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女優、安藤サクラを知ったのは・・・映画「百円の恋」”一子”役でした・・・、俳優:新井浩文との共演でしたが、俳優らしくない?飾らない?素の?泣きっぷりのいい?「ヒッキー」がアマチュアボクサーに変身してゆく難しい役をこなす?「特異な才能をもつ女優」さんだなと その時に思ったものでした。

この映画の主題曲がまた印象に残る曲で、歌っていたのが「クリープハイプ」というバンドで「百八円の恋」というもの。アップテンポで、それがこの映画にマッチしていて さらにスカッと、心地よかったことも印象に残りました。

落ちこぼれ、無気力で、怠惰で、”女を捨てた”女という役どころが 安藤サクラのハマリ役でした。その彼女がボクサー:新井浩文に恋をする。そこからの展開がとても心に残る映画で、、、厭世な旧知の自分と、その旧知の自分と決別し新生するもう一人の自分という「2つの自分物語」。 

その演技は・・・おそらく、安藤サクラという女優でなければハマらなかっただろうと思えるほどでした。 

ウェストダルダルなヒッキー「はまり役」の安藤サクラがシャドーボクシングで キビキビ、シャキシャキ、ビシッビシッするシーンや、「3回戦ボーイ」デビュー戦で打たれ続けダウンしても必死に戦おうとする彼女に、涙し声援する「真の家族」を呼び戻し、喪失した「自分」を取り戻すためにボクシングを選び戦う姿に、彼の心も揺らします。
再生される本人の未来を指し示すシーンでもあり 今も頭から離れません。素晴らしい演技でした。

それにしても スパーリングやシャドウするときの安藤サクラこそ「決まり役 ハマリ役」でした。(コマオトシ撮影なんでしょうけど…)練習ジムに何度通ったのか計り知れないほどだと思いますが 俳優業というのは凄いんだな・・・と、それほどボクサーの動きをキッチリ体得してましたっけ。

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映画 「百円の恋」 監督, 武正晴. 脚本, 足立紳. 製作, 間宮登良松.
出演者, 安藤サクラ · 新井浩文. 音楽, 海田庄吾.
主題, クリープハイプ「百八円の恋」.







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女優:安藤サクラを次の劇中で観たのは「万引き家族」の映画の中。 6月8日の封切りから約1ヶ月が過ぎたので ネタバレ気味に感想を述べようと思います。長文です。この感想文で「」で書いてある部分は凡て「ニセ」の意味が込めてあります。



映画 「万引き家族」 監督,脚本,編集,是枝裕和 音楽,細野晴臣
出演者 リリー・フランキー 安藤サクラ 樹木希林 


導入部分で遮断器が降りて警報機が鳴るシーン、、、ここで シンコペーションで擬音効果を「旋律」に変えていくのは 細野晴臣さんのワザかな? 
映画の終わり部分にも聴くことができる。人生の狂いや凋落を 一種の音や音階、シンコペーションで下げてゆく・・・ことで表す




家族であって家族ではない。この二律背反な家族関係は 言ってみれば、、、「ニセ家族」。

樹木希林が演ずる初枝のシガラミで「ニセの息子 治」、「ニセの息子の嫁 信代」がいる。もう少しシガラミを述べると、老婆:初枝と暮らしているのは 別事件で正当防衛ながらも前夫を殺めてしまった「信代」とそれに関係した「治」。それぞれが「ニセの息子」役、「ニセの嫁」役とで初江婆さんと「偽家族」を構成している。
じつは初枝の生き別れた真の息子の名前が「治」であり、真の息子嫁の名前が「信代」だそうな。この三人のどちらかが、行きずりで、どちらかを「拾った」のであり「拾われた」はずだが、とくに説明はされていない。
初枝はニセの家族を得ることで「ニセの幸せ」と「ニセの老後」を得たし、、、息子もまたその嫁も「ニセ」を貫くことで自分の存立と居場所を得ていた。 

もうこの辺で妙ちくりんなキャスティングだと思うのだが さらに物語は複雑になってゆく、、、関係を覚えるコッチも必死だ。
家族の定収は「初枝」の年金、「治」の日雇労働、「信代」のクリーニング店のパート代。この核構成に 家出娘:亜紀を「信代の妹」と呼ばせ住まわせている。彼女は風俗店で「サヤカ」という源氏名で出ており、そのサヤカは実の妹の名前だという。この辺りも複雑だ。さらに、かつて初枝が別れた旦那の孫娘だそうな。しかも初枝は亜紀の両親から慰謝料という意味合いで”別れた旦那の月命日”にお金を掠めている。さらに頭が混乱してしまうような人物構成だ。
この4人にさらに男の子が加わる。「治」の息子役「翔太」だが、駐車場で車上荒らしをしていて…たまたまそこに親に捨てられた子供が乗っていた。「治」は自分のもともとの名である「翔太」を息子役に命名し「拾ってくる」。不思議な家族関係はコレで終わらず、「翔太父子」がスーパーで一稼ぎした帰り道…DVの実害にあっている娘「凛」をその家のベランダから「拾ってくる」。

この物語は”もともと実の家族ではない”というところが味噌。”貧困の縮図”はよく観ておかないと筋書きがわからなくなる。ここに書いた人間関係が正確なのかどうか?書いてる私本人も自信がない、むしろ不安になるくらいだ。

労災補償も危うい日雇い労働、パートタイマーも解雇される不安定さ、僅かな年金で暮らす一人暮らしの老人、ゆすり・たかり・いじめ、再起資金もなくネットカフェで暮らす若年男性、風俗嬢、生活の厳しいシングルマザー、ドメスティックバイオレンスで崩壊する実親子、実家庭だったり・・・それら問題視された現実が”映画の舞台・人間関係の縮図”となっている。それらが貧困層「ニセ家族」という劇中構成。演じる役柄それぞれが”人生の限界集落的存在”だっ。

生きるために罪を犯す、嘘で身を繕う、嘘を突き通さないと生き延びれない、訪ねてくる民生委員を騙さなければ自分たちが生きられない、およそ世間の常識では論じることが出来ない。そんな世間に隠れた”貧民層”が在ることを…現実に据え底辺の様子が描かれる。必死に生きているけれど、”暮らしている”とはとても言いがたい。区役所も病院も学校も、およそ公共機関との関係は存在しない。明日や未来の計画もなく、ただひたすら日銭で今日を生きる。”勤勉な”日本人に理解できる状況は一つもないだろう。

地上げ”による荒廃がもたらすビルの谷間で 空も仰げない平屋の一軒家に隠れるように息を潜め「ニセ家族」が寄り添って生きている。「実家族」より安心して暮らせる空気感だったり、実の親子よりも心の通じ合う「ニセ親子」だったり、真の親よりも「ニセの子」の行く末を考える「ニセ親」だったり、「ニセの我が子」の前で真実の涙を流せる「ニセ親」だったり、息子との別れに真実の親でありたいっと願った「ニセ親」だったり・・・犯罪や嘘で繋ぎ合ってるだけの「ニセ家族」、それなのに『家族らしさ』が溢れ出て、またそれを映像にボンボンと盛り込む。

