ええと、、、デジカメで撮った撮影枚数が多く すべて「峠路記録」として撮ったものなので なるべくブログに残そうと意図しております。石巻市芸術文化振興財団・阿部和夫先生の冊子に準拠しながら前編 中編 後編と三部に分けて再構成しようと画策中です。少し 完成までお時間をいただこうかな?

阿部先生の冊子によれば、、、宮城県の県北、桃生郡中津山に在籍した仙台藩黒沢家中89名が戊辰の役・北越戦争に藩命で出征したわけですが、その歴史は前編(中津山の侍たちと北越戦争)に記しました。「八丁沖の戦い」で仙台藩黒沢隊は隊長である家老の八木高明を失い、小姓組の鈴木惣兵衛、若山粂之介、徒士組の鈴木昌之助が落命しました。特に八木隊長は胸を撃たれ、さらに頭を撃ち抜かれ即死でした。7月28日(新暦の9月14日)に黒沢隊本陣である善昌寺にて葬儀が執り行われました。この日は戦中唯一の安息日となりました。楽兵隊も「悲しみの極み」という追悼曲を演奏したとあります。 現代も近代も古代も 出征は大変な苦労です。

そのご、新発田藩の寝返りがキッカケで戦局が悪化し8月1日から6日にかけての総退却、会津・只見への撤退が始まったわけです。撤退するその隊列に長岡藩 米沢藩 会津藩 庄内藩 仙台藩がいたわけで、黒沢家中85名もみな八十里峠を只見へと渡ったことになります。 

25000人の大移動、、、近代日本史における初めての「難民」状態ですね、これは。。。


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「椿尾根」

5:00 三条市下田吉ヶ平(よしがひら)を出ました。真っ暗で、おまけに霧が出て、霧がヘッドランプの明かりに乱反射し視えにくい状態でした。空には月齢26の三日月が浮いてるだけ。。。他には何にも見えません。新築なった小学校分校跡も見えません。分校跡の橋を渡って雨生池(まおいがいけ)分岐へ黙々と進みます。途中、かつてあった集落の面影を残す墓石群もライトに照らし出され、それらは鎮かに並んで在りました。

山道となり 右側が極端に崩れている崖トラバースが続きます。暗くて、しかも「大滝沢」右岸尾根で100mほど落ち込むところ・・・要注意な箇所です。

6:00 「番屋山」への登り口=「椿尾根」に着いたのですが、明るみ始める一歩前、しじまの中。写真はデジカメなので無理やり明るく現像させておりますが 実際には薄暗い山間部の「椿尾根」です。

失明して右目が見えないので、右岸沿いに登り進むのは不得意です。慎重に落葉で埋まった登山道を進みます。時々、沢水が過ぎっておりその都度グチャッとなりますが無事通過。暗い空も薄らいできたかな?という感じになってきては・・・います。直進する登山道に左右から「天保古道」や「明治新道」が交わってきており、その白い「案内看板」が闇の中にいきなり照らし出され慌てます。一度でも白い看板にヘッドランプが当たると真っ暗の周囲に残像が強く残り、さらに暗くなるので歩みを邪魔してくれます(´;ω;`)


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明るくなった「番屋乗越」への道

7:00 出立から2時間経過、、、切り立った崖でかなり慎重になりました。目がクッキリ見えないんで、、、ナサケナイ仕草ですが 左手を斜面の草木に添えながら「亀の歩み」でした。撮影できない危険なところばかり。。。撮れている撮影地点は安全な地点ばかりですけど・・・w


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山神さま

無事、「番屋乗越」(ばんやのっこし)手前の山神様に辿り着き 手を合わせ無事を感謝し これからの更なる無事を祈ります


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7:00 「番屋乗越」。。。 最初の関門 突破です



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ここからは北東面の明るい斜面に変わります。ブナ沢左岸尾根トラバースで「利かない右眼が 利く?」のでwww 精神的に楽になります。工事現場が見えてきました。橋梁が80mほどあるという難関の現場です・・・うっすら わかるかな?


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画面中央 工事中の新国道橋脚が見えますが・・・みえますかね?

