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6月です

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なんだか 季節の移ろいかたが 早すぎますね 
もう今年の「折返し月」ですから、、、
もうっ?! です。

どっかの誰かに 早く死ねっ!って 
せっつかれてるみたい(笑)

冬山訓練して 春山訓練して 陽気を感じたな…と思ったら 
沢登りの季節(´艸`)

夏の太陽がグワッと迫る

 
真夏日に・・・
「日帰り」で山には登りたくないし 死ぬわ

二泊三日の旅、、、 
そろそろ 計画しなくちゃならないな

どこにいきます? 山ですか? 海ですか? 川ですか? 
海なら 暇にまかせて 小笠原

山なら どこに行きましょうか? 夏山は・・・
僕は 特にないです(笑)

行きたい いや 行くなら「沢」でしょうね 
春川・虎毛沢!

おっと その前に 沢で初級訓練があったなぁw

健康なうちですから。 沢は。









by tabilogue2 | 2019-06-01 11:18 | アラカルト | Trackback | Comments(2)

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震災に遭った旧野蒜駅 
赤錆びた鉄路はフェンスで遮られ この先100mほど延伸して絶えている
記念式典の慰霊祭・皇后陛下の詩が石碑に彫られ その除幕式が行われた


昨日も今日も好天で・・・山好きな人はたいがい?山に向かったんだろうなぁ。でも今日は、震災に関わりを持った人たちとともに・・・そんな自分でありたい。この被災した野蒜(のびる)駅に立てばいつも思い出すことだろう、2011年3月11日の現実とそれから一年ほどの支援活動の日々を。 たぶんそれが、云ってみれば「還暦の身に付加された一行の履歴」なんだろう。

「今日という日」を意識しだしたのはちょうど一月前ぐらいか?「今日という日」が意識の内にはあったけれど、具体的にどうする?というわけでもなく「山通い」で過ごしてきた。昨日、今日と・・・夢見が悪く落ち着かなくなり、「これは・・・一体?」と案じ ようやく現地に赴いた。晴れ予報が出ていた週末二日間、山に向かわず被災地に赴いて不思議な?はやる心を落ち着かせることができた。この日、野蒜に行けてよかったなと秘かに安堵している。先に、やることやらんと…ダメね。

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震災当時 7日経過
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上の写真の今、ガソリンスタンドの看板はなく 仙石線の線路も取り払われている

あの日から8年が経過した。人々の表情から「非常さ」「過酷さ」「つらさ」が消え 心のどこかに潜んでいた「恨み」が昇華し 街の様子も、暮らしも、姿も変わった。8年も経過すると 忘れられつつある「3.11という日」がさらに「昨年よりも小さく限られ、狭くなった輪の中にある」感がする。寒かった 逃げまどった 連絡が取れず孤独になった あの8年前の「3.11」、雪が舞う日だったことを思い出しながら…もう8年が経つ現地をこの目で確り見てきた。避難者は8年後の現在も25000人ほど。終の棲家を失いながらも日々を過ごされている。ほとんどが福島県の方たちだ。 

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メモリアルとして遺された 野蒜駅

震災直後に「旧車愛好家」仲間を誘って「イッズミー」(泉ヶ岳ミーティング)にて支援を呼びかけた。応援物資 生鮮食品の調達 配布手段などほぼ毎日 気ぜわしく動きまわっていた。嘱託サラリーマンの身なので時間が限られてはいたが、休日は居ても立ってもいられず、毎週休日返上で動き回っていた。冷凍食品や雑貨類は充足されていたが、被災者にとって生鮮食品は思うように手に入れることができなかった そんな状況だった。

伝手をたどって全国から生鮮品を集め、送っていただいた生鮮食料品を避難所ごとに段ボールに小分けして、毎月2回東松島の3ヶ所の避難所へ出かけて配布活動を手がけた。思い出されるのは 冷蔵庫のない避難所で生鮮物をどのように配布するか???これが問題で、さらに後半になって仮設住宅ができてくると 転居し新住所表示に変わり、そのうえ皆さんが働き始めていて、夜になっての配送と受け渡しになった。それでまあ「鮮度」という、そればかりで頭を痛めていたよな一年だったかな。

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イッズミーにて集められる生鮮品と一般食料品
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小野の公民館 被災者の皆さんへ衣料品の供給 

「衣替え」の季節になると イッズミーの仲間に「T シャツ200枚あつめよう」というスローガンを打ち立てて生活衣料品を集め、一般衣料品と女性のアンダー衣類は横浜の下着メーカーさんから直で頂いて、それを小野町公民館 野蒜 亘理中学校などの避難所で配布供給もしてきた。

荷受け所となった我家には横浜のメーカーさんから 凄く大きい衣料品段ボールが4個も送られてきた。中にはミッシリと衣料品が数千点入っていて それらを一週間ほど毎晩、時間をかけ男性/女性/子供/幼児/サイズ別に小さい段ボールに小分けして、それを終えるとつぎに配布の日取りを避難所事務方と直に打ち合わせて・・・当日を迎えるわけです。

公民館ホール・中学校体育館にフルで品物が並べられて、、、仕事を終えて避難所に帰ってくる皆さん方に合わせ、夕刻から夕食前の2時間、さらに夕食を終えたあとの2時間が頒布会でした。その日が終わって片付けて帰宅は深夜、、、感慨があとからジワッとくるんですが まあwなんとも。

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呼びかけで集められた Tシャツ

電気がようやく「気にせずに使える」ようになった頃、暑くて 臭くて 蝿がブンブン飛び回る被災地の午後、、、避難所で殺虫剤をシューとするにも気が引ける、遠慮がちになるので、、、人畜無害な「ハイトリガミ」を岡山の「カモイ加工紙㈱」さんから大量に頂いてハエの多い石巻などの避難所に、東松島のボランティアセンターに配り歩いた。けっこう息抜きもせず働いたつもりだったけど でも一人じゃぁそれは微弱でしかなかった。しかるにw 数百人というイッズミーに集う仲間が居たからこそ「できたこと」だと一人納得。

毎月第2日曜日 泉ヶ岳駐車場に趣味の車、旧車などが200台ほど集まるのですが、、、じつは8年前の支援活動の賛同者たちでもあるわけです。よく駐車場で登山者らに、「他でやりなよ」「邪魔だ」とかって 聞こえよがしに言われ、白い目で見られがちでしたけどw、「お邪魔むし」なんかじゃありませんよw もう16年も続けている、れっきとした「集まり」ですよ。登山趣味の皆さんこそ ヨロシクね。

物資調達と配布活動、義援金の集約、、、如何に実践するか?毎月2回の集荷・配送・・・支援活動の内容はこれだけだったが 実はこまごま悩んじゃったのね。それでも半年が過ぎて7月ごろ、、、仮設住宅ができて、避難所が解散して、皆さん新たな住居に入居されるようになったわけ。その最後の入居者が たまたま世話役さんだったオガタさん。その彼から「感謝」のハガキを戴いて ようやく「イッズミー」の東松島地区での支援活動を終えることができたわけでした。定林寺避難所の世話役さん、ミヤザワさんからもメールが届いた、、、「再起」の手紙を受け取るようになったのはその一月あとぐらいだったろうか? 他の地域はまだまだ「仮設転居」まで行きつかない中で東松島地区はおおむね早い方だった。

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小野の支援センターの手配所 ここで支援先に人員配置が決められ指図される
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小野の支援センター敷地にできた支援者たちのテント村
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野蒜駅裏のSさん宅が支援物資中継・配布所となった


恥ずかしながら、野蒜駅が新駅舎となり新居住区とともに生まれ変わったことをようやく知った。旧野蒜駅は「震災復興伝承館」に姿を変え、新野蒜駅が山間に開かれていた。駅舎移転の際には旧住民たちの反対運動があったことも当時から知っていた。旧居住区の住民と新居住区の住民と二手に分かれてしまったけれど いずれ縁を頼って生きなくてはならないのだが、、、どちらにしても心労の尽きないこと。被災した野蒜小学校もメモリアルな民泊カフェに変わり、当時避難所になったお寺さん「定林寺」もそのままにあって、新しい統合小学校が定林寺向かいの山裾にポツンと孤立してるように在ったりもした。

PTSDが懸念される中、変化したもの&当時そのままなものが混交し どちらも目に入る中での生活を余儀なくされ今日までこられたことに何というか 苦渋というか 同情を抱いてきた。

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当時の定林寺 ツツジが見事だった
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現在の野蒜駅

今後ますます「風化」が進み 8年前の状況も「思い出すのが困難に」なろうかと思われる懸念があって、その懸念を払うのにオリンピックばかりが着目され、それに注力される政治。はたして国難打開と危機回避策がオリパラばかりではあるまいし そしてまたそんな政治的貧困による「すり替え」であってはならないとも思うのだが。何ぶん「隣近所のよしみ」で生きていかなくちゃならないのに、「それを見ても見ぬふり」など到底できないのが人間なので、、、少しだけでも「メモリアル10」に向けて「形だけの復興」を見直す姿勢が(政治ばかりではなく)我々一人一人の心の中に灯し続けられるように・・・と 祈るばかり。

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大高森に 登ってきた・・・ 標高100mだったかな?



