に浸るつもりはさらさらない
ゆくゆく、赤坂憲雄先生の講釈が理解できる素地になれば…それでいい。









by tabilogue2 | 2018-04-26 16:51 | 花巻 遠野 岩手 | Trackback | Comments(4)