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「火薬跡」

火薬で破砕開削した明治新道の岩壁(明治27年) ダイナマイトを仕掛けて開削した跡ですが数本ほどダイナマイトを刺しこんだ跡が確認できました


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守門岳(山頂は右端)を北側から

山頂左端「袴腰」に連なる 長い屋根型の守門らしい頂上稜線が見えます


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刀掛け

烏帽子岩の刀掛け(ギザギザ尾根)を北側からシルエットで眺めます

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7:54 ブナ平

樹齢300~400年ほどのブナが並びます。別天地ですね。 ここに「テント張れたら いいだろなあ」と異口同音。。。

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迷いやすい地形でした。 道が幾重にも つづら折りに二重になっていたりして、、、たぶん道を造り直していますね。平坦なブナ林・・・黒沢隊一行は癒されたのではないだろうか???生き延びよう って思ったんじゃないかな? そう思えるほどの豊かな林です。


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横から「天保古道」が交わります じっさい迷いますよ、ココ。。。測量のピンクテープが左右にはためくので 間違ってしまいます。

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8:12 ぶな沢からブナ平を仰ぐ


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2011年秋の大水害で大崩れし ダム湖ができるほどに・・・。


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8:30 高清水沢


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この石積みは 高清水沢の次に出る枯れ沢に組まれた橋脚の一部と思えるもの 


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橋の遺構は長さが20mを超えている 途中に2箇所の橋脚が在るようだ
太い材木を渡して細い枝木で隙間を詰めて土をかぶせる、、、 いわゆる土橋




(中編へと続く)




朝5時に下田の吉ヶ平を出まして…只見の叶津番所に3時着で、踏破に10時間。普通に歩けば12時間なのでマズマズかな? でも、、、まずは覚悟を決めて途中一泊する日程的な余裕が無いと 愉しめないし肉体的にも厳しいですね。月2回登山の私でさえ足腰に来ちゃったほどなので・・・午後3時を回ったら「野営する計画」がケガをセず、転落もせずに安全だと思います。水場はいくらでもあるし テントサイト適地もそちこちにあります。

最後5kmのアスファルト国道歩きで、腰に来ちゃいました 歩けど歩けど平石山の尾根裾になかなか届かない、最後は黙々と歩く覚悟が必要です。








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by tabilogue2 | 2018-11-07 06:49 | 八十里越・下田 | Trackback | Comments(0)

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粟ヶ岳です そこから右へパーンすると・・・ ↓ となります

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奥の中央に青里岳 奥の右手に矢筈ヶ岳 手前左手に光明山 手前右手には五兵衛小屋

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8:19 空掘小屋跡
右手に鞍掛山を臨みます。此の左手に中ノ又山があるわけですが それがこの写真の左の山なのか通いが足りなく同定できませんでした。「空堀小屋」からの絶景 すこし明るくなりすぎましたw絞りに注意でしょうか。


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9:06 桜の窟 さくらのくつ(いわや)

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9:16 殿様清水 
清水が湧きだしています ここからトラバースが鞍掛峠まで続きます

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烏帽子山の「刀掛け」岩  殿様清水にて

この荒涼感はスラブを多く伴った越後山脈の代表的風景からくるものです けれど宮城県中津山の田舎に在るたおやかな田園風景と岩手丘陵地帯標高200m前後の山と比較すれば とんでもなく、殺伐とした光景として心に投影されたのではないだろうか?と思います。峠路に迫る岩壁なんて宮城県にはありえませんし、あっても七ヶ宿や関山から見える蔵王連峰ぐらいでしょう。


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鞍掛山が みえてきたぞ!