いまは何にもしていない。

これでいいのか? と思いつつも 山や 車や 料理に興じている日々
8年前 仲間と懸命に動き回っていただなんて すでに はるか彼方のこと
でもそれが 社会の一助になったとあれば、それでいい もう言うことはない
仲間や自分を動かした「小さな正義感」さえ心にあれば、それでいいんだ



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by tabilogue2 | 2019-03-10 22:36 | 3.11 | Trackback | Comments(0)

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八十里越、、、明治維新150年ともあいまって今は歩く者も多くなり、また只見側の国道建設も進んでいるようで ブームとは無縁の者にとって歩く由縁もなくなったほどの変わり様だ。以前、25年ほど昔に歩いた当時は入会権のある農家がピケ線を張っていて、建設中の砂利敷国道でさえ走ることができなかった。そのワケは他所者が入ると山が荒らされるという単純な利害意識なのだが 部外者である登山者もその枠にはめられていた。中には、登山者の気持ちを察する農家もあって、朝夕に人目を忍んで特別に施錠を外してくれたものだ。観光化が進まぬうちに、手付かずの古道の雰囲気を新潟下田側の八十里越に求め、深まった秋にでも歩いてこようかとも思う。

もうひとつ、「間道」としての「 裏 」八十里越がある。それは只見からの道をさらに北進し蒲生から入る。異様な姿の蒲生岳を右に見て真名川(まながわ)に沿って進み、いよいよ細々とした幽かな踏跡の山道となる。笠ノ沢から左に折れその沢沿いを赤崩峠まで登り、ゼンマイ小屋の掛かる赤崩台地まで降り進んで、その先 新山(しんやま)峠・蕗平(ここまでは分かるのだが、ここからの登り口が解らない)・続くは五兵衛小屋・日本平・川胡桃沢・大江となっていたようだ。
私は赤崩台地から赤崩沢を中ノ又山に詰め粟ヶ岳 青里岳 矢筈岳を眺めたが、隣の五兵衛小屋へは辿れていない。周囲は低灌木で、採掘した鉱石を焼いて粗鋼を採った後に赤紫色に焼けたボタ(ズリ)が其方此方に小さくまとめられ打ち捨てられていた。金山町の「金山史談会」古文書によれば黄銅 錫 金 銀 鉛などが採れていたようだ。一説では赤崩-中ノ又-五兵衛小屋は稜線上で繋がっていたとされる。元々それが本筋だったらしい。明治期の鉱山開発で新ルートが開かれ、それで新山峠のルートになったようだ。


いっぽう所属した仙台YMCA山岳会が桑原岳 栃ヶ森 大胡桃 小胡桃いわゆる桑原山塊の沢を歩いてから既に20数年が経っている。たとえば時代の様変わりとして、前沢・石渕の仙北街道東端 下嵐江(オロセ)に建てられたどでかい黒御影の墓石のような標石、「いったいこれは何だ?」と思ったものだ。それが古道の「象徴となしたるや如何なものか?」、古(いにしえ)の径が地方の商工課の手によって、いや、黒御影の石碑によって一方的に「観光化」されてしまった。「その土地の古道を見る目、古の価値を識る見識」がその程度でしか無かったという証しであり、恥辱の碑(いしぶみ)。この径を越えてきた者に、この碑を見て長かった峠路を回顧してくれと言えたものではない。 
古代から続く径を一日で踏破する「古道ブーム」の世の中だから 全てがすべて形ばかりの「古道歩き」になってしまって、古道を巡る情念とか、昔人への思いとか、誰がどんな思いで「峠」を越えたのだろうか?とか、想い巡らす人も居ないのだろう。その結果が「墓石」なのか? 峠道 古道 かつての径 消え去った歴史の道・・・に想いが通わないではないか。興覚めだった、、、地元とあろうものが、自分の首を自分で締めるオチにはいささかまいった。

もし、今 いにしえの径を行くとして、、、秋田・仙北街道のように「叢を掻き分けることもなく 草刈りされた綺麗な道形が刈り開かれている」ようであるならば、私の想いは裏切られたものになるのかもしれない。まあそれも「古道ブーム」という”時の悪戯”なので…仕方がないことではあるのだが。羽後岐古道も、仙北街道も、八十里越も、裏八十里も、沼田街道も、栗子万世大路も、、自分が歩いた当時は大藪 小籔 叢の杣道だった とだけは付記しておこう。それも僅か25年ほど前、今の登山ブームが始まる前のことだ。


この歳だから…これらの峠を再び歩くことは もうないと思われる。こんにち再び峠を往く価値とは一体何だろう?と考えると この世に「生きた証し」としてなら?再び歩く価値は充分にあるはず、息子、娘と行くならその価値もあがる。「これが 親父の歩いてきた山だ、沢だ」ということになるのだろうか。20数年ぶり?”老いた「会越」(あいえつ)”に火がついたが、これも”懐古趣味”という大枠の中なのだろう。自分でも何故なのか? その答えがわからないでいる(笑)。だが、通い終えて20数年が経ったと思うと 妙に不思議な懐かしさが遺る。若い時分に遠く仙台から通ったわけだが、それまでして「いったい何が「会越」へと心を焚きつけたのだろう?」、じつに!「会越」の魅力とは!?・・・と 何度も何度も「深淵の渕」に立って考えてみた。その答えを求むれば求むるほど 掴もうとすればするほど 答えは遠く、深く、奥まっていく、、、だから なお不思議なのだ。 再び 只見に訪ね行って「答え」を考えねばなるまい。 

でも そんなもんなのだろう。沢登りや冬山、雪山歩きは「生業じゃない」ということだろうし、「一趣味にしか過ぎない」ということでもあるからだ。つまり「会越」の深みにハマったのは山や谷や沢がもたらしてくれた20数年という「成り行き」、それらの「結果」、「そうなってしまった」というだけのこと、突き詰めてもしょうもない。 沢や雪山が面白かったから50年も「山」を続けられてきたということ 時に 会津の奥行きがこんなに在ろうとは…その時には気づかなかっただけだ。 が?、少なくとも言えることは、、、「情念」や「興味」を抱かない限り、20数年もの時を費やし「会越」を追い続けられるものでもない、、、ということだ。それだけは唯一、解っているつもりだ。


 

2.「中津山の侍たちと北越戦争」へ続く


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戊辰戦争150年 宮城・中津山の侍たち ”北越戦争” 阿部和夫 著  三陸河北新報社













by tabilogue2 | 2018-11-01 11:12 | 八十里越・下田 | Trackback | Comments(0)

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浦和浪漫の面々(赤崩にて)。。。 見てのとおり小綺麗な男子は一人もいないw、「ザ・沢ヤ」専門集団。奥利根を渉り歩く猛者ばかり集まっている・・・といえば嘘になるか?…じつはその真反対、一人ひとりは とても繊細で、恥を充分に弁えており、自己アピールを特にせず謙虚、にこやかだが、己の殻にこもるのを得意とする面々だった。だが一旦 組織の力をまとめ上げれば、どんな険しい奥利根の沢でも越えて集う、「ジッピ」の険谷に入り縦横に踏査し続ける、会を愛する「帰属意識」の高い連中だった。今は解散しており会名称は誰も使えない。高桑さんだけが「ろうまん山房」を名乗ってマスコミ業界の端っこで過去を肥やしに著作活動しているけれど?傍から見れば、おかしな話にも見える。 なんせ山岳会が為した偉業を崇める人は全国で数多だったから。その多くは「解散したのは何故?」と尋ねるが、、、すべては闇の中。 ”すったもんだ”は世の常というところか? 現在、旧会員たちは新たな山岳会を立ち上げ活動している。




せんだって 谷川岳の帰りに秋・黄葉の山を下見しながら「六十里越」を通って会津若松に抜けた。

入広瀬の村から眺める山は 昔々に歩いたお山が居並ぶ。ホント懐かしい。国道252号線から見える山は 横山、猿倉、前毛猛、毛猛、百字、太郎助、浅草、中ノ又、蒲生、大峠、御神楽、、、残念ながら会津朝日、城郭朝日、丸山、村杉、守門はその奥に据えており国道からは見えない。

もともと村杉(半島)を巡るというのは 只見から田子倉の集落、銀山平、日暮平、大津岐へと陸路による往来道があったからだが、ダム完成(1960年)以前からここの水利権はここで暮らしていた田子倉集落の人たち(50戸 290名)の生活権でもあったわけだ。また当時の記録(昭和29年南会津山の会)には大鳥下流に「カゴ渡し」が記録されており、ダム完成以前の只見川がいかに深い谷であったかが推察される。そんな奥まったところにも開墾の出戸小屋があったそうだ。すべからく埋もれてしまった。その生活補償問題で大いに揺れたということだが 曽野綾子『無名碑』、城山三郎『黄金峡』に当時の補償交渉(田子倉ダム補償事件)やダム建設に絡む人間模様が描かれている。


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只見川のカゴ渡し(昭和29年)「いろりばた 59号」より