『家族らしさ』の映像、、、という点では、一家の団らんめいた食事シーンが映し出される。でも?どこかおかしい。よく見ると…それぞれが自分の好きなものを一家団らんの夕餉の食卓に並べて食べている。さらによく見ると違和感が、、、そう、すべてが「万引き」で得た食料なのだ。一発目からガーンと頭をかち割られる。
劇中、マンション建設現場で働く「治」がコンクリートむき出しの一室で、そこにあるであろう間取りを指さし、子らの名前を呼び、透明なマイホームを妄想するシーンなどは「男」としてのせめてもの償い、家族らしさに対する男の存在と罪滅ぼし的な夢なのか。
「ニセ父子」であっても「翔太」に父親としての愛情を感じ始めた「治」。別れのシーンで「翔太」が乗り込んだバスを「治」に追いかけさせている。そして他人には知られたくなかった「凛」とのいきさつを伏せ 職を失ってでも「ニセ母子」の秘密を守ろうとした「信代」。それは「信代」の幼いときの薄幸、「ニセ親子」の腕につけられた火傷のDV痕がそうさせた。
だが最期まで、世間に証明されなかったのは…貧困であるがゆえに寄り集まったということ。その「実の家族以上の愛と生活がビルの谷間の平屋で育まれ、営まれていた」ということだった。実親に捨てられた子に「ニセ父」としての情を知り、より強く抱きよせたその意味や、、、幼いときに注がれなかった母からの愛をせめて「ニセ娘」に注ぎたかった「ニセ母」、それらのシーンに「家族とは何か?」という重い意味が込められた。
崩壊した世間の実家族の男と女と子らが集まり 新たな「ニセ家族を拾って」暮らす。戸籍台帳にも載らない「ニセ家族」という新単位。それらの事実を受け止めることができるのは「ニセ家族」の彼ら以外には居ない
そんな「ニセ家族」も房総の海にでかけ実家族、実親子のように『家族らしさ』の振る舞いで映し出される。「ニセ家族」ゆえに?より濃い「家族らしさ」は観客に一体どういうわけ?運命?何故?と不思議がらせる。「ニセ家族」の一日だけの楽しさに、海辺での初江はポロッと枯れた言葉を漏らす。「ニセ息子」と「ニセ嫁」「ニセ家族」への感謝の言葉、それはたった一言の”敬語”だった。


場面は急展開する。警察の取調室でのシーン・・・この映画の山場だ。葬式代がないので初枝の遺体を居間の床下に埋めた。それは望みもしなかった”死体遺棄”だったが、死体を捨てるというのは重い罪に問われる…と取調べを受けるシーンで、「捨てたんじゃない 拾ったんです 捨てた人は他にいるんじゃないんですか」と抗う「信代」の言葉。貧乏ではあるけれど「ニセ家族」の初枝を拾って、どの家庭にもある普通の ”嫁としての幸せ” を拾おうとした。ただそれだけなのに解ってもらえる世間はない。ましてや権力に向かって「捨てたんじない 拾ったんです」と訴える「信代」は行き場のない切なさの限りだ。
訴える「信代」がアップされた。その目には拭っても、拭っても涙が滲み出てくる、、、”世界のカンヌ”で感動を呼んだといわれたシーン。安藤サクラの演技に涙が誘われ出る。『百円の恋』で女優:安藤サクラの名演技 涙 泣き声 呻き声を 既に 僕は観て聞いて知っていたはずなのに…。

先日まで住んでいた、誰も居なくなった空家を亜紀が尋ねる。いまでも誰かが顔を出しそうな部屋の四隅を見つめる、、、もう全てが終わったのだ。 この映画の底辺に流れる、どうあがいても抜け出せない『貧困のカースト』という厚い壁。貧困のドロ沼に一縷の藁も投げ込む世間ではない。
劇中のラストをどう捉えるべきか考えさせられた。「凛」が実母の元に戻ったとして実母から注がれる愛情は望めない。その「凛」が握ったビー玉はお兄ちゃん「翔太」から貰った宝物、そのビー玉の数え方は「信代」から教わった。「ニセ家族」のほうが実家族以上に濃い関係を築いていたことになる。反して、それほど実社会はうらぶれた面が強く出ているということなのだろう。 『盗んだのは絆だった』 この映画のサブタイトルの意味はこんなふうに理解すべきなのか?
貧乏は貧乏を新たに生み、薄幸は薄幸を呼ぶ。。。ラストシーンでの「薄幸の定め」におかれた「凛」。その不安な表情。かつてDVを受けた傷跡を「転んだ」と言い張ったほど、幼くして生きる”知恵”を体得していた少女。ビー玉こそは「ニセ家族」との繋がり。
それを手に持ち「凛」ベランダから眺めた視線の先は 一点を指した。 その先に写っていたのは、、、「治」・・・だったのだろう。 愛は見えた。 だが、その未来はとても淡く、輪郭はどこまでも朧気だ。 


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日本社会で、顕著になってきた「カースト化された貧困層」という問題。

貧困という悪循環」にハマって生きている。一度そこにハマったら抜け出せない。「貧困のカースト」…貧乏人は永久に貧乏人という身分から脱出することができない。罪を犯したり 嘘をついてでも生きなければ ただ死が待つだけ・・・それら日本の貧困の問題が今回映像化された。スラム街はなにも巨大なニューヨークや アフリカやアラブの難民キャンプや 東南アジアや中南米ばかりじゃない。堅実で勤勉な国民には到底理解できないだろうけれど この日本にはこの映画が指摘する現実が社会の底辺に渦巻いている。

是枝監督のおっしゃるように「大きな物語」と「小さな物語」とそれぞれの展開で現実を観る必要があるのでしょう。憲法 規範 保障 正義 法律 教育 そして自衛隊、、、「国民を守る」という見かけ倒しの「体裁」は整えているのに「極貧」は平然と忍び寄る。日本の政治がそれを救えないのは実に不思議そして福祉国家 文化国家と呼ばれる国でありながら実はその枠外で切り捨てられ「底辺」を生きている人たちがいる。『貧困な政治』という「大きな物語」の視点。
老婆の年金に定収を得て、日雇い、パート、風俗、万引きとで生きている「ニセ家族」。その家族は『お金』で繋がっている。こんな脚本、構成を考える監督は先日、文科省からの表彰を断ったという。エンターテインメントな映画が多く作られている日本の中で この映画は「小さな物語」の現実を捉えた、かなり異風な映画だ。とても「常識的で勤勉な」人たち、お金持ちと呼ばれる人たちには理解出来ない複雑怪奇な人物構成、現代の縮図。

「美しい日本」を呪文のように唱える政治家に ”底辺に在る” 現実を見せつけ、政治貧困の実態を指摘する。  校了



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by tabilogue2 | 2018-07-07 20:13 | art | Trackback | Comments(0)

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社会人になってからも ソレを終えた今も…「とおの」、「とほの」という言葉の響きに一つの淡い思いを抱いていた。未だ見ぬ「とほの」という響きを持つ街に足を踏み入れその言葉の響きの正体を見にゆこうと暇に任せて勇みだった。

遠野の昔語りに「遠野三山」の話があって、それが神社の開祖の関係からか、修験道の関係からか?会津の思案岳(ちやがたけに伝わる民話「本元飯豊山と飯豊山」の民話に出てくる「姉妹の嫁ぎ話」が…ここ遠野では「三姉妹と三山」になりかわっていた。まるで筋書きが重なり、おや?と思った。いつの日にかこれら三山に登らねば…と心に懐いて月日が意味なく経つというのも 三山を目指して登る一つのキッカケとなった。

