大山越 ④

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滝谷 砂子原地区



信心と峠

以前述べたように、只見川沿いにある金山町は上田ダムからの峠入口、越後の柴倉村か
らの峠入口、山頂の沼越峠にも大山祇神社の石祠が設置され、大山越そのものが山ノ神
に護られた有難い道だった。



大山祇神社詣りが盛んなころは登拝ルートも面白いように組まれたらしい。長い一生の
節目節目に鎮守様とかかわりその御加護を頼り生きてきた。お伊勢講、飯豊講、山ノ神
講、湯殿講 羽黒講 伏見稲荷講 それぞれの信ずる神へ参詣する。

水神様、疱瘡などの疣神様、戦になれば鹿島神社の祠にも詣でたことだろう。大山越は
庶民の暮らしにおおいに利用されていたのである。いっぽう農耕社会の維持に必要だっ
た村々の氏神様は個人の信仰というより 村、村人のために祀られた神である。

それが産土の神、土地神様の習わしだった。赤子が生まれたらすぐに社詣りする、十五
になれば虚空蔵様にお詣りし飯豊山神社にも登拝する。ごくごくそれが普通の習わしだ。
田の神、水神様のお祭りでは「歳の神」祭(さいのかみ)が正月行事になっている。

そういう事情を見ていくと、この大山越での山ノ神巡りは霊験灼かなルートが好んで採
られたようだ。大山越-柴倉-大倉峠-大山祇神社、この路順だと金山・宮崎から上田
の山ノ神様、沼越峠の山ノ神様、柴倉側にある峠の山ノ神様、そして柴倉村の鎮守であ
る山ノ神様、さらに大倉峠から関根に出て関根の山ノ神様、そして大久保に出て大山祇
神社遥拝殿で拝んで奥宮に詣り、黒沢越、長谷川越、尾根筋を高倉や国土山の手前から
水沼に下りて来る。

補足するが、大山祇神社と峠筋や村の端にある小さな石祠の山ノ神神社 このどちらも
「山ノ神」で同じ神様である。そこに格差とか格式とかの「差」は存在しない。マタギ
たちの信仰する神様も山ノ神だ。

湯殿山詣りも大山越で組まれた。このルートを表参道とよんでいた。津川からは諏訪峠、
村上、温海を経て羽黒に到って、御山(月山)をかけて奥宮である湯殿山を参拝する。
帰路は山形、上山、米沢、桧原、大塩、塩川の順路で帰村している。おおむね七月初め
農作業の手を休めて参詣の旅に出たようだ。旅の日数は十数日ほど費やすことになる。
路銀も嵩むので、「講」を組んで年ごとの代理登拝で参詣もしている。



*会津学研究会によると・・・
畑の神様である「地神(ちじんさま)」は地域により呼称が異なる。
「作神(つくりのかみ)」「羽山(麓山)様」、、、、

それが柳田国男がいうように田の神と循環する、ということにはならない地域が多い。
(畠はあっても 田圃がほとんどない地域だからか?)

また会津盆地中央部の会津藩域には、神様(淫祠)が消された空白域がある。
道祖神や、サイノカミ、家屋のひぶせなどが消されている。
会津藩主の保科正之の「新道」との関連と思われる。

中世・近世、、、、人々がどのように暮らしのなかで神仏などを祀ってきたか
講(こう)として営まれ、あるいは石造物を建てまつる

庚申待(こうしんまち)、二十三夜の月待、十九夜。 

巡礼として三十三観音(西国、奥州、仙道、会津、岩城、田村、御蔵入三十三観音) 
飯豊山、湯殿山、妙義山(白雲山)、古峯原、東堂山、田島の牛頭天王(祇園祭)、八溝山








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by tabilogue2 | 2015-11-28 17:10 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)

大山越 ③

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津川町 会津藩の西の要衝・津川の街並み
棟梁の粋な造作と 雪除けの「トンボ」(*雁木)




暮らしと峠

奥会津から越後へ越す峠道は 南から六十里越、八十里越、御神楽越、貉ヶ森越とあり 
六十里、八十里はそれぞれ六里、八里を歩いて越後の村落に抜けているが、「大山越」
はそれらの半分以下の三里で越後の村落に着くことが出来た。ちなみに金山谷の北部か
らは袴腰、九才坂峠、大倉越などの峠が交易で使われていた。

ここ金山谷の人たちは「大山越」を利用していた。日常全て、足に頼った時代の極めて
大切な道である。当時、十五歳にもなればこれらの峠を越えて往きは金山谷の産物 麻、
青荢(アオソ)を背負い、帰りには塩や昆布、魚類を日帰りで背負ってくる。
この仕事ができて初めて一人前の男として認められた。

金山産物・・・大豆、小豆、ながらし、紙、稗、木の実、麻、青苧、苧麻(カラムシ)
入荷魚類・・・塩鮭、塩鱒、昆布、数の子、棒鱈、鰊、身欠き鰊、田作り、鯨、

また只見川の筏師も長い櫂棒を背負って、十数人の集団で大山峠を大塩・滝谷へ戻って
ゆく姿も見られたそうだ。雨の降る時期、材木搬出は活気があったらしい。柳津の虚空
蔵尊の御柱は霧来川の良材を伐り出し、雨の多く降る梅雨時に只見川に流したそうだ。