六十里峠を越えてトンネルを抜け田子倉ダムサイト駐車場に車を止めた。20数年前、ここから小舟をチャーターし向かいの村杉半島に渡った場所だ。かつて歩いた尖った山並みが続く。表正面には村杉半島の先端がもう少し右手に見えるはず。半島には白沢と岡沢の中間に突き出た岬があるがそこに船を横づけして(下の画像)、いよいよ半島に取り付いたものだ。稜線で待ち受ける大藪はこの世の終わりかと「悲壮感」で登った、漆の木ほどの潅木の嵐だった(´艸`) 送電線下を抜け、横山、猿倉山を目指した。氷と雪壁と密藪と険谷と、、、目を瞑れば一筋となって思い出される無名な山たち。

ちなみにマタギたちは猿をベイと読んだらしい なので「猿倉山」の読みは「ベイクラヤマ」が正しい



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「六十里越」の話に続き、「八十里越」の話に変わる。入広瀬から来ると只見の駅前で黒谷宿場への道を右に分け、まっすぐ只見の街中を過ぎ叶津へ向かう。その集落を左折し浅草岳への登山口である入叶津から 司馬遼太郎の長編時代小説「峠」に記された八十里の峠道が始まる。(旧)八十里越は、山神杉(さんじんすぎ)を通り、小三本・大三本沢・木ノ根峠・田代平・鞍掛峠・ブナ沢・番屋乗越・吉ヶ平となっているがまさに大三本・小三本を渡っている。天保時代に造られた石積みの路肩も平石山に確認されている。いま現在は建設中の国道289号線、そのアスファルト道の途中 大麻平(おおまだいら)からの(新)八十里越だが難度がかなり違っている。さらには「天保旧道」と「明治新道」の間に、遅沢左岸に「化け物谷地」のある「明治中道」とされる道もあって国道沿いに石碑が建っている。長岡藩の敗走には「天保旧道」が使われた。

新潟側下田(しただ)・三条と会津側を結ぶ道は律令時代から既に交易で存在していたわけだが(たとえば霧来川の三条集落の形成のように)、たまたま北越戦争時に 落城とともにそれを伝って継之助が落ち延びた。目下、「明治維新150年」企画で「逃避行」「敗走」が話題にはなっているが、”河井継之助の存在があって八十里の峠路がある”と考えたか?小説のように…官軍に追われる長岡藩士1200名(総勢5000名 子女・家人も含む)さながらこの峠路の悲話を追い求めるファンが後を断たないそうだ。その点からしても 主客を「逆さま」にして峠路を想う方もおられるのだろう。そこで、まずは「人々の往来 生活 交易のために道は開かれた」ということ。それがすべての道の基本だということ。それを時の権力者たちが利用したということ、、、事実はそれだけのことなのだが。。。全国各地で古道復活・温故知新などを旗印に「武士階級や上位者の立場」で物事を観るばかりで 今の古道ブームには当時の「生活者」の立場、観点が備わらないのはドウ?かと思う。

たとえば、暮らしにとって重要な「塩」であるが、江戸時代の初めまで会津地方の「塩」は小名浜一帯と相馬から仙台にかけての浜から採れた東入り塩が中心だった。その後、大阪から日本海を通る西廻り船で播州や尾道で採れた良質な塩が新潟に陸揚げされた。それが西入り塩である。あまり聞かされていない話だが、幕末に京都守護職になった会津の殿様:松平容保が幕府から領地を加増された際に、特に「新潟の一部」を容保は希望したといわれる。瀬戸内からの「西入り塩」を安く安定的に手に入れようとしたわけだ。文政三年(1820年)、御蔵入地:今の高田町以西、只見川以南の地方に7000俵の塩が運ばれたという。新潟港より阿賀野川をさかのぼって津川町で陸揚げされ、津川から野沢や西方へ駄馬で運ばれた。瀬戸内の塩は十四貫入り(52.5キロ)の荷姿だったので、津川での陸揚げの際に坂下の叺(かます)と縄で 米同様に一俵60キロに荷造りを仕直して運んだそうだ。奥会津に入る「西入り塩」は 1新潟-津川-野沢-西方-御蔵入(主として金山谷) 2新潟-津川-八十里越-奥会津-伊北 3新潟-津川-柴倉-柴倉峠-宮崎(大山越) 4塩沢でとれる地塩 だいたい以上のルートで 御蔵入地に用立てた。 この「塩」の記録が示すように ここは厳然と古来からの「塩の道」なのである。なかには時代錯誤した「明治」「権力の復古」を標榜する諸輩もおられるので 私との立場の違いを明確に記しておきたい。あくまで「歴史は歴史のまま」、この考えが基本。権力を美化する「歴史修正主義」に陥ってはならないし、それこそ会津藩「什(じゅう)」の教え「ならぬことはならぬものです」を学ぶべきと思うが。。。

話が大きく逸れてしまった。もうひとつ、「間道」としての「 裏 」八十里越がある。それは只見からの道をさらに北進し蒲生から入る。異様な姿の蒲生岳を右に見て真名川に沿って進み、いよいよ細々とした幽かな踏跡の山道となる。笠ノ沢から左に折れてその沢沿いを赤崩峠まで登り、ゼンマイ小屋の掛かる赤崩台地まで降り進んで、、、その先 新山(しんやま)峠・ふき平(ここまでは分かるのだが、ここからの登り口が解らない。高桑さんだけが知っていたが当時は踏破していない)・五兵衛小屋・日本平・川胡桃沢・大江となっていたようだ。私は赤崩台地から赤崩沢ー五枚沢を中ノ又山に詰めて 粟ヶ岳 青里岳 矢筈岳を眺めたことがあるが 隣の五兵衛小屋へは登っていない。周囲は低灌木で、採掘した鉱石を焼いて粗鋼を採った赤紫色に焼けたボタ(ズリ)が其方此方に打ち捨てられていた。金山町の金山史談会所蔵の古文書記録によれば 黄銅 錫 金 銀 鉛などが採れていたようだ(鉛鉱は隣村の金石ヶ鳥谷山でも採れたようだ)。赤崩-中ノ又-五兵衛小屋は稜線上で繋がっていたとされる。というか 元々それが「裏八十里」の本筋だったらしい。明治期の鉱山開拓で新ルートが開かれ新山峠のルートになったようだ。




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未丈ヶ岳-大鳥岳-銀山平奥只見国際スキー場の山行後の一服



叶津川、蒲生川、塩沢川、滝沢、霧来川、風来沢、、、かつて浦和浪漫や郡山労山と行動を共にし、YMCA在籍時に仲間ともよく通い手慣れた山域になっていた。凍った雪に削られ、ビンビンに尖ってる峰が続く。なかでも 守門岳隣りの烏帽子岳などは地元・下田の言葉で「ツンネ」と呼ばれているが、ドイツ語の「チンネ」と似る。これは尖塔・岩塔を意味するが、近代登山史の黎明が地方の言葉を変遷させた一例であろうか。



2019.06.26 「ツンネ」についての補正いたします 
「ツンネ」とは下田の用語で「津根」のこと 地元ではさらに訛って「づんね」と発音しています。
「づんね」とは「稜線」をさした言葉のようです。訂正します。冊子「吉ヶ平物語」に説明がありました。
滝の脇づんね 椿づんね 関屋づんね 小松づんね 風穴づんね 中峰づんね など



アバランチシュートのスラブ群や細尾根の岩山ばかりだが 眺むれば眺むるほどホッとするものがある。会越山脈、私は親しみを持って「アイエツ」と呼ぶことができる。これが所謂「情念」というものだろう。心に情念を宿さず山を登るなんてこと自体「無味乾燥」で「脱けガラ」を意味するし、山に対する礼を失している。「ヤッタ」「登った」と「脱けガラ」を数百も並べて数えるのはまことに無意味と思えるし「大人のすることじゃない」。むしろ冷静になって山に対する「造詣のなさ」「タメの無さ」を嘆く自分でありたいものだ。

ちなみに余談だが・・・ 会越か、岩越か?と「南会津山の会」でも論争の緒wが(いろりばた69号 川崎精雄 昭和63年発行)ゆかしく紹介されていた。いわく 会津という国はもともとなく、会津という名は地方名、もとは岩代国という旧国名であると。なので国境というのであれば岩越ガンエツ国境と呼ぶべき ということらしい。確かに 野州と岩代を結ぶ鉄道を野岩鉄道としているが、登山体系でのアイエツがやがて市民権を得たのだろう。

八十里越、、、明治維新150年ともあいまって今は歩く者も多くなり、また只見側の国道建設も進んでいるようで ブームとは無縁の私のような者にとって歩く由縁もなくなったほどの変わり様だ。歩いた当時は入会権のある農家が自主規制、ピケ線を張っていて建設中の砂利敷国道でさえ走ることができなかった。そのワケは、他所者が入ると山が荒らされるという単純な利害意識なのだが 部外者である登山者もその枠にはめられていた。中にはそんな規制された登山者の気持ちを察する農家もあって 朝夕に人目を忍んで特別に施錠を外してくれたものだが・・・逆に 現在の観光化が進まぬうちに?手付かずの古道の雰囲気を新潟下田側の八十里越に求め 深まった秋にでも歩いてこようかとも思う。


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守門 浅草を背景に 朝の定時交信をとる 田中パーティはまだ三ツ岩あたり。。。