遠野三山の一つは言わずと知れた早池峰山であり、さらに一つは鉄梯子の石上山、もう一つは六角牛山であるが そのニつ目、三つ目の山に登ろうとも思っていた。やり残してきたともいえる「遠野への想い」が私に登らせている山たちでもある。それで どうせ山に登るのだから、遠野の山に登りながら遠野の民話と「とほの」という言葉の響きそのものに身を横たえてみようじゃないか!ということになったわけだが、いずれ怖いもの見たさの範疇を逸脱することは決してないw

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”とほの”という言葉の響きに巨きな影を落とすものとして柳田国男の「遠野物語」がある。そこに書き残された多くの短編が遠野の文学者、民俗学者ともいわれる「幽霊譚の蒐集家」佐々木喜善の口述によって成就できたもの。その佐々木喜善の何たるかを探究するのに多くの教授、諸氏諸兄が当たられていることを改めて驚きとともに知った。ことに「会津学」でお世話になっている奥会津の「地方文化史・生活史の紐解き」をご指導なさった赤坂憲雄先生もまた遠野物語や佐々木喜善の研究に時間の多くをあてておられることも知りえた。

「遠野学 vol.2」で赤坂先生が「遠野物語における述者:佐々木喜善」をこれまでの評価とは違う角度で「怪談、お化け話で別の世界観を持った”学者”」として再評価しようとする向きがあると仰っておられたが 今現在それは「迷える羊」に喩えて”評価の際に立つストレイシープな立場”に それ「佐々木喜善研究」はあるようだ。これからもなかなか興味深い趣である。

そういえば 柳田国男と佐々木喜善とは「遠野のお化け話」の捉え方に根本的な違いがあるようだと何処かに書いてあったような?。どういうことか解りやすく誤解を承知で言い換えると…、柳田は全国の中での一事象として遠野の民話を記録したに過ぎないのかも?であり、反して喜善はお化けの正体である「怨念幻影 おんねんまぼろし」をグッと深く知って、専にそれを伝えようと柳田に口述していた、そこに両者間のギャップがあるのだろう…ということになるのだろうか。

こちらもさらに深く知らなきゃ「遠野のお化け話」が先に進まない(笑) 佐々木喜善の「お化け談」「幽霊譚」に耳を傾け、「オマク」「念惑」「怨念幻影」という喜善の言葉に含まれる「幻影の素なるもの」を理解する方向で彼に向き合うことも「有り」と思った。山にも土地にも触れながらの良い刺激になるかも。

ところが、足の踏み入れ方が悪かったのか?はじめの一歩からしてどんどん深みに嵌りだした。先行き、今年のお盆の頃には現実お化けを見ることにもなりそな勢いだ。今から期待に足を震わせている(´艸`) ゆくゆく佐々木喜善と同県人で5年ほど親交のある宮沢賢治の理想郷「イーハトーヴォ」の世界観とも関連させ、佐々木喜善の「村民運動」などにも触れながら彼の人柄を見てゆこうと狙ってもいる。おもむろに「遠野学」も齧って行こう…と夢は描かれる。しかし「門前の小僧」であることには違いないので、これからも間違いは多々あるのだろう…それも愉かし・をかし、途上人の常であると諸先生方にはお赦しを願いあげるものである。

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「とおの」という言葉の響きを持ったこの町。東麓にたつ六角牛山より眺めてはきたが、南部の殿様が城を構えたその裾野に四方から流れが集まり一つになる豊かな盆地の姿がわかる。馬による物資・木材の搬送が生業としてあった時代から現在まで時計の進むスピードがゆったりと流れた街。だからこそ佐々木喜善の人柄が育まれたのだとも思う。そのせいか、彼は東京で女性たちにモテモテだったという(´艸`) 都会に在っては、少し吃りながら岩手訛りで話す彼のお化け話を聞けば…その周囲は時計の針が一瞬遅く進む不思議さに虚を突かれ、ついつい母性をくすぐられるのだろう。その鈍臭さの残る人柄に惚れた、、、という人もいるくらい。

昔話の宝庫、そこいら中の川の淵に河童が棲んで(遠野市の文献では常堅寺を含め20箇所ほど淵が数えられた)、「マヨヒガ」の昔話が語られ、重く暗い居間に「座敷童子」が顔を出す、その幻覚めいた物語をあたかも実話のように、そう日常性に転化できるほどに、「日常と非日常、夢と現実の境界が曖昧になっていてヒョイと越えられる」感覚がありそな?”土地のユーモア性”が確立されているからこそ、「遠野」を懐かし味のある「とほの」と世間に云わしめるのだろう。

遠野」というキーワードにストーリー性を持たせた会心のだった。幸いにして六角牛山に登った折に、SL銀河号の汽笛がボー、ボー、ボッボーーーと山裾の遠くから聞こえてきた。遠野の遠野たる情景に懐かしい「音色」も添えられたことで「心象風景・遠野」がより深く我が心に刻まれたのかもしれない。 そうか! もしかするとそれは 「とほの」の河童たちの土産だったのかもしれんなぁw どんどはれ。





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by tabilogue2 | 2018-05-07 23:09 | 花巻 遠野 岩手 | Trackback | Comments(0)

宮沢賢治と地人協会

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当時の時代背景、政治と当時の人々の暮らし向きを充分に理解していないので此のページは写真だけ貼って 内容は保留にしておくのがいいのかも。労農運動とも社会主義とも関係するのだろうが それがどんな風に花巻 賢治に関係するのか?この時代は民主主義が未発達で 未知なことが多いし「排赤」の運きもあって 今の世ではあり得ない言論統制など 自由主義が蹂躙されていた時代。そんな時代背景に 凶作の年に身を削ってまで農民のために尽力し命果てる そんな生き方。 農民楽団オーケストラも 化学肥料の調合も 法華経も エスペラントも含め これだけ「人間博愛の精神」に身を捧げられる素地はどこからくるのだろうか

当時の花巻、盛岡、遠野、、、岩手、東北、日本の農民全体に関わってくる問題も含め当時の社会状況の”根本的な理解”をシないと「献身という生き方」を語れるような気はしない この生き方が「ジョバンニ」に通じ 「銀河鉄道の夜」の夢物語に成るのか 今は 彼のもつ「世界観」を学ぶことが 後世の我々ができることなのだろう



現代なら、、、
民主的に政治を司る権力の構築に献身する政治家または指導者
ということになるのかな?