生活用具について・・・  *「会津学研究会」 ヒロロの資料の項より抜粋

自然木の又・棒・根曲がり部分、シナノキ・オニグルミの樹皮、ヒロロ(ミヤマカンスゲ)
ガバ(カバ、ガマ)の草本類など天然素材を巧みに利用して手作りされたものが多い。

豪雪地帯のため竹が自生できず、その代わりにマタタビやヤマブドウの蔓を利用したもの
が多数みられるのも特色である。

コシカゴ(腰籠):ワラやヒロロで袋状に編んだカゴを、ひもで腰に結び付けて、採取し
たゼンマイを入れる。縦四〇センチ、横六〇センチほどの大きさが一般的である。
(会津ではスカリという)

ショイカゴ(背負籠):採取したゼンマイが、コシカゴにいっぱいになると、ショイカゴ
という大きなカゴにつめかえる。そして、空になったコシカゴをつけて再び採取に歩く。
ショイカゴは縦六〇センチ、横九〇センチくらいあり、ワラやヒロロなどで袋状に編み込
んだもので、これをニナワ(荷縄)で背負って運ぶ。

アミガサ(編笠):仕事中の日除けにかぶる笠。ヒロロやクグを材料とし、アンブ(編符)
はシナッカワで編む。田の草取りやクリ拾い、キノコ採りなどの山歩きにかぶる。スゲ笠
よりも丈夫であり、幅もせまいので重宝された。

ミノ(蓑):雨や雪を防ぐために着用するが、そのほかにも物を背負うときの背当て、休む
ときの敷物など用途は多様だった。ヒロロで編むが、背当ての部分にはシナッカワや布を織
り込んだりする。ミノクビ・アマブタ・背中の順に編んでいく。
ミノ作りは冬の男の仕事で、一着作るのに三日ほどかかった。ヒロロは秋彼岸ころ、山から
採取しておき、陰干しにして冬まで天井に保管しておき、冬になって湿らして編み込む。
完成したら、春の雪上でさらすか、雪解け水に一週間か十日ぐらい浸し、よく乾燥させてか
ら使用する。さらさないと、入梅のころカビが生え、長持ちしないという。


山都町で草類で最も民具に使用されているものはヒロロであろうか。ヒロロは山の湿った地
に生えており、主に蓑を作る。土用をすぎると抜けなくなるので土用前に抜き取る。山から
採ってきたヒロロは、青いままで保存するのがコツであり、陰干しにして乾燥させる。

蓑作りは主に冬に行い、霧ふきをしながら作る。できたら雪を上げてさらすと青みがとれ白
くなる。また編み布がしまり丈夫になる。猟師たちが作りかぶる「ミノブシ(蓑帽子)」と
呼ばれるかぶり物も、雪がつかなくてよいのでヒロロで作る。

衣料として用いられたイラの皮(イラソ)は蓑の編み布や下駄のはな緒に使った。これは十
月末から十一月はじめ頃に採る。霜にあたらないと弱いという。モワダ(シナノキ)は水に
弱いが、イラソは水に強いので、オソフキの先をよったりするのにも用いられた。



バンドリについて・・・

会津では古来、猟師や猟を「テッポゥブヂ」と呼んだ。そして山に棲むムササビをバンドリ
と呼んだ。晩方になると飛ぶからか? 晩方になると鉄砲で打ち獲るからか?晩の鳥、晩獲
り、かもしれないが。

バンドリ名人に言わせると、一晩に8羽獲ったそうだ。ムササビの毛皮は高値で売れ 米一
俵になるといわれた。晴れた十五夜の晩には胴巻きに蕎麦かき餅(行動食)をたっぷり入れ、
大山越を山ノ神まで往復しさらに岳山まで歩いたという。暮らしの峠だった。















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by tabilogue2 | 2015-11-28 00:53 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)

大山越 ②

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津川町 「狐の嫁入り祭」花嫁の草履 (7枚重ねで編んでいる)




塩と峠

奥会津は名の通り山に囲まれている山国である。どこへ出るにも 何処から物資を運び込
むにも山を越えねばならない。それは今も昔も変わらない。

江戸時代の初めまで会津地方の「塩」は小名浜一帯と相馬から仙台にかけての浜から採れ
「東入り塩」が中心だった。その後、大阪から日本海を通る西廻り船で播州や尾道で採
れた良質な塩が新潟に陸揚げされた。それが「西入り塩」である。

あまり聞いてはいない話だが、幕末に京都守護職になった会津の殿様:松平容保が幕府か
ら領地を加増された際に、特に「新潟の一部」を容保は希望したといわれる。瀬戸内から
の「西入り塩」を安く安定的に手に入れようとしたわけである。 

文政三年(1820年)、御蔵入地:今の高田町以西、只見川以南の地方に7000俵の塩が
運ばれたという。新潟港より阿賀野川をさかのぼって津川町で陸揚げされ、津川から野沢
や西方へ駄馬で運ばれた。瀬戸内の塩は十四貫入り(52.5キロ)の荷姿だったので、
津川での陸揚げの際に坂下の叺(かます)と縄で 米同様に一俵60キロに荷造りを仕直
して運んだそうだ。

奥会津に入る「西入り塩」は
1新潟-津川-野沢-西方-御蔵入(主として金山谷)
2新潟-津川-八十里越-奥会津-伊北
3新潟-津川-柴倉-柴倉峠-宮崎(大山越)
4塩沢でとれる地塩
だいたい以上のルートで 御蔵入地に用立てた。