だが、、、もし 20年たった今に いにしえの径を行くとして、、、

秋田・仙北街道のように「叢を掻き分けることもなく 草刈りされた綺麗な道形が刈り開かれている」ようであるならば、想いは裏切られたのかもしれない。まあそれも「古道ブーム」という”時の悪戯”なので…仕方がないことではあるのだが。羽後岐古道も、仙北街道も、八十里越も、裏八十里も、沼田街道も、、、自分が歩いた当時は大藪 小籔 叢の杣道だったとだけは付記しよう。それも僅か20数年前のことだ。

所属山岳会が桑原岳 栃ヶ森 大胡桃 小胡桃 いわゆる桑原山塊の沢を歩いてから既に20数年が経っている、、、たとえば時代の様変わりの例として、前沢・仙北街道東端下嵐江(オロセ)に建てられた、どでかい黒御影の墓石のような標石、、、いったいこれは何?と思ったものだ。それが古道の「象徴」となしたるや如何なものか? いにしえの径が地方の商工課の手によって一方的に「観光化」されてしまった。「その土地の古道を見る目、古(いにしえ)の価値を識る目」がその程度でしか無かった という証しであり、恥辱の碑み。この径を越えてきた者に この碑を見て、長かった峠路を回顧してください なんて言えたものではない。 

古代から続く径を たった一日で踏破する「古道ブーム」の世の中だから 全てがすべて、形ばかりの「古道歩き」になってしまって、、、古道を巡る情念とか、昔人への思いとか、誰がどんな思いで「峠」を越えたのだろうか?と想い巡らす人も居ないのだろう。観光課 商工課にすれば所詮は上辺仕事、、、予算が立てば、その消費にしか身が入らぬものだ。その結果が「墓石」なのか? 峠道 古道 かつての径 消え去った歴史の道に想いが通わないではないか。その結果には興覚めだった、、、地元とあろうものが、自分の首を自分で締めるオチにはいささか まいった。


この歳だからこれらの峠を再び歩くことは…もうないと思われる。こんにち再び 峠を往く価値とは一体何だろう?と考えると この世に「生きた証し」としてなら再び歩く価値は充分にあるはず、息子、娘と行くならその価値もあがる、これが親父の歩いた山道、沢だ ということになるのだろうか。20数年ぶり?”老いたアイエツ”に火がついた、これも”懐古趣味”という大枠の中なんだろうけれど 自分でも答えがわからないでいる。だが 通い終えて20数年が経ったと思うと 妙に不思議な懐かしさだけが遺るのは確かだ。若い時分、遠く仙台から通ったわけだが、それまでして「いったい何が?会越へと心を焚きつけたのだろう?」、、、じつに会越の魅力とは? 何度も何度も「深淵の渕」に立って考えてみた・・・。

その答えを求めれば求めるほど 掴もうとすればするほど 答えは深く、遠く、奥まっていく、、、だから なお不思議だ。 おそらく まあ でも そんなもんなのだろう。だってもくそも、沢登り 山歩きは僕らの「生業じゃない」ということだろうし、たかだか個人の「趣味にしか過ぎない」ということでもあるからだが。つまり 深みにハマるのはその「成り行き」、それらの結果、だから「そうなってしまった」というだけのこと、突き詰めてもしょうもない。その必要もないが(笑)ただ、少なくとも言えるのは「情念」を抱かない限り20年もの時を費やし追い続けられるものでもない、、、それだけは唯一、解っているつもりだ。 

次の山旅にでて自分で納得さえできれば、、、かつて高桑さんたちも一宿一飯の世話になったという越後長野温泉「嵐渓荘」で豪勢な酒宴を開くつもりだw。



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「帯広わらじの会」に所属していた知沙子さん 入会一年で既に「山の気」を感じ取っていたらしい 感性が素晴らしい女性だった
そんな彼女のもっていた感覚的なものを 現役の登山者にはこの本を手にとって 朧気にもちょっとずつ掴んでもらえばいいかな。。。



「みんなちさこの思うがままさ」 

池田知沙子さんが亡くなって20年が経つ? 私より数えで3こ歳上なのに…50歳のままだなんてズルイ(笑) 最後に会ったのは・・・? たぶん春合宿3日目の朝、トランシーバ交信が最後だったのかな?。。。「風邪ぐらいなんだ!?」「体調が悪いって?そんなの 酒呑みゃ治るっ!」とか、ご託宣だったw お酒ならウワバミ級?そんな彼女からのオシカリ、自分たちが歩いた背後にルートができるという只見の山中での電波のヤリトリだったが、、、ご自分だってバテてるはずなのに叱咤して頂き、それが実に池田さんらしくてありがたかった。

20年が経った・・・ということは 彼女が浦和浪漫に在籍した年数とほぼ同じ年月が流れた ということ。今でも 彼女のクシャクシャしてる笑い顔を思い出す。おまけに あのクリクリの瞳で見つめられちゃうとヤンチャ坊主は直ぐにおとなしくなったもんさ。すてきな女性だったなぁ 二度と現れ出ないだろうなぁ。



吉ヶ平-椿尾根-番屋乗越-ブナ沢-空堀小屋跡-殿様清水-鞍掛峠-田代平-木ノ根峠、もぅ一度歩こう。紀行を書き記すうちに どんどん記憶の扉が開いてまるで昨日のことのようにw 「追記の嵐」にあってしまった。 同様の追記は今後、下田八十里越を歩いてからにしようと想う。きりがナイ。















by tabilogue2 | 2018-08-26 20:36 | 会津・越後 | Trackback | Comments(2)

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>ばやん老人さん  どれがこの主題の尾根か見当がつきますか?



かつて、僕らオヤジ世代が若い時分に この鬼首高原に追い求めてきたものといえば? それは…「冬の禿(はげかむろ)のリッジ」 でした。


「冬の禿」に向かう この言葉の意味するもの

ヤマレコ ヤマップ FB ブログ…の若者たちは いっけん自慢気に? 写真の見映えよく 楽しそうに みんな笑って写っていたりしますが・・・昔はオチャラケを言う?チャライ?奴ってのは避けられたと云うか?いなかったですw ほんとか?(笑)宴席では極端に豪快だけどじつはストイックな青年だったり、心優しい山男だったりで、でも反面 無口で、自己中で、没個的に山の文学本に耽る、とっつきにくい?といった、周囲はそれらに窮屈感を覚えるほどでもありましたw 福島の会でも仙台の会でもみな一様に組織の力で腕前を磨くものばかりでした。山岳会だから…当然といえば当然ですけど(´艸`)

経験もなく、知識もなく、技術もないものは 先輩の行為を実践中に覚え込む。何故?どうして?などの理屈・裏付けは 後から自分で学んでついてくるもの としました。現在なら 山や冬山の経験のないものが突拍子もない事を自由に発言できるし ネットにワイワイ載せることもできます。知識が間違ったままでも 確かめもせずとも 公然とブログに書くことができますが… 最近の話題では人気バンド・RADWIMPSの「HINOMARU」のなかの「御国の御霊」という歌詞。日本人のアレル源、障る言葉が歌詞として並びます。「HINOMARU」は軍歌だ!とネットで批判されていますが 当の本人・作詞者の「時代性」を理解する心の欠如による歌詞選択という一般的な常識とのギャップ/乖離が物議を醸しました。歴史や政治に無関心である風潮が生んだ「言葉選び」、、、一つの典型ですね。

その昔、「恥はかきすて」…というようなことは山の世界にはありませんでした。 経験年数や入った山域、所属山岳会の名前、沢か岩か雪山か尾根か?の志向を聞いただけで…技術レベルが判断された時代です。 見栄を張ったり嘘をついても 実際に岩に向かえば?、スキーで数歩 歩いただけで技術レベルはすぐに分かりますから、経験のないものへは無視またはスルーで対処すれば終わっていました。経験ないから「しょうがない」てね。 昔は「恥」をわきまえていたんで 未経験者ましてや初心者は静かにしていたものです。周囲も相手にしてませんでしたし…。ネットのような増幅装置もなかったし ネットに隠れて物を言うこともなかった。

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休憩中に オカリナを奏でるCさん


で、、、経験がないからこそ山岳会の門戸を叩き、岩場からヤマメシ調理、人生訓に至るまで色々と学びました。手ほどきを受けたわけです。伝授・伝承・手ほどき、、、こういうインシュレーター機能(中間機能)があることは山岳会という組織のメリットです。いきなり小学生に大人の背広を着ろ とは言いませんのでレベルに合わせ段々と、でも徹底して覚えさせたものです。当時は周囲に余計なものがないので散漫にならずにただそれだけを「ヤル」ことで どんどん身につきました。

技術とノウハウ、対処とセオリーの紐付け、判断と伝承などの手段が組織にはありますが、ネットにはこの重要な機能はないでしょう。動画などで積極的に補う努力はされているようですけど。ネットを見れば「答え」は即座にわかりますがどのような状態でその知識「答え」を使えばいいのか?その紐つけ…がよくわからない。だから、経験がないから「しょうがない」と済まそうとしても、周囲のネット民は済ませてくれません。逆に「無知」を増幅されて拡散・炎上するのがオチでしょう。