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八十里越の未踏部分は越後側の田代平までなので、
今回の主目的でもある鞍掛山に、あそこまで行けば・・・残る行程は以前にも歩いている。
朝の路程ほどの緊張は和らぐはず あの山からは少し安心して歩けそうだ


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9:47 鞍掛峠

殿様清水からだらだらと斜行トラバースが続き 最後30mほどの直登に耐えればそこが切り通しの「鞍掛峠」です。9:45 粟ヶ岳を眺めながら休憩でした 見通しの良いところですね! 「八十里 こしぬけ武士の越す峠」 越後の景色との今生の別れ、、、つまりは 我が身の果てを悟っていた河井継之助が最後に ここで自虐的な句を詠んだと言われております。
退却がスムーズにできたのには殿軍を務めた長岡藩士:山本帯刀の功績が光るようです。地形的にも わずかの兵士で充分守りきれる「地の利」の在るところでした。峠に至るには30mから50mほどの急斜面が続きます。敵を迎え撃つにピッタリ!、城壁のようです。



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鞍掛峠
戦いとは違った趣で、、、「峠路の情緒」をもった風情のある峠でもあります。ここに立てば、「峠歩き」の趣向にどっぷりとハマる・・・気持ちが理解できます。峠路歩きといえば・・・「南会津山の会」の諸先輩を思い出します。特に中西 章さんの「峠」がいいですね。



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小松山の横手、すこし手前で烏帽子山と白い守門岳の「袴腰」


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10:24 ここが見晴らしの良い「小松山の横手」


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小松山の横手から 裾の広がりを見せる浅草岳


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10:59 田代湿原と黒姫山

中層湿原のようです ほとんどが茅でした。 
背高い夏草が邪魔をして、落人たちは この田代には気づかずに通り過ぎたかもしれませんね。


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守門岳の袴腰

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11:34 木ノ根峠

 ついに着きました 25年ぶりです 会津と越後の國境です。


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木の根茶屋跡


仙台藩 桃生郡中津山の侍、黒沢隊が越後を撤退し会津に抜けるわけですが、、、その越後側の八十里越、これが凄いところでした。もともと荷車が通れる一間幅は確保されていたのでしょうけれど 越後側のトラバース道はすっかり雪崩で消えており 高さ数十mからの崖の上にしつらえられた路肩の落ちた細道となっています。一歩滑らせれば ”行ってらっしゃ~い” みたいなところが続きます。隻眼では、残る片方の視神経に支障が出たらそこでアウト、ヒヤヒヤな場面が続きました。隻眼って、つくづくバランスに泣かされます。






● 柴倉峠  

峠に立つと樹間越しながら展望が開けた。
すんだ空の下、大河只見が流れ輝き、
その川畔の先には はるばると南へつづく
緑の明るい野山がある。

雪国に住む人は、冬になると
いつも暖かき南の大地に想いを馳せるという。
交通の発達した今日では、さほどの隔たりとは思えぬが、
こうして二つの峠を越してみると
昔の野沢の人々にとって、
津とは温かき幸せの棲む国だったのかもしれない。

中西 章(南会津山の会)




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by tabilogue2 | 2018-11-06 13:46 | 八十里越・下田 | Trackback | Comments(0)

越後側の崖トラバースに続き 会津側の田んぼのような泥んこ道が続きました。これについては前回の経験がありましたもので 最初から長靴なので支障ありませんでした。もっとも新潟県民お得意の「スパイク長靴」でさえ、草ツキに隠れている木の根やそれこそ岩で躓きやすくて一気に崖下へと頭から落ちた例が報告されているので 余計に迂闊には進めないところばかり。枯れ草や落ち葉の溜まった道を足で探りながら 斜面の腹をトラバースするので、だんだん神経が殺られて疲れてまいります。次から次へと小沢や小谷が現れ、粘土道を登ったり下ったりすることの連続だから、、、長靴のメリットを感ずる暇もないかと思います。



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「小松山の横手」からの眺め 左手に「すだれ岩」をかかえた「黒姫」 雪をかぶった三角形の守門岳の「袴腰」 右手に「烏帽子山」。守門岳を東面から眺めると・・・三角形に見えるから不思議な山ですね いつもなら「屋根型」なんですがね。


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11:34 八十里越の木ノ根峠

こっち手前側が越後 向こう奥側が会津です。まずは、「八十里越」後半を画像で雰囲気だけをお伝えします。簡単に言えば、今回越えた峠から只見側は・・・明治新道(明治14年、明治27年と2回の普請がありましたが)なので、実際この道を「侍たち」は通っておりません。この峠ですが、2枚目の写真左手の上段にはその昔、お助け茶屋が2軒ありました。戊辰戦争のときは負傷者の救済所になっていたそうで、足に銃弾を受け創痍の河井継之助は負傷者でごった返す茶屋に「入るわけにはいかぬ」と入所を遠慮したといわれます。担架に横たわったまま、雨降る外で一晩過ごしたと言われています。「戦争やむなし」とした意思決定の責任者ですから、藩士やその家族らの眼が「恨みの眼」に見えたのかもしれませんね。