大塩組では年に390俵が要り用で津川廻りの塩と八十里越の塩が半々くらいだったとされ
る。津川廻りの塩は八十里越の塩より金一分につき一升分ほど安かった。野継ぎ駄賃が少な
かったからだろう。

津川と西方には「塩囲い蔵」が置かれ、西方には年間で6000俵から12000俵が入荷
したそうだ。蔵のおかげで潤った村だったという。

嘉永元年(1848年)の記録によると大山越は1575駄、野沢から西方は1625駄。
峠を越えるということはどれほどの苦労があったのだろうか。宮崎村より柴倉まで三里、津
川まで五里、この三里の大山越を牛馬にて運べたらどんなに楽だったことだろうか。

江戸時代に何度も大石、大塩、野尻、黒谷、古町、和泉田、熨斗戸組の農民は連合して嘆願
書を役所に出してはいたが聞き入れられなかった。野沢や西方の街道筋の問屋が裏で役人と
グルになって反対したと言われている。同じ金山谷でも水運に頼った滝谷、大谷組の名主は
大反対に廻ったと言われている。

ちなみに塩は十貫目俵を半分(20kg)にして大山越をしたとされる。
また 一駄は・・・牛馬の背中に「俵を2つ」着けることをいう。


*先日学んだ通り、宮城の秋保では笹谷峠の脇間道で荷物を運ぶ馬を「ダンコ馬」と呼んだとある。
ダンコの「ンコ」は 犬っこ、どじょっこ、ふなっこ、女(め)ごっこ、やろっこ、うまっこ、べごっこ・・・
語尾につけられた愛称であろうか。 馬・・・駄馬、だんば、ばんば、うまっこ、、、

















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by tabilogue2 | 2015-11-27 18:36 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)

大山越 ①

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新潟県津川町 「狐の嫁入り」祭り




金山谷と峠

福島県大沼郡金山町の金山町文化財調査委員会が編集した「金山町の文化財」によれば、
「㉜塩の道 大山越」の歴史に目を通すことができる。
国土地理院の地図で 北緯「37度30分38.57秒」 東経「139度32分38.73秒」 
沼越峠を中間点とする南北の破線路を「大山越」という。
その西側は、スラブに遊ぶ「御前ヶ幽窟」。 歴史に遊ぶ、古道「大山越」とは一山ちがい。

また先述の「金山史談」に記載された「塩」に関する記述を抜粋して・・・、「大山越」の
歴史的 生活交易的 宗教・文化的側面を学んでいきたいと思う。



金山町宮崎より只見川を舟で渡り(現在は上田ダムを渡る)、関根より北ノ子沢(北の湖沢)
を越えて、急峻な道を登り国土山を尾根伝いに行くと、新潟県境に大山祇神社の石の祠が立
っている。そこから県境の稜線を登るとほどなく沼越峠(鉾峠)となる。標高830m、こ
こまで関根から一里半6kmの道程である。

それより再び急峻な坂道を下ると柴倉川の支流・大川前沢につく。さらに二つの小さな峠を
越えると 最初の村落である柴倉に着く。ここは大倉峠からの径もあわさる。この柴倉まで
が峠より一里半の道程である 現在は4キロほど行くと林道となっている。

この三里の道を 大山越(おおやまごえ)とよんでいる。現在は東北電力の送電線:新潟幹
線と鹿瀬線が通っているので 道は狭いながらも良く刈り払われている。

奥会津から越後へ越す峠径は南から六十里越、八十里越、御神楽越、貉ヶ森越とあり、六十
里、八十里はそれぞれ六里、八里を歩いて越後の村落に抜けているが、この大山越はそれら
の半分以下で越後の村落に着くことが出来た。

大山越は 寛文年間(1661年~)には会津藩郡奉行:関藤右衛門によって改修された「歴史
の道」でもある。日常全て足に頼った時代の極めて大切な道である。
金山北部からは、、、袴腰、九才坂峠、大倉越などが交易で使われていた。



他に大山越の逸話として拾える話、記録は・・・

天正六年(1578)には野沢城主:大槻太郎左衛門政道が芦名氏に滅ぼされて この「
大山越」で越後に逃げている。

寛文年間(1661年~)には当時の会津藩郡奉行:関藤右衛門によって改修された歴史の
径でもある。

さらに江戸時代、寛永十九年(1642)には時の会津領主加藤明成の過酷な年貢の収奪に
耐え兼ね、沼沢、大栗山、坂下の多くの農民が大山越から越後へ逃げ散っている。



*「天領 南山御蔵入」

幕府の直轄地を天領と言った。そこの土地で穫れた米は江戸に廻され、幕府の米蔵に蓄え
られた(御蔵入)。浅草辺りだったというが そこまで運ぶのでさえ大変な労役だった。

山と谷しかない土地。それがゆえに、戦での要衝の地を務めたが、普段に生きる民百姓に
とっては過酷な地と言っても言いすぎることはない。江戸時代中期に年貢負担に苦しむ百
姓たちの一揆が起こってもいる。

享保五年(1720)、全国の天領地において初めての百姓一揆が勃発した。この一揆で
首謀者として 6人の斬首・さらし首、23人の入牢(9人の牢死)、処罰36人 の犠
牲者がでており「人別帳」に書き込まれている。農地没収、家財没収、親兄弟まで連座制
で責任を取らされた。