そうそうには滅多に来れない冬の禿… その登り方を僕らの世代は若い頃に必死で見て聞いて覚えたわけです。腕を磨き 知識を豊かに保持し 謙虚に 出しゃばらず 山岳界の先輩に教えを乞い… ピンチになっても最良の回避策を打ち立てて全員が安全に帰投できるまでに 地道に手ほどきで鍛えられたわけです。ネットの人気者のように ポっと出のリーダーなんて現実にはいません。経験に裏打ちされたリーダー会員を山岳会は冬の禿という「実践の場」で重ね 育て上げてきたわけです。

「実践の場」、その一つが冬山。ハウツーを越えた「総合力」を確かめられるところといえば「厳冬期の岩場」となります。(高校の山岳部程度ではやりません) 一歩踏み込むと足元からバスッと、鈍い音とともに亀裂が入って雪が切れ、畳数枚分の横幅でゴッソリと雪が弱層面を滑り出し、谷へ落ちていく…これは実際 焦りますよホントw 岩と雪のミックス、雪面のわずか数センチの踏み代に命運を託すわけです。その状況をこの眼とこの体で学んできました。斜面の雪がデリケートに引き合って静止する「細く長い稜線や尾根」をリッジといいますが 裏を返せば… 刺激があれば即ぐ崩れる不安定個所でもあるわけで慎重に雪の下層部を読みとります。そこが「判断」なのですが 経験がなければできません。

人の後ろなら歩けるけど…先頭はムリ。「コピー登山」しかしていないし…って、コレです最近の問題はコレが遭難の一因になってきています。25年前、5月の涸沢カール・小豆沢でのこと。 穂高岳山荘に向け小豆沢を登っていたとき、自分の後ろに長い隊列ができていて凄く焦りました。誰かが登り始めるのを待っていたかのように各テントから飛び出してきては後ろに並ぶ、どんどん隊列が長くなる。その長さにビックリしました。出発か待機か?その判断力を身につけるために冬の穂高に来たんじゃなかったの?涸沢のど真ん中にきてまで数珠つなぎだなんて、、、「右ならえ」の日本人気質はずっと昔からあったんですね。

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で、、、ハゲ禿を眺めていたら 急に…思い出す といえば、、、初登から数年後の2度目のテント泊の夜。呑みながらザイルパートナーの表情を読んでいた時。ヤツは緊張からか?次第に無口になり、しきりと酒をあおり始めるのでした。当然 酒が切れるとヤルことがありませんから 悲壮感を枕にして寝ることになります、消灯…。だが パートナーはたぶん夜明けまで?一睡もできなかったんじゃないでしょうか。

「ハゲ禿の初登攀」がそうさせているわけで、恥でも何でもないのです。初登攀で味わう葛藤に対して我々の誰もが横から口出ししたりはしません。心ゆくまで(?)その葛藤と向き合ってほしいからです。自分から 登るぞ!と意を決する、「克己」の瞬間を黙って待っていてあげるのです。結果、逃げ出すことだってできるわけですけど、待ちます。仲間は厳しい だけど優しいのです でも厳しいけど(笑)

冬尾根で「一番のり」をやる…、新雪の斜面に最初のラッセル跡をつけて登るということは「岳人の誇り」でした、当時の価値観でしたけどね。誇りではあったけれど、しかし「バケツ」のない(他人の足跡がない、他人のコピーじゃない)斜面は恐怖でもあり過度の緊張を強いられるものです。だから尻込みして酒をたっぷり飲んで、恐怖から逃げられない夜を明かすわけです。組織としては そんな弱い心の持ち主を冬の禿の岩稜に差し向けるわけには行かないのです。

ハゲ禿のリッジに踏み込み、「冬の禿」に向かう…この意味するものは?と考える。 今もそうだと思いますが所属山岳会の「運営委員会からの指名」であり 「組織に実力を認められたチャンス」であり 「命を懸けたトライ」であるはず。人の秘めた能力を山岳会という「組織の力」で顕在化させ 育て上げているわけです。だから指名されるわけですが すべては安全登山のレベル維持のためです。各種ネットで展開されているような「ライトな山行報告」には決して書かれっこない「心の内側」の問題を山岳会は冷静に見極めていました。冬山というのは夏道歩きでは身につくことのない、一般に想像すらできない孤独な戦慄をもった山で、尖った会員たちだけの特殊な分野なのかもしれませんね。厳冬期の岩稜というのは理解するにも一般的には困難かも? そもそも価値観が違うし…とかいわれてしまいますし(笑) 仙台の山岳会の中でも「冬の禿」をヤルのは限定された山岳会だけでしたしね。

道半ばで山岳部を退部した方、方向性の違いから社会人山岳会を退会した方、中には逃げ出した方も?当ブログ読者にはおられることでしょう。 でも結局、その方々も、貴方も、私も、山が好きで今も山を続けているわけです。逆に言えば、、、不器用さもあってか?信念に基づいてか? 困難を乗り越えて「やりきった方」って凄いですよね。山岳界の「レジェンド」とも呼ばれています。

「船形山のブナを守る会」には朝日連峰の沢を跋渉してきた燻し銀な?レジェンドたちが「会の運営」にあたっています。みなさんも 興味があれば観察会に参加してみてください 面白い話が聞けるかもしれません。次回は 船形山避難小屋の薪の荷揚げ 9月30日だそうです。

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by tabilogue2 | 2018-06-06 15:35 | 鬼首高原 | Trackback | Comments(0)

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新年 明けまして おめでとうございます。
 本年も よろしくお願いいたします。 


今正月は年末から松が明けるまで家事に専念。「主夫業」というか「終活」、人生一度キリ!どっちが早く逝くかなんて誰にもわからない。 老いても「主夫」として自活する方向で!「 いつ逝くの? 今でしょ!」って?そんなのわからんw けど・・・準備だけはしとこぅ ( ´艸`) 先を見て、掃除・洗濯・炊事、なんでもこなし、「自活」をテーマに暮らし、山遊びもしよう、本も読もう。。。死に際に往生際が悪いのだけは「恥」と思って 今のうちにやれることはヤッて「老い」を生きよう。

健康なうちに「終活」ヤッておかないとネ (´艸`)  お陰さまで、正月にやってきた孫たちにはミートソースとカボチャ入りクリームシチューを作ってあげることができたし 娘たちには福島の味であるイカニンジンと田舎風味の白菜漬けを食卓に出し 福島の”ふるさと”の話題にもなった。被曝の話もしたし補償打ち切り問題もした。大事なことを娘や旦那さんたちに伝えていかないとね。立ち消えになっちゃう。

年越し蕎麦もオヤジの役目に定着、17年?になる。大根おろしを摺ってきざみ葱とワサビを用意し、茹で上げた蕎麦を冷水にガンガン晒して、水切りしたら一口大にくるくるっと捲いて大皿に盛る。くるくるくるっと大皿にたくさんの渦巻きを眺めながら蕎麦を戴くのが当家流。孫のウケがいい(´艸`)。蕎麦は大久製麺「さらしな蕎麦」と17年前の「月山正月合宿」食当で年越しそばを合宿メンバーに提供して以来ずうっとソレだ。仲間のウケが良かったのだ。

今年に限っては次女の縁戚から戴いた「七ツ森蕎麦」に変えた。芯粉で打ったきれいな蕎麦だった、タレもおいしいし、蕎麦湯もきれいに白濁した。でもよくよく考えてみると…家族が集まる年夜の晩ぐらいは「定石通り」「定番」「保守」でなくちゃいけなかったのかもなぁ(´艸`) 世の中あまりに変化し過ぎるから…、こういう団欒にこそ定番が一番、「安心」が味わえるのだと思う。
 
じつは・・・先日、七十の手習いって言うか?調理能力UPのため生まれて初めて”天ぷら”を揚げたノ(;´・ω・)あぁキンチョーした。ネットで粉の溶き方 冷水 溶きすぎない 具材の厚さ 油温 油とり紙 下味つけ などを学んで速攻で実技に挑んでみた。実際、、、野菜かき揚げの具材を天ぷら鍋に投入したら 揚げている最中に天ぷらの具材が勝手に散り散りになってしまった。で、四方八方に散ったニンジンとゴボウを集めて、それに溶いた玉ネギを乗っけて、集めて乗っけてまとめて、集めて乗っけてまとめて…を繰り返すハメにw、かき揚げならぬ「かき集め揚げ」になってしまったw どーしてこーなるの!?(。´・ω・)??? 台所の換気扇に向かい声を大にして叫びたかったぁ(´;ω;`)ナキ

クックパッドには何故?どうして?の答は書かれていない…てことは、これって「暗黙知」なんだろなぁ。 天ぷら用の「網お玉?」を使えば簡単らしい。でもまあ自分評価で1回目にしては上出来、あとは「経験知」を上げればいいと思ってみた(´艸`) ジコマン 

昨年から始めた「終活」で料理の下準備・下ごしらえが板についてきているからだと思うが、段取りなんかはパパッとできるようになった・・・それが料理が上手くいってる主因だと勝手に思っているが( `ー´)ノジガジサン。 粉を溶きすぎない 冷水で溶く 油温 具材の厚さ この4項目さえきちんとできれば油温180℃で揚げる上では何の問題もない ( ̄ー ̄) ホントカ? いつの日にか「終活料理」をネットに特集したいものだw「インスタ映え」を狙えるようになったらブログにアップしてやろw ”毎日おりょーり楽しんでるわー” とでもペイントで吹き出し…しよっと「終活いかが?」っともw。真実は常に「真逆」だ(´艸`)(キャラ弁はやり過ぎだと思うけどなぁ 本音)