苦しかった・・・のは中津山の藩士たちも同じで 黒沢隊も猪狩一郎 岡部新左衛門 佐々木喜蔵ら三人の負傷者を籠に乗せて運搬しここまで来ていたのです。金子も弾薬も欠乏し、昼間の暑さに夜の冷えに耐え、峠道での登ったり下ったりで、挙げ句に立ち往生に耐えて、飢え、大雨なども・・・かなりの「敗残兵」状態だったようです。


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天保古道(天保14年) 
この3枚目の写真は、、、先の2枚目の写真の撮影位置右手90度にある山神さまです。コチラの山神さまの頭上に黄色いテープが下がっているのがお分かりになるでしょうか? そう、そこが旧街道、天保古道の入り口です。
天保古道は2枚目の写真右手にある尾根へと続いています。いまはヤブとなった廃道です、当時は大三本沢-沼ノ平-小三本沢を渡り-平石山の山神杉を経て-入叶津に向かっていたはず。
詳しくお知りになりたければ 八十里案内の地図を参照するのが良策かと思われますが、できれば、冊子をお求めいただければm(__)m


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歴史を知ってか知らずか たったお一人 高年の単独登山者が「無言」で通過していきました


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これほど広い道になろうとは 越後から鞍掛峠を超えた明治新道は田代湿原から広く程よくなっています。歩きやすく僕らはどんどん飛ばして降りていきますが? このあと道は泥んこドロドロ 長靴がグチョッと脱げるほどw


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振り返れば 木ノ根山です 左鞍部が木ノ根峠です


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12:22 松ヶ崎です。 只見の山が見えます 会津藩領地です。さぞかし ホッとされたことでしょうね。。。この安息の間にも 鞍掛峠では攻め入るはずの新政府軍を山本帯刀を隊長に長岡藩の武士たちが殿軍で布陣し待ち構えているわけで なおさら 安堵の溜息が漏れたんではないでしょうか? そのように察しました。



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中央 奥に かすんで見えるのは博士山 ずっと手前、先端だけが見えていますが、蒲生岳と柴倉山
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明治新道の路肩の石積みです。これなどは路肩に積まれたそのままの石を 復元のためにわざわざ洗って そのまま着いていた苔を洗い取って 普請した当時の状態そのままにしたもので・・・意図して明治新道をそのまま遺した路肩です 貴重です。


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13:12 偽の「化け物谷地」。。。本物の「化け物谷地」は此の上、明治中道に在るとのこと。「ばけもの」という名前が付いたところを見ますと・・・人々が寄り付かぬように?何やら財宝でも隠されているのかもしれませんw


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13:18 名香沢 
ここで塩っぽい顔を洗って下山の準備をします あと1時間、国道はまもなくです。晩秋なので 日が陰る峠路は 汗をほとんどかきません


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只見側の峠路は 落ち葉でフカフカなんですよ 根っこも隠れていない ただ 大崩れが2カ所ありましたけど。。。


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明るい秋の峠路歩き やはり「会津」は最高ですね 


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会津の尾根は痩せていて カモシカが通れるほどの狭い尾根「曽根」になっています。この双耳峰は 松ヶ崎からずうっと付いてきています


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現在、150年前の旧峠道を掘り出して調査中。 だいたい20センチほど新しい堆積物が積もっております。綴ら折れになっている上段の路肩には石積みの跡がみえております。


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14:15 工事中の新国道に出ました。ここからゲートまで5km? 約1時間は歩かねばなりませんが ぐっと忍の一字で耐え歩きます 足は棒のよう、背中はカチコチ、焦っても仕方がない。。。 歩いてさえいればなんとかなるさw


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途中にあるこの標柱は??? 多分、、、明治中道の入口かと思われます。 天保古道そのものは 浅草岳入叶津登山口あたりです。山神杉付近には「平石を積んだ路肩」が確認できます。