「アベ政治」ではありえないこと




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by tabilogue2 | 2018-05-07 18:29 | 花巻 遠野 岩手 | Trackback | Comments(3)

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むかし…子どもの頃に観た映画 それは白黒の映画だったが。。。
今でも 心のどこかに引っ掛かっている…高田三郎くん
夏休み明けの小さな小学校に突然降って湧いて、嵐とともに去っていった転校生
「風の又三郎」と地元の子らとの交流を描いた宮沢賢治の作品  

このオリジナル映画は昭和15年に制作された日活映画もので
田舎の子供:一郎役は俳優の大泉晃さんだったようだ。 
その後 昭和32年に東映が制作した映画もあったようだが
昭和40年ごろ、中学生の自分が観たのが
そのどちらだったのか…は 覚えていない。

おそらく、というか
期待値も込めて、、、日活映画だったのだろうw
私が子どもの頃に観た映画、「風の又三郎」の不確かな記憶だ。

   

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そして 次に読んだのは 「よだかの星」
 
悲しかった・・・ ものすごい悲しい読後だった と、覚えている 
思い出してもいる いったいあの悲しさは 何だったのだろう? と

その後の人生で知ったのは・・・
敷かれたレールに抗うことの「虚しさ」とか
持って生まれた人の「運命」とか「宿命」 社会の無意味な「摂理」とか「さだめ」
そういったもの…「無情」を 中学になった自分は感じ取っていた
今の世代以上に 多感な少年時代だったようだ

賢治の「世界観」は 大人であってこそ知りうるものだからね
そういえば、、、「市蔵」って 何の比喩だったのだろう?



家の本棚には「少年少女世界文学全集」という分厚いシリーズ本があって 
当時 片っ端から読んでた(みたいだ)

少年少女対象の童話としてではなく 小説のように読んでいた
なかでもグリム童話は大人向けの本だったよ あれは

たしかに、、、
メルヘンを「童話」と訳すことによって生ずる誤謬(ごびゅう)は
きちんと捉えられていなければいけない
メルヘンは「民話」と訳すべきものだったと 今もそう思っている



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by tabilogue2 | 2018-05-07 12:06 | 花巻 遠野 岩手 | Trackback | Comments(0)

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2015年の冬に「会津学」vol.1と vol.2を読み始めて 2018年今冬でvol.5まで読み続けたことになる。
vol.1~vol.4、今号のvol.5も 奥会津に棲む人々の暮らし向きを「聞き書き」を通じて「昭和時代の会津」として知るところになり 
それは大昔のことではなく、つい先ごろまでの「爺ちゃん婆ちゃんたちの暮らし」なのでとても興味深いものだった。

読み物だから難解な活字がつきまとう、奥会津の方言が入り、独特の因習があり理解に困る場合もあった。
まあそんな時には、ご迷惑様でも発行元に電話して 仕事の邪魔をしながら 具体的な意味合いを習ったり  
まあ色々と活字以外のことでも教えて頂き  理解してきたつもりである。

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個人的に「岐 マタ」については 一種の「辻 ツジ」ということであろう…という自説をもっていたが 
それが「檜枝岐」や「羽後岐古道」を考えてゆくうちに、「辻」という捉え方で良いことが徐にわかってきた。
この特集で赤坂憲雄先生もおっしゃっておられたが、、、海のものと山のものとが出会うところ 
物々交換のために近郷の人々が往来し、「市」が立てば「辻」ができ、人が集まれば「巷」(チ)マタができる。

例えば、、、「辻占い」という言葉がかつて生まれた。 では、何故、「辻」で占うのか???
それは「辻」に立って耳をすませば 死者たちの呟きが聞こえ 何かを教えてくれるから…といわれる。
では何故?「辻」に立つと死者、亡者、亡霊の呟きが聞こえてくるのだろうか? 
ふだん「死後の世界」なんて考えたことがない、、、ので 次々と疑問が湧き上がる。読者の皆さんもそうですよね?

今回は「マタ」について 赤坂先生の考えの一端をうかがい知る。
岐 又 股 亦 俣 胯・・・それが「ミチの岐」ミチノマタ=「巷」チマタ を意味するものであり、
「辻」でもあり、、、「巷」そのものは 霊を葬る場所、葬送の場所・・・でもあったと先生はおっしゃる。   

柳田国男の『遠野物語』に拠れば、
村の老人は還暦になると「デンデラ野」(姥捨ての地)に追いやられ そこで死を迎えるまで「老」を生きた
よその地方と違ってか? 農繁期には村に出て来て農作業を手伝いながら現世の「村」と行き来する
デンデラ野から野良に出かけることをハカダチといい、野良から帰ることをハカアガリという。
60を越えた年寄りたちは 生ける亡者か? 

「異界との重なり」にも共通して、村という「生」の地を挟むように、一方に「老」の地「デンデラ野」があり 
その反対側に「ダンノハナ」と呼ばれる共同墓地の「死」の地があって それらが村を挟んで対になっている。
つまり、「老」と「生」と「死」とが横並列に捉えられていた ということになる。

「楢山節考」のように、”七つの山を越えたところに荒涼とした姥捨ての地がある”とされた考えとは対象的で 
生きている者の営みが見えるところに「老」の地「デンデラ野」があった…と語られている。 
「老」の社会と「死」の世界とが、「生」の地である村の隣り(村外れ)に地形的に並列にデザインされていた。

つまり この世とあの世の「堺」を行き来するものたちの声が聞こえる場所 であったり、
この世とあの世の「境界」、魔物や病から村を守り 魔物を村から追い出す場所(境界)であったとされ
「境界」とは「異界」への入口でもあり、この世とあの世が重なり合う場所、そこが「巷」「辻」だと。

前述の「辻占い」の意味する疑問を「異界との重なり合い」という角度で捉えると 自ずと答えが出てくる。 
なんかとてつもなく「世界の果て」に旅するその門に立った境地で今特集を読んだ。
じつに不思議だった。いや、不思議な「死・老・生」という”終生の旅”だった。。 
境界を「線」で考えがちの今の自分であったが 昔の人はそれを「点」で考えていたようだ。

「軒下」という言葉があるが それは屋根が防いでくれる雨との「境」、ここにも意味が含められている。
家の中にも「扉」と「窓」の違いがあり、「扉」は異界へも行き来できる入口だが「窓」は外から入れぬ境界。 
ただ同じ境界でも「壁」とは違っていて、「窓」は内から眺められるという、つまり「異界」をである。
壁(境界)に開けられた異界を眺める穴」それが「窓」だということ。この考え方が面白かった。

つまりは「生」と「死」とが 「点」という境界であらゆる所で「異界」と通じていた。
家の「敷居」を踏まない、何故なら敷居は「境界」だから。。。あの世とこの世の重なる場所。。。
などなど 昔から言われる「暗示」「ことわざ」の意味を 「マタ」を通じて色々と教えて戴いた。
「マタ」について 日常的に言い伝えられ崇められてきた「異界」をわれわれ一般読者が考える切っ掛けになれば 
この話の続きはさらにおもしろく展開するはずだ。

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山形県小国町金目のマタギ猟の現状と今後のマタギ猟について 
現代マタギの「種の保存」と「乱獲」についての一考が興味深い。
昔からの熊皮の「抜荷」の背景考察。
江戸時代の文献にこそ載ってはいないが現存した「抜荷」を紐解くのが面白かった。

何度も何度も同じページを前や後ろに戻りながら理解を進めてゆくので じれったいのであるが 
五巻まで読んでくると いざ読むに当たっての「苦労、苦痛めいたもの」が薄らいでくるのは確かだ。
これからも 初刊に戻りながら何度も往復して 読み耽りたい冬の読み物になることだろう。






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by tabilogue2 | 2018-01-26 11:24 | 会津学 | Trackback | Comments(0)