家伝にしん昆布巻 家伝にしん山椒漬 人参シリシリ いかにんじん スライスニンジンのレモン和え キュウリ・玉ねぎ・大根クスクス各種サラダ&ソース各種 ジャガ芋ニョッキ・かぼちゃシチュー じゃがいも・挽肉・ベーコン炒め 肉野菜炒め レバニラ炒め なす・挽肉炒め 野菜カレー 甘塩鮭シチュー ビーフン・野菜炒め キャベツ回鍋肉 キャベツコールスロー(極細) せり鍋 タラ鍋 鍋各種 ポークジンジャー ハンバーグ ミートソース たらこスパ スープスパ各種 玉子焼き ベーコンエッグ 蕪漬け 白菜漬け キンピラゴボウ お出汁 味噌汁 吸い物 麸椀もの 魚の下処理(鰯・鯵の開き 鯖三枚おろし 鰈の五枚下ろし) 刺身各種 それに天ぷら・・・

昨年一年やり抜いた「終活」のお陰で(料理とは言い難いが)単品で30品は作れるようになった。山料理とラーメンの具、肉野菜炒めと焼ソバ・うどん、ミートソース…ぐらいしか作れなかった30歳の頃に比べたら雲泥の差、進化だ。「やろう!できる!」の合言葉通りとなった。これ以上は言わないwww にしても 女性というのは普通にこれらをチャッチャと料理しちゃってるわけだから大したもの。その腕を持ってして男の一人や二人を料理するのは、朝飯前・・・か?www

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  1. かぼちゃクリームシチューと海老入りニョッキ


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さてと、、、ここから 今日の問題だ。耳が痛いだろうけど、ちょいと聞いとくれ。

●アマチュア趣味とプロ、、、自分を売り込むためにネットを利用しようとする。その為に交際範囲を広くし、カテゴリーも山や花に特化し自己アピールに余念がない。行きつく先…は「独立願望」「コラム執筆」「企画プロデュース」「物販営業」など…ネットで身を立てるという目論見。でも余りに見え過ぎてしまうとモヤっとする。周囲は「趣味の友」として親しくしていたわけだが、本人は次の人生目標に向かい「今」を踏台にしてサッと飛び立つ。「趣味の相関図」を「商いの相関図」へと塗り替え新たな人脈を構築しようと明日へステップする。もう「趣味」という護符はつかえない。

●仮想社会の眩みに陥る、、、社会生活をある程度犠牲にしないと趣味は成就しないもの…、ただ、ソレのために仕事や家庭を放棄もしくは蓋をし、「できる自分」で居たがるのも困ったもの。実生活から乖離したネット社会で「理想的な暮らしの中にいる」「趣味を満喫する」「チャレンジする」姿をアピールしたがる。しかし読者側にすれば「真実は正反対に潜むもの」と達観する。だが、そうであっても今日も虚構を盛ろうとする・・・裏側の透かし彫りがさらに深まる。

●中高年の”パターン化”、、、2003年に”ホームページ”を始めてから15年。車趣味の集まり「泉ヶ岳ミーティング」HTML形式ホムペ以来…ネット歴は長い部類になるのかな。それだけ色んな人達を百人単位で見てきたことになる。車関係では若者たちの多様な志向を知ったし、”2ちゃんねる祭り”というネット内騒動も処置してきた。山関係では中高年の画一的な金太郎飴に出くわし、ネットを開けば中高年のパターン化された「人間模様」が間断なく寄せてくることに気づく。ここいらで…ネットに支配された思考や生活を停止しよう…と思うほど。

●仮面を被って、、、「他を意識した」自分があって、「他にウケの良い」写真や、当たり障りのない論調にうんざりする。本音が裏に押し隠され、代わりに「虚構」が表に押し出される風潮。他を「意識している」、他に「観られている」、他に「嫌われたくない」、、、そんな自分が書き綴った意味のない「仮面」たちのブログ。 それじゃぁ 反対に考えるとどうなるのだろうか?…「素の自分」が内外面に起きている事実を書く、それをどう思うかもキチンと意見を書き添える…となる。この辺が気になり当ブログも暫時休憩…点検中だ。 結局「軟弱さが身を守る」とでも人生訓を得ているのだろうか。

●主客逆転生活、、、 ネットのために、ブログネタのために、山に登っているわけじゃないだろう?耳が痛いか?w が、ココを主客転倒するケースが増えてるんじゃないのかな?皆さんはいかが?一概に否定もできない?(´▽`*) 普通に自分の生活圏をとらえると、この冬空にそんなにそんなに「事件」は起こっていないと思うが、違う?w いや? 無理して起こそうと努力してるんだったね君は。ブログネタのために三日に上げず山に登ってるんだから。 

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まだ今年も、、、里山を歩かないつもり 

今まで此の方、「里山を歩く」という概念を自分は持ちあわせてこなかった。学生時代から「山岳指向」で今もって頭の中は、標高でいえば4桁以上(出羽丘陵など例外はあるが)、高低差なら00m以上、時間で言うなら登り2時間以上。それが自分にとっての「山岳」基準であり、それ以下は意に沿わなかった。いわゆる「山の深さ」を尺度にあてがっていた。その尺度以下を「山」と称する感覚が自分には「ない」。

福島育ちだからか、学生時代から山はキスリング担いで「飯豊、朝日、吾妻…縦走一本」だった。社会人になってからも南会津の雪山だったし、仙台では「沢登り」ばかりで、里山といえば泉ヶ岳ぐらいだったろう(泉ヶ岳は奥山に分けられるけど)。逆に…僕にとっての里山は「焚き付けを拾う裏山」。その焚き付けでさえ「山止め」を決めて「山のくち」まで入山できなかったもんだが。里山はそもそも歩く対象になかった。他家の裏山でもどこでも歩くといった今の風潮がとても不思議だ(笑)そのうちイノシシの罠に人間がかかるんだろう。

幸か不幸か 体力的に登れるうちは「山岳指向」でいたい。今でもそう誓ってる。飯豊、朝日、南会津…のテント山行が主体、小屋泊まりも多くなる。朝晩の「空気感」を身に着けずに、「公然と山に登ってきた」とは言い難かった。生まれたときから山が深かったので 山での野営は違和感なしむしろ必然だ。逆にそれができなくなった時、「自分の山」という概念を捨て去ろうと思っていた。その頃からでも里山を歩き始めようか?スポーツ登山をして汗をかこうか?と思っている。

しかしそうは云っても いつまでも「自分の山」に未練タラタラ…ってのが一番よくない 一応、わかってはいる(´艸`) 


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晩酌の供 チンピラゴンボw





by tabilogue2 | 2018-01-08 20:00 | mount | Trackback | Comments(0)

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「一度登った山は二度と登ることはないかも、、、」って?
 
ええーーーッ それって… 俺の真逆ぅ!? 
凄いことをズバッと宣う人が居るんだね 半世紀ぶりにビックリしたぁwww

全国200名山(深田100名山) 県別100名山(東北100名山) 地区別50名山・・・キリがないね~♪ひょっとすると、、、351座目から二巡目に入るのかい? 451座目かなかな?(´艸`)気の長い話だね「偉業だ」w 「物知り登山家」にでも成ろうというのかい??? ごくろうさま~ それも貴方の人生だ

移動するだけでも「イカほど万円」かかってるんだろう? 健康のためと称して投ずる生涯金額は? 350座を平均4万円で交通費・宿泊込みで登ったとして1400万円? 3万円としても1050万円? 車内泊で節約、夫婦・仲間で分乗し合う人もいるだろうけど それにしても百名山ブームは高コストだ。年間70座登るとして、全国200名山を平均3万円 の節約タイプでと+ ローカル100座を平均1万円で…4年半かかって700万円も?ピークハントするだけに投資するの? 葬式代、墓場、墓石払ってオツリがくるw だけど 没後に金をかけるより生前に投資したほうが現実的だからね。

北海道・東北と中部山岳地域の方は各々30座ほど近場に山が在るので移動費用は安くあがるけど 中国、四国、九州の人たち(8座のみ)は大変だね。そんなわけで朝日連峰は大朝日岳のみピークハントし 夜のうちに飯豊山本峰目指して移動するようになるわけだな… これじゃエモーショナルな登山を指向するなんて叶わないわけだ 100名山ピークハントは「100%完遂しないと無意味」だから。

他に土産品、飲食、道具代、宿泊、山岳ガイドつき 深田100名山だけで1000万円かける人も中にはいるんだろうね。深田百名山は1座あたり10万円也w 山を金で買うとこんな計算が成り立つ。金で買う名山歩きを「業界」が狙撃するw この金額に、50代 60代 70代の中高年の登山者人口の掛率が乗算される「マスな金額」がマーケットなのか? 「名山ブーム」「山ガール」「元気なシニアライフ」「クラブツーリズム」「50からのパートナー選び」って、、、すべて 業界が作った「市場戦略」のイメージなんですよ。それにまんまと乗っかって 100,200,300って…業界の手駒になって全国を闊歩するわけだ。アンタが大将、ご主人様だ…ってw ピークハンターって狙われてますね。現実 今年もこんな登山状況だ。みなさん富士山や北アルプスに遠征した経費は トータルお幾ら万円でしたか?