阿部先生の資料によりますと、、、その当時 只見では田子倉村から塩沢村にかけて8つの村、全戸数292軒という「寒村」が続くだけでした。米と味噌、塩は会津城下からの御手配でしたが、そこに25000人が敗走し通過したわけですから「食糧難」は目に見えておりました。会津藩の代官は懸命に食料を集めましたが、食料調達が思うように行かず、万策尽き「切腹」しました。「諸藩は勿論御上に対して御申訳相立て難し」と責任をとったわけです。村人もナケナシの作物・蓄えを提供し与えました。仙台藩の黒沢隊も只見のどこぞでお世話を受けたと思われます。とはいえ寒村の只見8村ですので 軒下程度で過ごされたのではないかなぁ? と想像しますが。


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おわりに・・・「会越の峠」を歩き終えて・・・

というわけで 僕らが通った木ノ根峠からの道は「明治新道」がほとんどでしたが 木ノ根峠から叶津まで明治時代に切り拓かれた道幅の広い、これぞ「会津の峠道」だといってもよいほどの綺麗な山道でした。

新潟側 三条や下田(しただ)と会津側を結ぶ道は律令時代から既に交易で存在していたわけですが(たとえば霧来川の三条集落の形成のように)、たまたま北越戦争時に 落城とともにそれを伝って継之助が落ち延びた。目下、明治維新150年企画で「逃避行」「敗走」が話題にはなっておりますが、”河井継之助の存在があって八十里越の峠路がある”と考えたか?小説のように…官軍に追われる長岡藩士1200名(総勢5000名 子女・家人も含む)さながらこの峠路の悲話を追い求めてか? 訪ねくるファンが後を断たないそうです。

その点からしても主客を「逆さま」にして峠路を想う方もおられるのでしょう。はじめに押さえて置かなければならないこととして、、、「人々の往来 生活 婚姻 交易のために道は開かれた」ということ。それが峠ばかりかすべての道の基本だということ。それを時の権力者たちが利用したということ、、、そして「事実(歴史)はそれだけのこと」・・・なのですが全国各地で古道復活・温故知新などを旗印に「武士階級や上位者の立場」で物事を観るばかりで 今の古道ブームには当時の「生活者」の立場や観点が備わっていない と思っています。

たとえば、暮らしにとって重要な「塩」ですが、、、江戸時代の初めまで会津地方の「塩」は小名浜一帯と相馬から仙台にかけての浜から採れた東入り塩が中心でした。その後、大阪から日本海を通る西廻り船で播州や尾道で採れた良質な塩が新潟に陸揚げされました。それが西入り塩です。あまり聞かされていない話ですが、幕末に京都守護職になった会津の殿様:松平容保が幕府から領地を加増された際に、特に「新潟の一部」を容保は希望したといわれおります。瀬戸内からの「西入り塩」を安く安定的に手に入れようとしたわけです。

文政三年(1820年)、御蔵入地:今の高田町以西、只見川以南の地方に7000俵の塩が運ばれたといいます。新潟港より阿賀野川をさかのぼって津川町で陸揚げされ、津川から野沢や西方へ駄馬で運ばれました。瀬戸内の塩は十四貫入り(52.5キロ)の荷姿だったので、津川での陸揚げの際に坂下の叺(かます)と縄で 米同様に一俵60キロに荷造りを仕直して運んだそうです。奥会津に入る「西入り塩」は 1新潟-津川-野沢-西方-御蔵入(主として金山谷) 2新潟-津川-八十里越-奥会津-伊北 3新潟-津川-柴倉-柴倉峠-宮崎(大山越) 4塩沢でとれる地塩 だいたい以上のルートで 御蔵入地に用立てました。

この「塩」の記録が示しますように ここは厳然と古来からの「塩の道」なのですね。古道探求の趣向の中には 時代錯誤と思われる「明治皇制」「権力の復古」を標榜する諸輩もおられますので 立場の違いを明確にしておきたいと思います。あくまで「歴史は歴史のまま」、この考えが基本だと思います。その上での研究、探求ならば宜しいのですが、誤って?権力を美化する「歴史修正主義」に陥ってはなりません。それこそ会津藩「什(じゅう)」の教え「ならぬことはならぬものです」を大人たちが学ぶべきと思います