地域山岳会の方向性

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やまびと 1988年 30周年記念誌

2015年に書いた記事を見直してみる・・・



●地方山岳会の氏素性とは

地域山岳会と名がつくからには 地元に根付いていなければその名は使えない とか 東京に籍を置く山岳会だから全国に行くしかない とか。 仙台という地域山岳会だから 栗駒 蔵王 二口が中心になるだろう・・・とか そういうわけではないのだが 

地域に根差すということは、根本的な「地域」という拠りどころがあるという前提だ。つまり過去においては「氏素性」が明確であるということだった。 これがネット社会となり コピー文化・トレース文化の横行となれば 東京でも大阪でも仙台でも皆一様に 同じ有名どころの谷や山を登って 皆一様に同じコースを記録に落とし込む 
、、、だとして、そこには 「らしさ」がなく、ローカルだからこその「面白味」がない ということになる。

それこそ ネット社会での「知り合い」がまさに元来の「友人」であるかのように、知り合いと友人とでは大きな違いがあるのに・・・画一的にイコールに近い。その意味で山岳会も昨今は「氏素性」「所番地」「根っこ」が分からなくなってきている。


●金太郎飴ならブロガーには敵わない

どれを観ても 同じ山で 同じコースで・・・まさに記録は個性喪失、金太郎飴だ。まして地方の小さな山岳会の記録は文章巧みなブロガーにも追われ、消えゆくのみになってしまう。ここで、「一考」が必要となる。 

つまり、、、逆をいく。 今このような時代だからこそ「おらが山 おらが谷」を強烈に愛し、通いに通って愉しみつくす、そのような活動をすれば 地方山岳会の生き残る道は前途洋々な(?)わくわく感が出てくるのではないか と。

個性を大事にしなければいけない という「呪文」を云っているのではなく、日常の活動が「地域 地方」に大きく偏ってる、意識的にどっぷり地域・地方に大ブレな活動をする、そんなローカル性を前面に押し立てた山岳会じゃないと今後は生きる道を失う ということだろうか。 

もしくは、会活動から解放され「同人」となって難易度も興味度も高い沢、岩を追うだけになるか・・・?とはいえ、、、ゴルジュ記号の毛虫マークを追い求め、難易度をしめす5+などと記号を愛してばかりいたのでは(個人の興味は尽きないとしても)山岳会として、組織としての面白味は消失するのではないか?、グレード記号の世界に「人間集団の雑味、面白味」が滲み出る、味わう余地はあるのだろうか という問題が残る。すでに「同人」の域に存在する会は論外ではあるが。。。


●山岳会の進むべき方向とは

これら地域山岳会の発行する会報誌を読んでいると、40年、50年の「重みと危機感」がおしなべく巻頭言に記されている。併せて 今後の方向性も各会みな同じように示されている。共通することは、何故に半世紀以上に亘って会活動をすることができたのか?という「総括」だろう。

そこに今後の生き残りの答えが示されている。地域性を尊重し、それを会の個性だと言い切れること。それと現代にマッチする組織の軽さ、軽快感を持つような組織にするのが一番ということ。北ア 南ア 谷川 上越が気になるのではなく それを越えうるインタレストな活動が地方山岳会活動に見いだせればよいこと・・・これら3点だろう。

登山活動の活性・活発化のほかに 人間関係、会運営に関してもどんどん若い人に任務を振り分け、組織に軽快感をもたせることも重要になってくる。「自分のため」と思える「会活動の高揚」が期待できさえすれば、、、すでに御の字なのである。


●雑感だが

今の世、若者・女子が普通に山岳会の扉を叩いているんじゃないのか? 僕らの頃にはなかった現象が いま興っているということだろう。入会者の増減は会活動の活発化に比例すると以前にも書いてきた。ブログを逆手にとって利用する、どんどんブロガーに変身する若手会員の身軽さも 今後は重要になるんじゃないかな(笑)



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峡彩
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くちなし
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すかり
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ふみあと
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語らいの山々
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南会津郡 西部の山と谷
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南会津郡 東部の山
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溪 1991年 創立20周年記念号
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やまびと季報
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神室岳 深野稔生 著














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by tabilogue2 | 2017-06-03 08:26 | mount | Trackback | Comments(0)

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しばらく更新すねえでいだったもんだがら~昔の記事を前にもってきてみだぁ
ちょっくら 読んでみでくんち~♪  

次の登山は東吾妻なんだげんと 鎌沼の雪 解けでっといいな~♪
東吾妻から鎌沼の写真とっかな~ て思ってんだげんちょ
どんな あんべえだべがぁ?

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*会津学研究会」とは? たとえば・・・こんなところ。。。



奥会津・昭和村で 節約することを「カボイカタ」という。
現代の言葉に言い宛がえれば、”かばう”「庇う」に該当する。

集落の周囲の山(コナラ林)を伐り、薪を燃やし、湯を沸かす・・・
風呂のことだが、新しい水を張った風呂は「あらゆ(新湯)」といい、
翌日にまたその水を汲み変えずに湧かせば「たてかえし」。
三日目に水を入れ替えると「二晩でたてかえす」という。

新湯は 熱量を必要とすることから薪の使用量が多くなる。
「たてかえし」は新湯より薪の使用量も少なく、また使用する水も量が少なくなる。 
我が家だけで風呂をたてずに、村の家では数日おきに風呂をたてることとし、
そのかわりに 隣家に「もらい湯」に行くことも多かった。
そうして集落全体で使う薪を節約した。
これを「木をかぼう」といった。(木をかばう。薪が減らないようにする) 

県北の福島でも同じ。
福島では「たでげえし」と言っていた。
あら湯は「シンキ湯」とそのまんま呼んでいた。
家と分家の関係筋では本家に風呂を貰いに行った。

木をかばう 米をかばう… とは、
誰の立場で 何を 大切にしているのか?というのがわかってくる。


米の減りを少なくするため、トチの実をアクだしして混ぜる。
それを「コメかぼい」という。
ダイコンの葉を乾燥させて、コメに混ぜる「カテメシ」もよく食べられた。
主食である穀物、とくに米を節約する。
秋に収穫した米など穀類・野菜を節約するために、男衆は冬期間に地域外に出て暮らす(出稼ぎ)

そのことで自家の穀類等は減りが少なくなる。
こうして自家の「米を節約する」のである。これが「出稼ぎ」の主目的であった。
「雪が降ったから コメカボイに行ってくっかあ、、、、」と語られていた。 

戦前までの出稼ぎの目的は自家の「食料の節約」であり、
「得られる労働報酬よりも 冬期間に他地域で寄食することに主たる目的があった」。
それは「会津の茅手」と呼ばれた茅葺き職人としての出稼ぎでもあったろうし、
漆器商人としてでも、あるいはホイド(物乞い)として
無雪地帯を冬のみ、物乞いして歩ということでもあった。
そして 雪の解ける春先に集落に帰るのである。
南会津郡はまわりが山ばっかりで 田畑の耕作面積が限られ 
なかでも 水耕田となる土地はごく限られた地域だけ 他は自給する野菜畑だ。


*会津学研究会」とは こんな伝承・記録を今の世に遺している集まり

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ここからは 私、もときち本人の小さい頃の話(´艸`)