のちのち「御蔵入騒動」に関しては いまよりも一層勉強して ブログに書き込みたい。



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by tabilogue2 | 2015-11-27 15:15 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)

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滝谷川 斬伏峠への分岐付近




金山・本名からの交易ルートは 鞍掛沢と大鍋又沢との中間尾根から登って御神楽赤綿尾
根にあがり、赤綿平(1091m)-白山ヤシキ(914m)-月山平-笠倉山-笠倉沢(754
m)地点-スモ平-蝉ヶ平という交易ルートがあったと思われます。

越後・室谷からの交易ルートは 明治時代から日尊倉(ヒソノクラ)を経由しており、塩
や魚が 幕岩の西側鞍部を通っていく道で距離はここが一番短かく、険しくもあったと既
に言われていました。明治十年ごろの記録によれば9時間もかかったとされています。

新潟県の室谷から大久藏沢を登って、会津側の大石田沢を下り三条・本名まで、。或いは
蒲生川の沢どおしに滝沢・大塩集落までのルートがあったと記されています。


もっとも、領有権などの争いがあって、国境となる山の確認がありそれを名主たちが了承す
るという一連の「国境山論」があったと記されています。陸奥と越後の二国・四郡・十三箇
村の国境の詮議があったと。領有権で問題となるのは木材、山菜、狩猟、漁業、金銀鉱など
の鉱物などの資源ですね。

とくに会越山脈は粗鋼といえども金鉱 銀鉱 黄銅鉱が産出されており、金鉱は1トン当た
り3ないし4グラムと粗鉱だが、代わりに黄銅鉱は60グラムほど採掘できた良鉱だったと
いわれています。金石ヶ鳥屋山では金石が産出されます 金石とは鉛鉱のことで「鉛の溶け
込んだツララを発見したことがキッカケです。かつて「裏八十里街道」会越山脈中ノ又山に
登った時もそちこちに多々羅精錬のボタの跡があり青紫色になって捨てられていたのをこの
目でみています。


なので、山の区界を決めるということは現地にとってとても大きな意味があったのでしょう。
また マタギにおいても口伝は沢山残っており 山の〇〇渓より先には入ってはならぬという
「掟」が存在していました。こっちのマタギとあっちのマタギとのやり取りがあったと思われ
ます。いわゆる縄張りを決めていたようです。金山町の”談合峰”という山も縄張りの結果だっ
たんでしょうね。

それら交易の道は中世の租庸調、江戸時代の年貢などの「税制度」の明確化に連れて発達して
きたと思われます。年貢米で納める、金銭で納める、漆などの特産物で納めるなど「天領南山
御蔵入地」であった西・南会津地方は幕府直轄地であったため 仔細に渡って村々の年貢上納
の書き付けが残されておりました。話は変わりますが・・・のちの 農民一揆「南山お蔵入り
騒動」の話は まことに仔細に渡り記録され 弾圧と一揆勃発、処刑・斬首の顛末記となって
残されています。



宗教的に見ますと・・・、金山史談会発行の「金山史談 4号」に記された記録によれば、、、
「神鏡 御神楽嶽と其の史的研究」という本に 会津の伊佐須美神社主典 佐治虎雄氏の一行
9名が当時未知の秘境だった御神楽の紹介と植物の調査研究を目的に登山されたときの記録で 
昭和5年に「余等一行9人 八月四日に登拝せんとして出発に際し御神楽岳の信仰者に『登山
すると必ず山が荒れて作物が不作になる 登山を許すことは相ならん』という苦言が本名区長
にあったほどで、この山とこの地方民とは極めて密接な関係が今なお存している」と記してあ
りました。登拝の時以外は登山道というか、交易道さえも本名御神楽、御神楽岳を外していた
のではないかとさえ思えます。

昭和5年(1930年)ごろまでズゥーっと、外界からの侵入を拒んでいたわけですね。ある意味、
この事実は凄いことを含んでおります。ごく最近まで つまり歴史的事実が虚偽のない真実で
あったことです。


かつての交易道を御神楽に辿れば、、、新潟山岳会 現会長の阿部信一さん手書きの地図には
御神楽~雨乞峰~湯沢の頭までは「バアラ曽根」と記され、湯沢の頭~高頭~覚道の頭~蝉ヶ
平の尾根は「楢山曽根」と称されてきた経緯があります。どちらも春先の熊撃ちに使われてい
たことでしょう。キノコ雪が着く瘠せ尾根ですから、山岳会であっても冬季合宿以外に登られ
ることは極く稀だったろうと思われます。

とすれば 夏山登山用に新規に開拓しなければならなかったのは湯沢出合いであるスモ平から
高頭(コウツムリ)までの支稜線の開拓だったであろうと考えられます。登ったことがある人
なら分かると思うのですが よくこんな所にルートなんかあるなあ と思えるところです。

栄太郎さんは越後広谷川の蝉ヶ平の出身。蝉ヶ平も会津側の三条集落と同様に平家の落人部落
と世間から見られてきました。いや、そうではない!と言ってはみても 風評には抗えない部
分もあったのでしょう。それは三条集落の歴史としても前記しました。三条と蝉ヶ平とが同じ
ような木地師集団としますと・・・、
栄太郎さんがかつての狩猟の道を辿って、中世からの「歴史の道」を復元する真の意味は、厳
しい生活を強いられながらも この地で生き抜いてきた祖先への敬意と今の暮らしへの感謝だ
と推察しますが いかがなものでしょう。


御神楽岳の記事へ飛びます ・・・ 御神楽岳水晶尾根

栄太郎新道の以前にあった交易道について・・・ 原稿未了 加筆・訂正中





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by tabilogue2 | 2015-11-24 00:18 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)

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御神楽岳に「栄太郎新道」が切り拓かれたのは・・・いつ頃 どんな目的だったのか?