だけど 其れはそれとして、、、「侍の時代が終わる・・・」というのが見えているのに、敢えて「侍のまま」で命を果てようとする、、、これは侍として生まれ出た者の宿命みたいなものなんでしょうかね。150年後の自由な時代の自由な私達現代人がそれを推し量ろうとしても土台無理な話ですが。 基本 幕末になりますと、君主の教えという朱子学に変わって 一般侍の学問として「陽明学」が台頭してきます。薩長藩士も 河合継之助も 陽明学を学んでいた武士だといわれますが、、、その教えに従えば 継之助のように侍が侍として果てることも、薩長藩士のように侍が良い時代を作ろうとしたことも、終に「世のため人のため」ということに恐らくなるのでしょう。 幕末にそれに目覚めたというか、陽明学の教えが身に合ったというか、変革を望んだのが「下級武士」たちで 彼らに受け入れられた「教え」 ということなのでししょうね。





なお、携帯バッテリーは35%の残量を示していた。予備バッテリーで補充しながら帰宅したが、補充電せずとも12時間ほどは余裕で保つと思われます。機内モードにして気づいたことは「万歩計」が動いていなかったような? 歩数カウントが「0歩」だった??? おかしい10万歩は歩いたはずなのに、、、 あやしいいい??  
















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by tabilogue2 | 2018-11-06 11:26 | 八十里越・下田 | Trackback | Comments(2)

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石巻市芸術文化振興財団・阿部和夫先生から・・・昨年、仙台藩桃生郡中津山の侍たちが長岡(現在の新潟県)まで出兵し、新政府軍と戦ったという話を伺って 昨年9月以降、今年1月まで20回にわたって新聞連載されたものを読みました。
で、今回 その冊子を手に入れ、北越戦争で長岡藩が敗走し会津へ抜ける際、道を共にした中津山の侍たちに興味を抱きました。


とまあ こういう話になると、おおかたは司馬遼太郎の「峠」を頭に置かれるのだろうとは思います。「八十里 こしぬけ武士の越す峠」と自嘲の句を詠んだ長岡藩家老 河井継之助の姿が皆さんの頭に描かれるのだろうとは思いますが、、、そうではなくて(笑)、仙台藩中津山の藩士たちに的を絞りたいと思います。「八丁沖の戦い」で一矢を報いた戦況だったわけですが、のちに新発田藩の寝返りで背後を突かれ7月29日に再び長岡は陥落します。

そして敗走に次ぐ敗走で「八十里越」を越して8月6日頃に会津藩領内である只見に着きました。安堵の会津領内で僅かの休息をとった後に さらに峠をいくつか越え会津に抜けます。そこから仙台藩領地へ向かうには世の主客が逆転し新政府軍に陥落した二本松を避けなければならず、桧原・早稲沢から大峠を越え米沢に入り、山形を通って笹谷峠を越えることになります。金子も弾薬も乏しくなりながらも ようやっと8月14日(新暦9月29日)長岡陥落から半月後、出陣から2ヶ月半後に仙台に帰還。。。そんな中津山の侍たちを八十里の峠路で偲んでみようと思います。


阿部先生の講演会資料によれば、桃生郡中津山の黒沢俊親家中に出陣命令がでたのが1867年5月末日、翌6月1日に大隊長:黒沢俊親53歳、隊長:八木友吉40歳 副隊長:猪狩一郎、以下89名が越後長岡の戦い「北越戦争」に仙台藩からの応援部隊(大隊は1小隊100名単位として5小隊の編成 全体500名規模か?)として駆けつけました。(その八木家が、友人方の実家の親戚かも?とのことで特に調べております)

なぜ黒沢家中に白羽の矢がたったのか? いろいろ調べていくうちに「黒沢家の近代兵術、教練」など仙台藩としては最新の訓練と装備を持った部隊であったから のようです。当時黒沢家ではフランス式の訓練を受けさせていたんですね。先見の明あり、この辺が石巻中津山にあって時代の流れとともにとても興味深いところです。