福島・伏拝(ふしょおがみ)の母の実家では・・・暮れにホイドが家々を回ってくると、
必ず裏木戸に回るように声をかけて 
婆ちゃんが黒札(拾円紙幣)と米、豆などを
手拭いを縫い合わせたけの「手拭い袋」にザーッと一生升分けてやっていた。

福島・佐倉の実家では・・・裏磐梯・木地小屋辺りの人が
座敷箒や笊、桶、竹籠などを天秤棒に下げ各家を回って売りにくる。
お袋が庭に出て品定めして、箒は2本、笊や桶は2個つ、
まとめて買って、さらに 米を分け与えていたのを覚えている。

その人たちは 日ノ倉橋という荒川にかかる橋の下で、
ゴザ掛けして仮小屋をつくり煮炊きし寝泊まして 日中は曲物、木地椀を売り歩いていた。
その仮小屋には子供もいたが、学校には通っていなかった。
日たって橋の下に行くと、橋の下のゴザ掛け小屋はなく、
供も、大人も消えていた。昭和35年ごろの話。
小学4、5年生の頃だったな?少年時代。

サンダラボッチ」とかって一種の「不思議」な世界観をもった人たちが暮らす
「山窩」とか言われる人たち その「文化圏」を守ってるみたいだった
その人たちは「流離の人」というイメージもあった。

実在するとかしないとかではなく 子供心に湧いた「イメージ」なのだが、、
そのイメージと木地小屋の人たちとをこかで結びつけて見ていたよな気がする。
思えば それが「差別意識」だったのだろう。
大人が持てば子供の心にも どことなくそれが映し出される。

それと「牛買いの博労」たちが来ると「女子供がさらわれる!」という噂が流された。
牛を買い集めて県北から県南、宇都宮の方へ牛買いたちが渡り歩くのを
子供心に怖ろしげに「夢想」したこともったかな? 実際に見たわけでもないのだが。

「人さらいが来て サーカスに売られるぞ!」
遅くまで遊んで家に帰らなかった子らをそうやってたちはたしなめたんだなぁ 
って、大人になってフンフンと分かってきたもんだ。

木地小屋部落も、牛買いも、サーカスも 「差別用語」だと知ったのは
「橋のない川」いう映画を見てから のことだった。

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口暮(くちぐらし) 出稼ぎのために他国に出て暮らすこと。
「鋤取(すきとり)=働き手の長男」は口暮に出て、、、帰村しないものも多い、、、
つまり食糧が無くなり、生きるために冬期間に家を空ける。
食べ物を得るための行為であるから 物乞い(乞食 ホイド)も含まれると思われる。

伊南伊北(いないほう)地区、現在の南会津郡伊南川から黒谷までの流域では、
「若者どもは 関東へ口竈(くちかまど)にまかり出た」とあり、
冬に「口減らしのために出稼ぎに行く」とのことを言っていた。

「クツギ」  
富山県五箇山の話。明治までは、一人前の若者は「クツギ」に出た。
家に食べるものがなかったので、冬はどこへでも行って 働いて 食べさせて貰う。
クツギに行くと、盆にはたいてい夏着と五尺五寸の白木綿が貰えた。
お盆に家に帰ってきて、この新しい夏着を着るのが何よりも楽しみであった。

・・・とまあ、「奥会津の暮らし向き」がどんなに大変であったかを知る、
「語り伝えられる資料」である。
これらの「学び」をせずに会津は語れないし、
現代生活がいかに飽食をもとに日々暮らしが営まれているのか
知るきっかけにもなる。

伝承を学び知るのが「*会津学研究」の一端と。
当面は研究会の刊行本を読み漁るだけだが。

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以下は「*会津学研究会」の「会津学」による


トチモチ(栃餅)は、「コメかぼい」どいう。
昭和のはじめのころまで、秋上げは三斗五升で一俵。六から七人家内で一冬喰った。
大正期までは耕地整理をはじめ、コメがとれはじめた。大正の十二・十三年ころ開田した。
湯ノ花で田ができたのは百年たらずと言われている。

塩ノ原と熨斗戸は田どころだ。 
うちのジサマはよく「コメは塩ノ原から持ってくっからいい」といっていた。
トチはトチガユ。灰汁に入れ煮たものを、「米入れ粥」にして喰った。

トチモチは、ヤマノクチ(入山解禁日だけで、一から二俵も拾った。
留山(入山禁止)になっていて、お彼岸のお帰りの日がヤマノクチで、その日から拾える。
トチとカヤノミがそうだった。 
(ゼンマイ わらび きのこ 茅 雑木など 大字単位の地域ごとに入会権を仕切っていた) 


昔から温泉がある。

湯の利用はトチノミのアク(灰汁)だしで湯に浸けた。流水のより早く灰汁がぬける。

共同浴場は三十四人の共有だ。利用している人で掃除している。

正式に集落に加入していない人は除く。一年のカカリ(経費)を払わない人は酒を買う。


イシクラにトチクボがある。

タカモリにもトチがいっぱいある。粉をいって、「トチッケイ」をよく食べた。

ツッツメ(つっつめ)という燃えない丸太、太い丸太を燃やして、アク(木灰)をとった。

アクがたんにぇくなっから、アク抜きに使ったアクを、また、ユルイ(いろり)に入れ、乾かして使った。

トチは何俵も拾ってた。

(1986年2月16日、金山町上野沢 若林武喜さんから聞いた話)


カブの食べ方は、カブ漬け、煮ても食べた。ご飯を少し入れカブ雑炊。

そばがきが中心。煮たカブを温めてそばを入れて練りつぶす。

カブの菜は、干し葉にしてカテメシにするし、おつゆのミとした。

ぜいたくな漬け物として身欠きニシンとカブ漬け。

身欠きニシンは三センチくらいに切って、カブと一緒に入れた。

葉っぱと茎を少しづつつけて、丸ごとつけて八十八夜の雪溶けたあとに食べるものだった。


ダイコンは丸漬けが長持ちした。

茎葉を少し付ける。丸漬けダイコンを千切りにして、納豆や豆腐でよごして食べるととてもうまい。

切り漬けダイコン、古くなって酸っぱくなったダイコン漬けを煮てカラシを入れて食べる

アザキダイコン(辛味大根、 ネズミ大根)。野生のダイコン。

そのタネをこいてきて、畑にまいた。花は六月に紫のが咲いてきれいだ。

荒らしてしまうと出ないが、耕すとまだでる。

ソバに負けない。塔がたっても食べれる。とってすぐ水につける。空気にあたると硬くなる。

からい、硬いので福神漬けの材料にはよい。

アザキダイコンは、外皮が固くて百年も腐んね。弘法様のお授けだ、なんていう。

食糧難のころ(戦中・戦後)、カテにしてよく喰った。

タネになる前に、おひたしにして喰ってもよい。


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この記事は 2015/12/03 ブログにUPした









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by tabilogue2 | 2017-04-21 10:14 | 会津学 | Trackback | Comments(0)

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今日も 仙台ゆうゆう館で油を売っていたら、この映画を観てきたばかりのお客さんが
興奮冷めやらない口調で ストーリーを 一気にまくし立てるものだから・・・
こりゃヤヴァイ ってなわけで、MOVIX利府へ シルバー料金で観てまいりました (25日まで?)