その前に「栄太郎新道」とは・・・トラさんのブログへ飛びます > ソロで生きる

調べ物をしていたら・・・ひょんなことから 当時に関する資料が出てきた。南会津山の
会「いろりばた 68号」に会員の滝沢芳章さんが記していた。「1985年9月14日、
偶然に栄太郎さんのキリツケ遭遇」の記事、標題は「笠倉山二つ」です。ここでいう笠倉
山は御神楽のぐるっと峰続きに広谷川を挟んで対峙する山です。もう一つの笠倉山は只見
塩沢の蒲生岳の北東の山を指しています。

「登山道切開キ記念 昭和三十四年七月中 熊倉栄太郎五十九才」

1959年・・・ この年って、どんな時代背景があったんだろう? 三井・三池闘争後の
60年安保闘争で全国的に政治闘争化していた時代背景? 市民のリクリェーションはどんな
感じなのか? 当時小学校4年生だった私では覚えもない。ただ吾妻スカイラインが開通し
て結構な盛り上がり感を感じていた。翌年、夏休みの宿題で 吾妻小富士を一切経側から眺
めた絵に金賞が貼られていたのをしっかり覚えている(笑)

「この齢をしてあの険しい栄太郎新道を切り拓いた情熱にはただ脱帽するのみ」と滝沢さん
は書かれていました。ただし・・・、滝沢さんが「あの険しい」と表現したのは 湯沢入口
のスモ平から高頭までのことを意味してるのだろうと思います。

1985年(昭和60年)の栄太郎さんが直筆?のキリツケ発見まで 26年間には会津山
岳会、峡彩や新潟山岳会、特に「わらじの仲間」等 登っていたんだろうとは想像しますが、
栄太郎さんがいつから どういう動機で 何のために切り拓いたのかを検証する文献が一つ
もネット上には出てきません。新潟では「栄太郎新道」について あれこれと調べつつ山に
登っている若者はいないのだろうか?と訝るほど。地元山岳会としても「文化的な踏査」は
しないのだろうか?疑問をもっていた。新潟山岳会は後がまで、登山史の調査に関して信の
おける山岳会は?となると峡彩山岳会しかないでしょうからその弱体化がとても悔やまれます




「いろりばた」の記事に出たキリツケ発見場所は、、、霧来沢から大鍋又沢をつめ赤綿尾根
に上がって そこから左へ月山平の藪をゆき笠倉山に登り 帰り道は三角点から尾根通しに
戻っていますが その途中でキリツケを発見したそうです。それにしても 還暦前にしてこ
の険しい道を拓いたというのですから 私も驚いてしまいました。

それと開削目的が「登山道切開キ記念」となっていましたから ゼンマイ採りではなかった
ようですし、ヒメコマツの根元にマツタケが生えるということは知ってはいましたが、それ
でもないようです。もっとも ゼンマイにマツタケは書けないですよね。極秘にするのは当
然でしたでしょうから(笑)

昭和32年(1957年)といえばようやく峡彩山岳会が飯豊の沢登りを開始したころでしょ
うか? 新潟山岳会も御神楽を登り始めたのは昭和40年ごろ・・・ですから 熊倉栄太郎
さんの御神楽開拓はそれらより5年ほど以前に始まっていた という背景でしょうか。
逆に言えば、新潟にジャルピニズムが浸透しだす前に「登山道」という名の開削をしたこと
になりますね。



ここで驚いてばかりいても始まらないので 霧来川の本名村三条集落が越後からみて 歴史
的にどんな位置関係だったのか交易の面から見ていきますと・・・ じつは 栄太郎さんが
登山道を開拓する以前に 室谷からは御神楽を抜けて三条に住み着いた人たちの道なき道が
あったと思われます。(前項 三条木地師・マタギの話)




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by tabilogue2 | 2015-11-23 22:03 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)

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滝沢川 西山温泉郷




新吉さんの話は以上で終わったのですが、三条は狭い山あいにあり村上に二反歩ほどの痩
せた、しかも冷水がかりの水田があるほか、村の近くに若干のやせ畑があるだけですから、
農業で生活を維持することができません。したがって霧来沢の河口でお椀が見つかった話
の通り、まず一つは木地屋で生活していたということです。

昔はどこの山も自由に渡り歩いて木地物の生産にあたり長期間定住することもなかったの
です。木地師の傍ら焼畑(火野 カノ)に雑穀などを栽培していたのです。

私たちが少年時代、三条から通称「簔売り婆」といわれたお婆さんが 手製の簔や杓子、
ヘラなどを背負ってきたものです。名前は「ヒロ」さん。今聞けば先ほどの新吉さんの話
に出た源次郎さんの母親だったとか。三条の簔はサワグルミの皮を用いましたが、縁をつ
けるにも針金は用いず、すべてシナノキの靭かな皮を繊維にしてできていました。すべて
自給自足で手作りが「三条簔」の特質でした。