黒沢隊将兵の身支度は黒漆で塗られた円錐形の韮山笠をかぶり、黒色の洋服、隊長クラスはダンブクロを履いていたそうです。ダンブクロというのは砲術訓練の際に用いた袴を改良しただぶだぶのズボンのこと。
一般兵士は筒袖に野袴をはき、白鉢巻を締め、背中に太刀を背負い、腰に小刀をさし、弾薬盒のついた革帯を締め、雑嚢を肩から腰へ斜めに背負い、草鞋履き。肩にはフランス式の「ミニエー銃」といわれた螺旋状の施条の掘られたライフル銃を下げ、弾は命中率が高く、飛距離600mも在るミニエー弾でした。火縄銃の多い仙台藩にあっては最新式でした。

黒沢家中では「楽兵隊」という軍楽隊も存在しておりました。家中の11歳から15歳の少年たちで編成され 15歳から19歳に成長した時に戦争となり出陣していったそうで、ラッパ 大太鼓 小太鼓 笛の4つで編成され、仙台御城下を出立するときにはマーチを演奏、そのリズムに合わせて黒沢隊は行進をし 仙台御城下の話題となったそうです。トントン、トロスコ、トロスコ、トン♪ トントン、トロスコ、トロスコ、トン♪ で仙台以後、山形、上山、米沢、越後に入って新発田藩御城下へ。各藩の御城下を通過する際にも楽兵隊のマーチで行進した。黒沢隊の意気は下がることが無く、戦中にも進軍ラッパを吹き、前線の兵士は千の味方を得たとか。

戦争とはいえ その4年前からフランス式の軍事教練をしていたとは、、、当時にあって世の動静を見通す眼力が凄いと思いました。こんな近代兵法を石巻の北部で教練されていたとは全く知りませんでした。とまあ そういうわけで、、、戊辰戦争は1868年正月3日の鳥羽伏見の戦いから1869年5月18日の函館五稜郭の戦いまで、1年5ヶ月に及ぶ国内戦争であったわけです。


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ところ代って、ここ「八十里越」は長岡藩 米沢藩 会津藩 庄内藩 仙台藩の25000人ほどが通過して 会津領内に逃げ延びたと言われております。その数の中には長岡藩士、その子女、家中のものなど合わせて長岡藩5000名ほどが含まれております。

「会津はすべて山の中」と云われるように、、、会津若松への道中ほとんどが山道、峠道で、避難するさなかに子連れの逃避行を悲観し、せめて子供の命を助けようと村人に我が子を託していく人も有ったそうです。実際に藩士が石巻に帰還する折りにも 長岡からの脱出で石巻まで来た人たちが男女25人、石巻菊池屋という旅籠に泊まったという宿帳が保存されています。 この事例なども何方かに頼るアテがあるというわけでもなく、縁石を頼るというわけでもなく、ただただ お侍と道中を共にしたものと思われます・・・(真実はいかに?)


私にしてみれば、今回で3回目の「八十里越」。その途に、新たに知った仙台藩中津山の藩士たちの姿をこの峠に見届けてこようと思った次第です。何らかの「きっかけ」がないと、そうそう足が向かないことでもありますので、戦死した中津山藩:黒沢隊の隊長:八木友吉40歳の雄姿を描きながら「八十里越」を新潟側の下田芳ヶ平から只見御番所まで越えてみようと思います。

「完全踏破」は3回目にして初めてのことなので、敢えて新潟側から旧暦の8月2日(新暦の9月17日)に中越の見付を発ち杉沢、文納、葎谷(むぐらだに)を経由し8月3日に芳ヶ平に到着、翌4日に山越えし途中野宿し、ようやく5日に会津領内只見番所に至る道程を、季節で言えば一月半遅れですが、そのまま歩いてみたいと思います。


ブナの黄葉が落ちて明るくなった森を歩けるのは、、、ピークハントの何倍も楽しいものであろうか?と心を浮き立たせたままでおります。歴史をたどる峠路の旅、じつに何年ぶりだろう? 山に遊ぶものとして、心からのお楽しみとなっております。今夜は眠れないぞw 無事に「峠」を越せればいいんですがね(*´▽`*)