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ヒマラヤ山脈 「メルー中央峰」 にそびえる岩壁 ”シャークス フィン”
この壁は過去30年間 一人のクライマーも寄せ付けなかったキワモノ

コンラッド アンカー、常に冷静な彼が唯一私情を挟んでサミットに挑む・・・
世界のビッグウォールをこなしてきたウォールクライマー達による
ヒマラヤ未踏の”大岩壁”に挑んだ実録映画です(メインスポンサーはノースフェイスです)

今まで・・・、ヒマラヤに挑んだサミッター、ヒマラヤ遠征隊とは、まるで違う角度からの
アプローチ、そして企画、撮影がなされています 言ってみれば「私的なヒマラヤ登攀」です

1度目の登攀、、、
世界の屋根に挑む彼らは 90キロを超える登攀具、食料、テントなどを
ポーター無しで、自力で担ぎ上げて、ベースキャンプからルート工作をします 
無駄に資金をかけず、純に目の前の壁に命をかけた 3人のビッグウォールクライマー、

完登まで僅か100mのところで ギア類が尽き 壁を諦めざるをえないシーン
ギアを納めていた空っぽのツールバッグが 6000mの大岩壁を舞いながら落ちていく
このシーンの虚無感、、、「無情」を感じました ここが一番見応えあったかな 
この重要なシーンを いとも簡単にサラッと流してゆく・・・しびれました。。。

この映画は彼ら、登攀家の手による企画、撮影、自らの手に依って為された実録映画です
過去に制作された、どこかの国の、どこかの企業が提供し、宣伝までも仕組まれた
企画・脚本通りに撮影と編集がなされ 意図的に制作された「大遠征隊」の映画とはまるで違います

大掛かりな遠征隊を組むでもなく、5000mでコックが料理の腕を振るうわけでもなく、
医師が健康状態を診るでもなく、そんなド派手なベースキャンプシーンやら、
アタック隊との無線交信シーンなど これっぽっちもない 専ら「壁の中の3人」でした

2度目の登攀、、、
スポンサー企業の思惑に左右されずに、壁に挑む3人のクライマーたちの夫々の内面が
くっきり露出されます、関わる人間たちの内面に照準が当てられた珍しいドキュメンタリー映画でした
そう、これこそが、、この映画の魅力であり その無駄な演出を省いた映像が
ヒマラヤサミッターたちが有す葛藤を 純粋に「言葉」「動き」として前面に浮き立たせます



完登シーンでは 涙こそ出ませんでしたが、
この日に至ることを悟り、プロのクライマーを夫に持った婦人の ”「死辺」に佳人を送り出す気持ち”
しかも前夫(アレックス ロウ)を雪崩で亡くし、2人目の夫(コンラッド アンカー)は前夫のクライミングパートナー
しかも コンラッドは現在進行形のバリバリの登攀家 そんなビッグウォールクライマ-たちとの「関わりかた」、
じつは そっちの方に、強く胸を打たれました

世界の屋根に挑むクライマーたちの友情は すごく気高いんですね、、、
映画を見て、もしそれを察して頂けたなら 僕と同じ観点に一緒に立てたことになります

是非 ご覧になっては如何でしょう?


*コンラッド・アンカー

アメリカでもっとも著名な登山家のひとり。
ロッククライマーとして北米の数々の岩壁を攻略。
ラトックⅡ峰の西壁ルート登頂など輝かしい記録を持つ。
エベレストではマロリー捜索隊として遺体を発見した。

*アレックス・ロウ

1999年10月5日、チベットのシシャパンマで雪崩により遭難
アレックスはコンラッドの最大の友であり、クライミングパートナー。








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by tabilogue2 | 2017-01-17 19:45 | アラカルト | Trackback | Comments(0)

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「会津学 vol.3 」 発行人:会津学研究会 \1540

三岩岳に登った帰りに「道の駅かねやま」に立ち寄って 「会津学」3,4巻とを買ってきた。
冬に手に取る雑学書として もってこいの分厚さである (´艸`)

ようやっと雪が降って山は大荒れ、今冬一番の寒い日、今日は本を読めとのお告げか?手に取る時間がやって来た。
特集1「雪と暮らす」、特集2「会津に生きる」を一項ずつ 読んでいきたいと思っている。

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日中集落の人々が猟場にしていたというのは 現在の日中ダムの西側にそびえる日中飯森山(1595m)だ。かつて田を持たない日中の人々の生計を支えてきたのは山仕事によってだったという。春のシバ山を始め、炭焼き、山菜採り、カゴを編むためのブドウ蔓などの採取、秋はキノコ採り、木材の伐りだしなど、生活の中心に山があった。そして同時にこの山は飯森山神社を含め九つの社を祀っており(上から 飯森山神社、種播神社、子安神社、鉢伏神社、高倉神社、大倉神社、地蔵神社、薬須神社、小倉神社)かつては成人儀礼の参拝の山として、日中集落の青年団あるいは氏子が毎年参道の刈払いを行い守ってきた。こうしてみると日中飯森山は、日中の人々の生活と信仰を支えてきた大切な場所だったということが伺える。

日中飯森山のクマ狩り 遠藤 戌(まもる)さん

熊が生まれんのは寒中、1月下旬から2月初めの頃だ。4年に一度、必ずオス、メス2頭産む。たまにメスばかりって時もあったようだが、必ずだ。生まれたときにはパンダの赤ちゃんと同じぐらい。それを穴の中でおっぱいで育てるわけ。あんまり小さいのをちょろちょろ外に出すと目立つ。上の方ではクマの子をさらうほどの力を持ってるクマタカってのがいつも待っている。だがらその子を外に出すのは青葉が出て、上からあんまり見えなくなって、狙わんにぐなってからでないと出さないんだって、子を産む「ネス穴」はあんまり険しくないが天敵を防げる場所を選ぶ。そしてその穴のあんまり遠くない所に、水場があるっていうんだな。この日中飯盛山あたりの話な。

朝、暗えうちから待ち合わせ場所に集まって、その中の長老が「ジュンダテ」といって熊狩りの持ち場を決める。例えば大倉にいたどすっと(大倉という場所に居たとすれば)尾根の方に何人行け、「ホンブッパ」(鉄砲を撃ち手が構える場所)、「ナカブッパ」(中間の撃ち手の場所)にベテランが立つように決めていく。たとえば目立つ石があるところは「石ブッパ」とか「一本松のブッパ」とか、立ち場所を指示する。追い上げる勢子にも長老格の「セコゥ長」って配置を決め、「どこどこの沢からお前が出てこい」「どこどこの途中からお前が出てこい」とか、そうして包囲網をつくる。「巻狩り」って言うんだ。

ウサギを追う時は「アッアッ アッアッ」なんて言うんだげんとな、熊は「ホーイ ホイホイ」って高い声で追うんだ。目あて(尾根で見張る人)が見つけると「〇〇にシシ出たぞ-ーーっ」って合図する。シシつうのはクマのごと。次に「〇〇の方 強くがなれ-ーー」って(ガナルというのは大声を出すこと)指示が出る。熊は遠目が利かないようだが耳と鼻はよく利く。タバコの匂いとか絶対駄目な。熊は頭を高く上げて匂いを嗅いで耳を澄ますようなごとをする。テッポぶちなら声出すでないど と言われた。