冬になると狩猟が専業化しました。特に三条はほとんどが共同狩猟であることが特徴でし
た。奥山を冬季跋渉するということは危険を伴うことが多いので、共同狩猟は必要で、安
全な形態でありました。大動物は熊とカモシカでした。昭和25年に文化財保護法ができ
てカモシカは天然記念物に指定され捕獲を禁じられました、以前は自由だったのです。

狩猟に出かければ山中に小屋掛けして泊まり込みで猟をしました。同じ釜の飯を食った日
の獲物はたとえ一人で獲ったにしても全員で均等に分配され、独り占めは許されない不問
律がありました。熊やカモシカの解体の時は、カエデの小枝を折って神に供え一同が「シ
シは伏す、思いは野辺の露となるべし。アビラウンケンソワカ」と唱え事をしてから解体
に移りました。ちなみに「アビラウンケンソワカ」というのは真言宗の呪文で これを唱
えると全てがうまくいくとされています。ソワカというのは呪文の最後につける言葉で仏
への呼びかけのようなものです。

神への感謝、祈りが終わってから解体に移り、心臓 肝臓 腎臓 背肉の一部を煮て藁筒
(つと)に入れて「山ノ神」に捧げ、さらに獲物の多からんことを祈念することを 堅く
守っています。また狩猟に出入りしたときは里言葉は使いません。うっかり口にすれば獲
物が獲れない 災いが罹かるといって不吉なものとされています。特殊な山言葉について
は多少ですが前記いたしました。

マタギの掟について少し記しておきます。狩猟期の禁忌習俗にも厳しく 山入り前の儀式
山ノ神の祭礼 あるいは山言葉は厳重に守られております。三条の習俗もこれに倣ってお
ります。このマタギであることの証しは「巻物」にあるとされています。見れば漢文で書
かれており どのマタギも大切に所持しておりました。

さてマタギの精神的な支えは山ノ神信仰にあると述べましたが、これを具象化したものが
巻物です。これは狩猟の起源・由来など「本縁」を語るもので、山ノ神を助けた故に日本
国中での狩りを特に許されたと「マタギの起源」を説くものです。いわばマタギの聖典で
す。これには二つの系統があって 一つは日光派の持つ「山達根本の巻(ヤマダチコンポ
ンノマキ)」と もう一つは高野派の「山立由来の巻(ヤマダツユライノマキ)」です。
これによれば マタギの先祖は磐司磐三郎といい、弓の名人とされていました。この話は
どの地方でも拾える話で日本書紀に出てくるオロチ退治と似ております。(*蝦夷退治と
でもいうのかな?)

崇める山ノ神は女の神とされますが その中でも特に三条の山ノ神は醜女(シコメ)であ
ったとされておりました。自分の容貌に劣等感を抱いているので それを宥める(なだめ
る)為にオコゼという醜怪な海魚を奉献する習わしがありました。オコゼを見た山ノ神は
自分より醜いモノも世の中にはいるものだということに気づき、せめてもの慰めになるだ
ろう そうすることも山ノ神に対する功徳の表れだ ということからオコゼを献じるよう
になったというわけです。しかし三条は海から離れているので止むを得ずヤマイタチ(オコジョ)、
マムシ、毛虫、ヒキガエル、サンショウウオ、カジカ、その他 棘のある草を奉献してきた
と古老たちの証言ではっきりしております。

以上、三条の立地的な条件、言葉のアクセントの違い、生業などの点から 平家の落人の
子孫だろうなどという勝手な推測は 何ら根拠がない話だったと言わねばなりません。在り
し日の三条をしのび、その成立過程を民俗学的に考察した次第です。 加藤文弥







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by tabilogue2 | 2015-11-22 12:47 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)

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話はずっと昔にさかのぼりますが、、、

「越後に砦を築いていた豪族で「三條掃部頭兼任 サンジョウカモンノカミカネトウ」
という人がいました。その一子、道明は京に上って宮仕えをしていましたが、、、これ
は源頼義の時代だと聞いております。」
*注 前九年の役(1051~1062。12年にわたる奥州安倍一族との戦い)

まるで 郷土史家に歴史談義を聴いているような気分になり、ノートにペンを走らせま
した。

「ところが どういう事情があったのか細かいことは分かりませんが、京を追われる身
となり、止む無く越後に帰ることとなりました。しかし何かの事情で敵と狙われること
になったらしく、ついに三条にもいられなくなり行方をくらましてしまったのです。」

「ところで 私の家は”三条”という苗字を名乗るべき家筋だったのです。それはお話し
た三條掃部頭は私の遠い先祖にあたっていると確信しているからです。私の家では死後
は代々生前の名に”道明”の二字をつけることになっており、三條掃部頭道明とも符合す
るからです。なお以上の事情に関連して清次さんの家では下山(シモヤマ)、源次郎さ
んの家では丸山の姓を名乗るのが本当だとお互い信じているのですが、前にも話した事
情もあって心ならずも栗田の姓を名乗っております。」

こう話した新吉さんはいかにも感慨深気な面持ちでした。

「それはさておき、三条へはまず私ども三人の先祖が落ち着いたことになっており、そ
こは現在の場所ではなくて、村から十町余り北に寄ったところで、今みんなで一反歩あ
まりの田圃になっている所らしいのです。
持ってきた書き付けや刀などもあったのですが、見つけられると思ってもみない災難が
降りかかる心配もあるということで名主が持って行ったと聞いています。」