僕も北アルプスの未踏の地味なコースを あと3つ!歩いてみたい・・・
テント泊だけどね(笑)夜汽車、バスに乗って朝には大糸線沿線の豊科、大町、白馬、上高地、平湯に立てる。テン泊出費はかなり抑えられる。①栂海新道を親不知まで ②島々から徳本峠経由で霞沢・蝶ヶ岳 ③いちど高天原とスゴ乗越を繋いでみたいけど この未踏のコースも30代から温めていた。派手さのない「シニア好み」の渋いコース、、、今年も懐にあるままだが。


さて・・・

山から何かを教わる 受けとる 感ずる そんな登山者は少なくなった。

その理由を上に述べてきた。逆に克服の対象に山を据える単独行が増えたことになるのか? いちいち振り返っていられない なんせ350座だからね。山に何を求め、山の何処を眺め、額に汗しつ登って、「非日常」を得ようというのだろうか? 前夜移動、朝方に車中仮眠、睡眠不足の体に栄養ドリンク3本一気注入 ヘッデン灯し熊に怯えつ寝起きに歩く・・・血圧を一気に昇らせる 身体に悪いことだらけだが それさえもスポーツの対象にしてしまう 百名山ブームが起こした登山界の「軽薄短小」文化? 山の愛しかたが「日本だけの特異現象」、フィジカルな方向に偏向し過ぎだ! 百名山ブームはけして情緒的じゃないね。

山への探究心や 知的遊び心や 山を情念の対象とする、、、そのことが旧いのではないと思う。「エモーショナルなものを求める心」が今にそぐわないのではなく、「表面的に愉しもうとする安直さ」が「エモーショナルなものを求める心」を過去の遺物のように追いやっているだけなんだと思う。それに気づいたら、山懐で静かな夜を 「ソロ」で迎えてみてはどうだろうか。 ”超”地味な提案だが いかが? 沢で焚火して、天場で星を眺めて、、、日帰り山行ではけっして掴めない「山の奥深さ」を知るにつけ きっと 今日まで足りなかったものが見えてくるはずだ。。。

情念の無い山なんて・・・、殺伐とした荒野みたいなもの

何百の”日帰り”山行よりも、一遍の書物に心を揺らすような「心を満たす一夜」に浸ろう いつの日か、その「エモーショナルな正体」が分かるようになると・・・フィジカル偏向登山の愚かさに 数mgの知恵が付こうというもの。


 



by tabilogue2 | 2017-12-18 18:06 | mount | Trackback | Comments(0)

硬派な想い

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GUIDA Dolomite LAVAREDO 
35年前、郡山で購入したドロミテの皮革登山靴  重い! 現役です


村杉半島の西にはかつて藪に敗退した未丈-毛猛のルートがあり、さらにその左に岩魚を釣り上げ遡った池ノ岳、平ヶ岳がある。そのまた左奥は尾瀬ヶ原の北端だ。会津駒ヶ岳の右手、東に目を転じると、我が思いの詰まった「三ッ岩」があり、坪入からさらに北へと目で追えば丸山岳と会津朝日岳とがあり、山座同定もままならぬほどの遠景に、小さき冒険心を養ってくれた前ヶ岳南壁のスラブ群や山伏・水晶・つばくろ尾根の岩稜が立つ霊峰 御神楽岳がある。

道なき深山幽谷。この奥深い会津と新潟、奥利根の山域で山名を戴く山は如何ほどあろうか? おそらく一割にも満たないだろう。その一割にも満たない山名を一座一座、順に並べ同定・指呼する所作は此の広大な 山深い地においてはまったく意味がないし そういう所作は会津の山には似合わない。いかにも できた一人称ができなかった三人称を前に誇示し偉ぶる?あまり快いものではない。それは己が心に秘匿すべきかと。

それより この流域の谷や尾根を繋いで遊び、残りほとんどの無名無冠の山々を肌で実感する方がもっと大事だと思う。一座一座を登っては限りがないが かといって 一座で全てを語るのはこれまたオコガマシイからでもある。「謙虚であるべき」「我が身の程を知るべき」、会津の山を語るというのは恐らくそういうことなのだと思う。ヘラヘラと語ってしまえば翌春の雪稜にて山神にしっぺ返しを食らいそうだ(笑)

見立ては綺麗な紅葉の山だが、冬には十数メートルの雪に閉ざされ人様の暮らしも絶たれ、春にはゼンマイ採りとマタギで暮らす者にしか踏み込めぬ鉈目の道が輝きを増し、夏には湿った谷地に山ヒルがゆらゆらと踊り立ち、秋の乾いた草地には赤マムシがカラカラと威嚇音を立て鎌首をもたげる、、、この普通に自然な山深い流域は奥利根水源まで続いている。

そう思える世界がジワリ観えてくると、ほんの数座の有名山の山座同定に一人ほくそ笑むなどは正に奥会津にあっては「チャライ」のである。知れば知るほど敷居の高さが嵩み、軽々しく山名を口にするのも憚られる。じつに背筋が凍るほど、胆を冷やすほど会越の山谷は深いのだ。山をいと惜しむなどと軽く言えども、「山の奥深さ」を感じとるほど通わなければ それは真に語りはしえない。有名山の尾根をどれだけ歩いたとしても解り得ぬほど谷底の厳しさや人工を排斥する厳粛な森のあり様など…かつても、今も、これからも、想像の域を出ることはけしてないのだ。まさにそういう畏怖の念をもって尾根に立たないと会越の山は語れないのである。

この山懐に立ち周囲を眺めれば必ずその想いに至ることだろう 奥深さとはじつに荘厳なことと同義なのである。この会津駒ケ岳から北東&北西へ左右45度方面、この山域の無名峰たちに我が想いはギュギュッと込められている。 (2014.10記)






by tabilogue2 | 2017-12-06 21:14 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)

名山指向なるカルマ

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それにしても「今の」平ヶ岳、日帰りハイカーが多いのには驚いた

土曜の朝、下山時に出会った50人ほどの内、8割がソロのチューコーネン、
その半分が おじいちゃんたち定年組 (´艸`)オレモダッタ
早朝3時、4時から 往復22キロの山旅をスタートしている
 
深田久弥が かつて 二岐沢から2日がかりで登山していた時代
アプローチにさえ 小出の町から2泊していた時代
それに比べれば 単純に便利にはなった 


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だが、その便利さの反面 
山から何かを教わる 受けとる 授かる そんな登山者は少なくなった
逆に 克服の対象に山を据える そんな人が増えた・・・そう感ずる

日帰りじゃあ、勿体ない山だよ、ココって・・・
頭で分かっちゃいるのだが
山の何処を眺め、額に汗しつ、登って、日常にないものを得ていこうというのだろう?

 朝方に移動し 車中仮眠し 睡眠時間を5時間以上摂らず 栄養ドリンク3本一気飲み 
ほの暗い3時から 熊に怯えつつヘッデン灯し 
寝起きに歩く・・・血圧を一気に昇らせる

身体に悪いことだらけだが それさえもスポーツの対象にしてしまう 
百名山ブームが起こした「軽薄短小」文化? 
山の愛しかたが「日本だけの特異現象」、フィジカルな方向に偏向し過ぎ! 
登山ブームは けして情緒的じゃない
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池ノ岳の野営地で 蛙の大合唱を聴きながら 山への想いを深める・・・
なんてことは もう時間の無駄、彼らの辞書には「ない」・・・旧態な行為なのだろう


深田久弥の功罪を 名山ブームの渦中で語るとすれば・・・ 
「山の賛歌・物語」を捨て、フィジカルな踏破行為で
「100山登る チェックリスト」と化してしまっていることに尽きる 


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そうさせたのが・・・

物販オンリーの登山産業界や 公共交通網などによるツアー需要喚起、
雑誌「山渓」によるファッション性を取り入れた「山ガールスタイル」の定着化
克服・攻略を対象としたハウツー本による「消費型登山」「圏別50名山」への誘い、
ヤマレコ信奉者の再生産など 消費型登山の「底辺構造の仕組み」強化

これら「百名山をかたる商法」にこそ ほとんどの功罪があるのでは? 
単に僕らはそれらあざとい戦略の環に「消費」という行為で填め込まれているだけ

「山を消費するだけ」の登山に未来はない 食い散らかすだけ・・・かも? 
つまり百名山を語っているのは 山を商売の道具に貶めた業界である

気づかず ただそれに乗っかっただけの登山など 所詮 長続きするものではない 
・・・ということが 既に 僕には透かし見えている


こんなこと 今だからこそ 言えることなんだろうけど、、、ね
でも、気づいちゃったんだから しょうがない ( `ー´)ノ モウ ダマサレナイノダ

どこまでも あざとい 人間たちの「業」カルマに 
私らは どこまで奴隷になっていれば気が済むのか?
その業によって現れ出る「因果」は 自然界に蘇らぬ生類を吐き出すこと になる



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by tabilogue2 | 2016-06-13 20:52 | 会津・越後 | Trackback | Comments(0)

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(前半より)