合図は鉄砲の薬莢を笛にしたり、指笛。熊が包囲網を抜け出したときの合図は、見通しのいい場所で「雪の上を腹ばいで進む」。クマの真似をするんだな。それが見えた人は 何か違う動きだから・・・何かあったぞと気をつけて見るわけだ。クマが行ってしまったと言う時は「這って進んで歩いて戻る」それを何べんか繰り返す。そして「クマがここにいるぞ」っていう時は「這って進んで、また這って戻る」。それを繰り返す。そうして連携して「ブッパ」まで追い上げる。。。

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今では無線があるし携帯だってあるけど、、、昔は手合図 身ぶり合図で伝達していたなど 当時のクマの巻狩りを口述記録された本編特集がまことに面白い。時々 福島弁というか会津弁が混じって心地よかった。サワリを紹介しました。




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by tabilogue2 | 2017-01-15 14:09 | 会津学 | Trackback | Comments(0)

山田洋次もの・・・



一度観て もう一度観てみたいと思っていた映画が 早速TV放映された。「東京家族」 自分でもこのブログに読後感というか 映画を観た感想を書いたものだが あらためてそれを読み直して少し文節の不具合を直しながら 昨年、封切りの臨場感を味わい直してみた。

以下、昨年1月21日に書いた感想文を 編集し直してみた。

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 TVの宣伝に煽られつられ映画館へ、封切となったばかりの山田洋次監督「東京家族」をみてきた。それで、その映画のお尻部分から今日のブログが始まるので…、誠に申訳ない。

 込み上げてくる感情で泣き腫らした顔を他人に見られるのはイヤなもので、館内に明かりが灯るようになっても席を立てないでいた。終映の字幕エンドロールが流れるスクリーンに「この映画を小津安二郎監督に捧ぐ・・・」めいた文字がチラリと映された。遅まきながら「東京家族」の出自をこの時に知った。山田監督作品ということだけでシルバー料金の映画館に入ってしまったのでこの映画が生まれた背景や監督の意図など前知識の持ち合わせなど全然なかった。


 じつは 妙な感じがしていて…、演じるタッチが何かに似てるなぁ?と疑問符を周吉役に抱いていた。この映画を見終えるまでずっと、それが何かを思い出せないでいた。 で、この字幕でやっと、あぁ!あれは あの人の演技だったのか、と遅まきながらやっとモヤモヤがとれた。主演で周吉役の橋爪功さんは「東京物語」での笠智衆さんをイメージして演じていたのでは?と思った。いやいや、俳優さんをモノマネの如くに捉えるのはとても失礼なこと、が、72歳という人物設定にしては 過度な半ば硬直した仕草(失礼!)や、首をほんの少し回し顔を手向ける姿や、台詞をぶっきら棒に云うあたりはそれが誰かの演技そっくり!と私に思わせていた。字幕に映し出された「小津安二郎監督に捧ぐ・・・」の段になってやっと「誰か?」の誰がわかったのであるw。


 小津安二郎監督の映画「東京物語」。。。そこでは、淡々とした日常の中に当世風な世情をあらわす人物を登場させる。例えば、東京に暮らす長男や長女でさえも尾道の重篤の母を見舞うのに喪服を用意してから東京を発つ、こんな風に70年前の都会人の当世風、合理性、割り切り感をドライに演じさせている。現代風な感覚や見方で この映画を観れば けっこう面白く受け取れる当時の白黒フィルムだ。

 また70年前の太平洋戦争や2年前の東日本大震災、その時代、その時代の象徴的な大事件にあって、「まとまっているようで、じつは崩れやすい、いつかは離別するもの… それも家族の一面」というメッセージを観るものに残してゆく。それを如何にとらえるかは受け手の問題であるのだが それは当映画で周吉夫婦の東京旅行での妻の急死にまで急展開させる中、家族という安心の中にも崩れやすさのある「繋がりの脆さ」として映しだす。

 監督の作風の違いとでもいうのだろうが、小津映画のもつ淡々さに山田映画の温かみという一味をふわりと加えたことが映画に表れ出る。たとえば… 旧いFIAT500を登場させ、その旧さに愛着を持つ次男の「ほんのり」感をキャスティングさせたり、母と初見の紀子(次男の恋人)とを一晩で意気投合させるあたりに「温かみ」や「未来」とか「明るさ」といった期待感を一条の光として差し込ませる。さらに瀬戸内の島、実家の隣りに住む少女役の投入により島に残る孤老周吉の明日が朧気ながらも「生活の再生」として先行きの展望が映し出される。大きな違いといえば 戦争未亡人という過去を背負う小津映画の紀子(原節子)と、二男との明るい未来を描く現代版山田映画の紀子(蒼井優 )との対比、独居老人を温かく包む島の人たちの登場などもそうであると思うが、小津映画と山田映画との違いは随所に散見できた。


 違いはともかく、2つの映画で共通するのは「都会と田舎」という古典的対比をしながら人の暮らしや生き方、考え方を捉えていることであるが 1953年、昭和28年に戦後の混乱を経て作られた映画と平成24年、東日本大震災を経て作られた現代の映画という関連で、山田監督が明確に加えたのは大震災被災直後故に「希望ある未来が見えるようになること」に思える。二つの映画を通して 未来を見つめる先が どれだけの明るさを持って どれほど遠くまで見通せるのか、その違いがわかってくる。と同時に、それが映画に保たせた「時代性」なんだということも 受け手は気づかされ山田作品の理解に深みが備わっていく。

 70年という時を越え、山田映画「東京家族」に加味されたのは「希望ある未来性」だとすれば、孤独となっても東京の息子たちを頼らず慣れ親しんだ土地に生き続けるという周吉の姿が印象的になる(私自身の老後を準えて共感もする)。またこれを 震災後に再生を誓う被災者の姿に重ねてしまう。さらに再生という点では 亡き妻の時計を周吉が紀子に形見分けする、周吉から家族として繋がりの芽を託される紀子。などなど「家族の再生」ひいては「地域の再生」を意味している。「東京物語」には著しえなかったものを平成という時代になって「東京家族」に加味された。その意味で つくづく映画というものは「時代性」を担わされているものだと思わされる。


 この映画を見て原作に遡ってゆく思考法もありかもしれない。山田洋次監督の現代版東京物語 「東京家族」。ぜひ映画館に出向いてあなたの乾いた心をご自身の涙で潤してみてはどうだろうか。あれから2年などと軽々には言えないけれど 是非とも震災時の想いをこの映画に繋げ、地域の未来までをも見とおしてもらいたいと思う。 つくづく 過度に発達する文明社会は人の暮らしの密な部分、たとえば「繋がる」という人間の文化度をも低下させるものだなぁ と思ってしまう(完)


2度目の感想
それにしても 今あらためて気付いたのだが・・・「日本の茶の間文化」を屈託なく著しだせること、見る方も素直に「ちゃぶ台のある6畳間」に展開される芝居に魅入る などというのは「昭和世代」の独特の感覚なのだろうか? この映画ではそんな昭和な自分自身を観察する良い機会にもなったかな。 もう一つ 山田監督の目には「家族」という視点と もう一つ「地域社会」という大きく広い視点があるんだということも あらためて理解しえた。







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by tabilogue2 | 2016-12-19 12:22 | アラカルト | Trackback | Comments(3)