「私は若い頃から栗田家に出入りし心安くしていますので、栗田家の許しを得て、土蔵
の中を見せてもらったことがあります。もちろん若い人が立ち会っての上ですが、残念
ながらそれらしいものは何一つありませんでした。」

こう話をした新吉さんには憮然とした表情が感じ取れました。

「私の村へ訪ねてきた来た人は面白半分に あれはどう、これはどうと根掘り葉掘り聞
こうとするのですが 私はそっぽを向いて答えたことがありません。でも今日は別です。
先生から注文を受けたわけではありませんが、私の村人が用いている特殊な言葉があり
ますから 公開しておきます。」

「私の村には以前に”あじゃ”という言葉がありました。これは”なぜか?”という意味です。
それから父のことを”とと”、母のことを”のの”と呼んでいました。ととはどなたも見当が
付くと思いますが、ののは三条以外では聞かれないと思います。そればかりか どこか
「京訛り」のような響きを感じませんか?」

「今は極端ではなくなりましたが、三条の言葉には特異な尻上がり調のフシが付いていた
ものです。これはウグイス言葉などといって私どもはからかわれていたものです。三条言
葉には軽快な”京訛り”が残っていたとも考えられます。したがって 私は卑屈になるどこ
ろか むしろ誇りにさえ思っているのです」

なお 新吉さんは 最後に次のように付け加えてくれました。

「世間の人は 三条は平家の落人の隠れ家だなどと勝手な推測をしているようですが、決
してそうではありません。あるいは平家以外の敗残武者に属しているかもしれませんが、
ともあれ 京都とは密接に結びついていることは確かです」

と、思ってもみなかった三条に伝わる物語りを聴くことができました。
新吉さんは数年前、東京で生活しているご子息に看取られて大往生なさったと
聞いております。感無量です。

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by tabilogue2 | 2015-11-21 14:51 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)

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滝谷川 小野川集落付近




本題に入る前に、仙台神室の「ダンコ平」が、最近は「だんご平」と濁って呼ばれる。
「ダンコ」より「だんご」のほうが親しみやすい、安易に「だんご」が市民権を得てし
まった。さらに ネットでどんどん間違ったまま 無制限に拡散されていく。
YMCA山岳会でも 歴史や史実に興味のない会員は「だんご」と呼ぶ。私自身も いち
いち面倒なので 相手を選んで諭すように話していた。

ネット伝播が真実味を帯びるようになると「無理が通らば道理ひっこむ」の喩えどおり
になる。民俗学的な「検証」が頭をひっこめてしまう恐れがあるのできちんと解説しよう。

秋保・馬場の古老に聞き取り調査を行なった際、「ダンコ馬」の言葉を採集したとある。
荷駄を「駄んこ」、それを運ぶ馬を「駄んこ馬」といっていたようで、仙山の峠となる
平らかな地に荷駄を一旦集めて、荷繋ぎ中継所のようにしていた(駄んこ平)というのが
「民俗学的考察」であろうか。「荷駄を駄んこと呼び、駄馬を駄んこ馬と呼んでいたこと
に依る」と口語検証が深野稔生氏によってなされている。(「神室岳」・深野稔生著)
駄んこの「んこ」は犬っこ、どじょっこ、女ごこ、野郎こ、どろんこ 語尾につけられた
愛称。いずれ「駄んこ平」が「だんご平」と変化するのは 口語伝播の陥りやすい「罠」
である。

歴史に興味を持ち、地名と歴史との相関関係を紐解いてみようという気持ちがなければ、
否、山を単に「スポーツの対象」として観ているようでは、「だんご」は「だんご」のま
まで終わる、けして「駄んこ」にはならないものだ。世の不思議さに何故?どうして?と
振り返り見る観点を持たないと、何事も深く捉えることはできない。

会津金山では ちなみに塩は十貫目俵を半分(20kg)にして大山越をしたとされる。
また 一駄は・・・牛馬の背中に「俵を2つ」着けることをいう。
数え方は 一駄、二駄、三駄・・・となる。



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ところで・・・ 三条は全12戸 全て「栗田」姓だった ということをご存知だろうか? 
何故? みな、栗田姓になったのだろうか?

これを紐解くうちに、彼らの素性が解ってゆくのだが・・・暫く三条の口伝を記述しよう。



「先生、今日は私らの今までの三条の歴史を話しすっから 聞いてってくんちぇ」と栗田
新吉さんが話を続ける・・・

「しかし どんなわけがあったのかわかりませんが・・・追われる身であったため 外部
とは一切交渉を断ち隠遁生活、自給自足を送っていたのです。ところが霧来沢の川下にお
椀が流れているのを本名の名主がみつけ、これは川上に人が住んでいるに違いないと考え、
村人を大勢連れ山越えして捜しに来たのでつい見つかってしまった」

「じつは 私たちの先祖は何百年か前、越後から移ってきたようです。それも室谷から津
川方向へ抜けようとする林道あたりを通ってこの地に落ち着いたのです。でも見つかった
以上、事情を話し内密にしてもらう外ありません。さらに今後は名主の手下となり 忠勤
を励むよう誓約しました」

「名主はいたって義侠心の強い人で「よし、わかった。これからは本家・分家の関係にあ
ることとして 匿ってやろう」となり、何の血のつながりもないのに名主の栗田家を本家
と仰ぎ 長い間、主従関係にありました」