趣味の会だからこそ・・・
趣味の会だからこそ趣味の会らしく世の中の「真偽」にこだわって生きよう! と普段から提唱していた運営委員長。栗駒山のクロベの森保護運動の際も青森営林局に掛け合い 船形山のぶな伐採問題にも古川営林署に掛け合い奔走したのは運営委員長の彼だったではないか!彼がいたからこそ守り通せた「会のアイデンティティ」ではなかったのか! もうお忘れか?山に向かう真摯な姿勢を「生きる鏡」として我々会員は学び、仲間を慮った会運営に助けられていた。会に尽くした貴重な20数年の歴史に感謝こそすれ除名とは恩を仇で返すとんでもない行為! 非道そのもの。

金の扱いにこなれた会員(保険業)が入知恵をし数百万の遭難保険金詐取問題と運営委員長の実績とを相殺してしまった。会運営に疎い保険屋稼業が事実を曲げ、その一方、会の運営で神経を細めた運営委員長が当会史から抹消されてしまう 天地逆さまな驚くべき事件だ。このことを耳にし、OBの私などは怒り心頭になった。抗議者は運営委員長だけとあってはYMCA山岳会の名が廃るので 旧運営委員の私も名を連ねることにした。
 
もう一つ気になることが・・・
新刊に書かれていた。それは5年前、3.11以降に世の禁断を破って月山に登ったこと・・・である。当時、ことある度に大阪から石巻にボランティアに駆けつけている会員もいたし、月2回の生鮮物資を避難所解散の11月まで配り続けているOBもいたというのに、会長たるものそれには目を向けず、それから逸らすように己の精神性のためにだけ、世間の禁をも破って、雪山に向かった・・・、その心境がたった数行で語れてしまう人なのか?。まったく「自己中な人」だ。なんせ当時山行を我慢しているのは会員皆同じだったのだから・・・さらに当時、「同調圧力」で世間の白い目にたじろぐことしばし!だったはず。当時、自分が山に行きたいと欲するならば「会山行」を催し、心に潜むジレンマに禊ぎをして会員皆で行けばよい事。自分だけ行きたいだなんて・・・、世間と隔絶した生活意識の持てる人だったのか? 「真実」が書かれなければ「嘘」が晴れることは決してないだろう・・・、墓場まで持って行くつもりか? 

深野稔生:著書に初めて触れたのは・・・
「ブナの山々」(白水社)だった。1990年に単身赴任を終え仙台に戻ってきたばかりで 何処の山岳会に再入会しようか機を窺っていたところだった。その頃、発刊されたばかり此の本を手に取り読んでいくうちに強く惹きこまれていった。すばらしい短編の論理構成、レトリックだった。それがキッカケで深野稔生のいるYMCA山岳会に入会した。私も当時40歳、純粋に深野作品に文学性を感じ惚れ込んでしまっていた。それほど文章力には他を圧倒するものがある。地域研究や民俗学の実証的研究には一歩もニ歩も先ゆく、知識は深い。でも一方、人生の終末に一人の爺さんに成り切れぬ哀れな男であることも知った。会長とまで言われた男だから、陰で息つく暇もないはず・・・常に世間に見られている感じがするのであろうが、強がりだけ、嘆くこともできない男に人間的な魅力は感じない。否、弱さもあっていいじゃないか! 会長だからって人間的な弱みを陰に持つのは決して恥じゃない。そういう腑に落ちぬ所が山岳会を辞めた私の一つの理由にもなっている。人柄の裏表とは皮肉なものである。

彼の側面、敢えて言えば・・・
苦々しいが、、、山岳会での会長職最後の頃、彼の利己的側面をモロに見てしまっていた。例会後のいつもの居酒屋で会員と口論の末、取っ組み合いになって拳をあげる騒動を起こす、その現場を2度もみていた。他者の意見には「貴様 俺に指図するのか!」と目ん玉ひん剥いて恫喝し、己の意見が絶対だとする不遜な態度が彼にはある。それには私も抗議したほどだ。醜い。

人間的には悪い人じゃないんだろうが、おそらく・・・むかし育った家庭環境や家族関係が起因してか?「他者に馬鹿にされたくない」という思いと、どういうわけか「他者を信じない」「自分の目と足で確かめないと信じない」ところが彼にはある。「品のある知性」とは真逆で「自尊心とコンプックスの塊」のような一面があり、その琴線に触れると極端に激高する。そんな深野稔生氏本人の前で 僕が言い放ったことがあったらしい。すっかり記憶から漏れていたが最近(2016.10)になって YMCA山岳会OBの町田くんからメールを貰った。そのメールにはこう書いてあった・・・「私は深野稔生を尊敬するけれども、人間的に嫌いだ」と 深野稔生氏本人の前で言ってのけたことを私はしっかり覚えている・・・と書いてあった。事実のようである。このころから仕事も忙しい立場になり、僕は会活動から遠ざかってしまった。

一昔前ならブランドだったであろう”土樋”に宅地を求め「蔵書に囲まれた暮らし」をしてもいる。居間にはジャズが流れ、茶道の囲炉裏も切られている。広瀬川に面し桜を愛で、夏は花火も間近に見れる。安保時代に学生運動に身を投じたものであれば 誰しも嫌ったであろう「私的財産欲」「プチブル」「中流意識」。それらの上乗せでの「個の確立」論者であり「中流意識の権化」でもある。もはや山をめざす者として 山を前にし身を屈める蹲踞の姿はそこにはない。物事の善悪、保険金詐取の見境もつけられぬようでは 単に独居の老人ではないか?老化は正義や彼の精神までも蝕んだようだ。 

僕は深野稔生をこうみる・・・
「異見を持つ者を排する・・・」裏返せば じつに肝っ玉の小さい、鷹揚に構えられない、「自己愛な男」と見抜いた。口撃で論破し、ディベートで潰せぬ者には暴力と恫喝で排し、「深野稔生」という山岳会の知性派と言われるまでの「権威、名声、ブランド」をガードしてきた。それら半生の弁解、今事件の弁明、我々会員の前で真実を吐露する書物も いつかは出版されるのであろうか。それこそレトリックの怪、深野稔生という「男の懺悔」の時であろうとも思っている。

もし仮にそうでなければ、異国の地に死んだヒロシも 師と仰いでいたにもかかわらず断絶するほどに裏切られたヨーコも 会をファッショ的に追い出されたユタカも ボランティアに精を出してきた現役会員もOBも ともに浮かばれない。YMCA山岳会を踏台にし自分の名誉を守らんがために 組織を私物化したのは深野稔生自身ではなかったのか? 会長ともなれば 会の今後の発展を願って止まないはずだが?運営委員長をクビにするようでは先見性に蓋をするようなもの。 器が違ったか?懐疑の心も成り立つほどだ。いや、ひっくり返せば? 埃が出そうな話が深野さんにはまだ他にもある。よほどに社会的地位、自慰的美学にこだわってきたのか?そうとうの自己愛な人と見える。今はもう 彼の周囲で誤まりを指摘しNoを云える者がいなくなった。Yesマンばかりで議論を交わせるものが一人としていない。親が名づけた「稔生」の意味するものは「稔ってさらに実を生かす」であるはずだが、もはやその実も枯れた火宅老人になってしまったか? 彼からの弁明を待ちたい。

自己愛に偏執してきた深野老人・・・
齢73になって かつての仲間たちの「真実を見抜く眼力」を忘れ、ナルシシズムに陶酔するかのように引き籠り、「自らの美学」に浸るような山行記を出したとあって、彼を知り尽くす会員にすれば「灯台の元を暗くするな、灯を当てよ」という言が耳元で囁いているはず、また相当に的を射てる指摘でもあるはず。





ブレスする彼の表情を見たら・・・深野さんはなんと思うだろうか? 尋ねてみたい。


佐野さん退会の報を聞き非常に驚いた。東京「ブナの会」から移籍し YMCA山岳会の一時代を築いた人なので誠に惜しいことだ。聞けば 「遭難保険の不条理な処理」に一人反対しての退会だったとか。誰も引き止めることができなかったんだろうか?・・・、まさに彼らしい愚直さだが それが故に栗駒や船形のクロベやブナや自然保護を会の中で公然と語れる自由さを我々は得たものだが。そんな物事の道理にこだわる彼を笑える者がいるとすれば それこそ将来に亘って己の恥を晒すようなものだな。

一重に、会として貴重な人材を放出させたものだなぁ、と思った。保険担当会員が熟慮すべきところを職業気質を剥き出しにして事務処理を優先させてしまったんじゃないのか? 感情的にではなく道義的に捉えて正しい道を選択すべきだったんじゃなかろうか?深野さんも 岳人としての判断が世俗的になってしまったものだなぁ と僕なんかは思うのだけど・・・。

佐野さんの愚直さ(原則的判断)には「岳人として学ぶべき点が大いにある」と 認めて、その上で「善処?」すべきだったんじゃなかろうか。余計なことを言えば、飲み会での席で この私に向かって「酒が不味いから止めろ」といって発言を制止するものがいたが それこそ会の自浄作用を阻む行為だと思うけれど・・・ いかがか?私の意見は・・・丸山くん 引地某くん?




by tabilogue2 | 2016-03-24 07:30 | mount | Trackback | Comments(0)