「明治になり農民にも苗字が使用されることになり 村中の全12戸、皆一様に゛栗田゛の
姓を名乗ったのです。正月二日には毎年決まってコウゾの細い幹で作った箸一把を添えて
栗田本家に村中揃って年始に行きました」これに対して「栗田本家では正月十一日前後に
お茶をもって答礼のため来村し、一戸一戸廻って帰られました。これは太平洋戦争が終わ
るまで続きました」

「三条は全てが自給自足、江戸時代さながらの生活でしたから 和紙も漉いておりました。
ただし若干色がついた小片があちこちについた特有の紙でしたが。このコウゾは焼畑に植
え付けておりましたので、毎年新芽が出て太さも丁度よかったのです。」

「こうして 一人一人がこの手製の箸50膳(100本)ずつを 手土産として持って行
ったのですが、この意味は、、、 ”お陰さまで 毎日箸をとっております。何とか一年無
事に暮らし過ごすことができました” という隠語でした。」

「当時は高価な貴重品だったお茶を少しずつ包みに入れて土産に渡したと栗田本家では話し
ています。それにしても 大雪の年など三条への往来は容易ではなかったろうにと想像され
ます。」

新吉さんの話は いよいよ佳境に入っていきます。。。





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by tabilogue2 | 2015-11-20 16:31 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)

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只見川支流 滝谷川



御神楽岳の福島会津側の登山口 三条集落、さらに新潟側の登山口、広谷川・蝉ヶ平とい
う集落。どちらも「平家の落人」と言われてきたが、、、

いや検証もせずに・・・

「ネットで言われてるから」「皆が言ってるから」「昔から言われていたから・・・」
などと 如何にも客観性・信憑性を持たせて?どんどんと無責任な噂話が広まることに
ネット社会のいやらしい一面を感ずる。

噂が独り歩きし、「たかが噂如き」が?さも真実であるかのように?社会的地位を纏い 
もっともらしく裾野に広まってゆく無責任さに怒りを覚えるしネットの恐しさを感じる。
山の話になるのだったら 最初から 疑問は疑問として書かないこと!
仮に書くのであれば 検証を加えずにブログを更新することが主目的になる時には 
前置詞として、歴史に対する尊厳さを認め その意志を示して書きはじめるべきである。


庶民である我々は無学な故に易々と信じてしまいがちなので、「真実の口伝」を会津側の
御神楽岳登山口である霧来川・三条集落に、謂れを説いた書物や三条集落の住人に代々伝
わってきた口伝を拾って それを基に検証しようと思った次第。「金山史談」をもとに面
倒ながらも口伝を敢えて書き写して、今現時点における三条集落の起源に触れたいと思う。


三条集落が平家の落人だったといわれてきた・・・が それは本当なのだろうか? 


かくいう私も かつて霧来川に遊んで、前ヶ岳南壁やら御神楽岳の沢・岩に遊んできたわけ
だが ずうっと平家の落人集落だと思っており疑問すら抱かなかった。 最近、時間が余っ
て会津金山町の古文書研究グループ「金山史談会」の出版本を眺めているうちに 「秋田マ
タギの山言葉と里言葉」についての記載が目に留まった。

マタギは狩猟に入ると集団を組んで生活するのだが、その集団ではわざわざ「山言葉」を使
って日常の「里言葉」を忌避する習わしがあったようだ。里言葉を狩猟時に使えば 猟の出
来高に影響が出るとのことなので 吉凶を占う意味で使い分けされたという。木地師も 山
師も 山に入る時の呪術や忌み語に共通の習わしがあると うっすらと聞き及んでいた。そ
れは秋田も会津も小国も同じであった。


首巻きーとねまき  着物ー身ぐるみ  ズボンーふんごみ  かんじきーつまがけ  
川の上流ーいり  川の下流ーでと  くまーなびれ  飯椀ーおおかせ  飯鍋ーおおくま  
汁椀ーこかせ  血ーなじ  獲物を捕ったーさじのった  鉈ーこたたき  小刀ーえむし  
動物の足跡ーはみ  食事するーはむ  戻るーさしかえす  火を焚けーさしぶをたてろ  
出かけるーさしむかう  天気が変わるーなぞら変わる  なだれーひめころぶ


さて、三条集落の成立期は近世の中期だろうともいわれ 山野跋渉していた「マタギ」が里
に定着したのであろうともいわれている。

「世間では三条は平家の落人の隠れ家だなどと勝手な推測をしているようですが、決してそ
うではありません。あるいは平家以外の敗残武者に属しているかもしれませんが、ともあれ
京都とは密接に結びついているのは確かです。」 

こう語るのは 以前に三条集落に住んでいた「栗田新吉」さん。当時、営林署の小屋番をし
ていた。三条の自宅から離れての小屋番住まい。

聞き取りは「広報かねやま」に歴史や民俗を書き記していらした故・加藤文弥先生。 次号
に加藤さんの記述を記していきたいと思う。三条は以前から外来の人たちの興味本位で、未
開な面があって面白いなどと野次馬根性で訪れる人が多かったので つい部落の人は口を閉
ざすようになった、ともいわれ ますます神秘性が高まっていたわけでしたが 事実は「そ
うではない」ということらしい。 


次は 平家の落ち武者か?について、「金山史談会」の出版本を詳しく調べていきたいと思う。

「金山史談」六号 ”三條の史的民族学的考察” 加藤文弥 著




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by tabilogue2 | 2015-11-20 12:35 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)