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みぎて前毛猛から毛猛山の稜線














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by tabilogue2 | 2018-11-02 12:29 | 八十里越・下田 | Trackback | Comments(2)

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八十里越、、、明治維新150年ともあいまって今は歩く者も多くなり、また只見側の国道建設も進んでいるようで ブームとは無縁の者にとって歩く由縁もなくなったほどの変わり様だ。以前、25年ほど昔に歩いた当時は入会権のある農家がピケ線を張っていて、建設中の砂利敷国道でさえ走ることができなかった。そのワケは他所者が入ると山が荒らされるという単純な利害意識なのだが 部外者である登山者もその枠にはめられていた。中には、登山者の気持ちを察する農家もあって、朝夕に人目を忍んで特別に施錠を外してくれたものだ。観光化が進まぬうちに、手付かずの古道の雰囲気を新潟下田側の八十里越に求め、深まった秋にでも歩いてこようかとも思う。

もうひとつ、「間道」としての「 裏 」八十里越がある。それは只見からの道をさらに北進し蒲生から入る。異様な姿の蒲生岳を右に見て真名川(まながわ)に沿って進み、いよいよ細々とした幽かな踏跡の山道となる。笠ノ沢から左に折れその沢沿いを赤崩峠まで登り、ゼンマイ小屋の掛かる赤崩台地まで降り進んで、その先 新山(しんやま)峠・ふき平(ここまでは分かるのだが、ここからの登り口が解らない)・続くは五兵衛小屋・日本平・川胡桃沢・大江となっていたようだ。
私は赤崩台地から赤崩沢を中ノ又山に詰め粟ヶ岳 青里岳 矢筈岳を眺めたが、隣の五兵衛小屋へは辿れていない。周囲は低灌木で、採掘した鉱石を焼いて粗鋼を採った後に赤紫色に焼けたボタ(ズリ)が其方此方に小さくまとめられ打ち捨てられていた。金山町の「金山史談会」古文書によれば黄銅 錫 金 銀 鉛などが採れていたようだ。一説では赤崩-中ノ又-五兵衛小屋は稜線上で繋がっていたとされる。元々それが本筋だったらしい。明治期の鉱山開発で新ルートが開かれ、それで新山峠のルートになったようだ。


いっぽう所属した仙台YMCA山岳会が桑原岳 栃ヶ森 大胡桃 小胡桃いわゆる桑原山塊の沢を歩いてから既に20数年が経っている。たとえば時代の様変わりとして、前沢・石渕の仙北街道東端 下嵐江(オロセ)に建てられたどでかい黒御影の墓石のような標石、「いったいこれは何だ?」と思ったものだ。それが古道の「象徴となしたるや如何なものか?」、古(いにしえ)の径が地方の商工課の手によって、いや、黒御影の石碑によって一方的に「観光化」されてしまった。「その土地の古道を見る目、古の価値を識る見識」がその程度でしか無かったという証しであり、恥辱の碑(いしぶみ)。この径を越えてきた者に、この碑を見て長かった峠路を回顧してくれと言えたものではない。 
古代から続く径を一日で踏破する「古道ブーム」の世の中だから 全てがすべて形ばかりの「古道歩き」になってしまって、古道を巡る情念とか、昔人への思いとか、誰がどんな思いで「峠」を越えたのだろうか?とか、想い巡らす人も居ないのだろう。その結果が「墓石」なのか? 峠道 古道 かつての径 消え去った歴史の道・・・に想いが通わないではないか。興覚めだった、、、地元とあろうものが、自分の首を自分で締めるオチにはいささかまいった。

もし、今 いにしえの径を行くとして、、、秋田・仙北街道のように「叢を掻き分けることもなく 草刈りされた綺麗な道形が刈り開かれている」ようであるならば、私の想いは裏切られたものになるのかもしれない。まあそれも「古道ブーム」という”時の悪戯”なので…仕方がないことではあるのだが。羽後岐古道も、仙北街道も、八十里越も、裏八十里も、沼田街道も、、、自分が歩いた当時は大藪 小籔 叢の杣道だった とだけは付記しておこう。それも僅か25年ほど前、今の登山ブームが始まる前のことだ。


この歳だから…これらの峠を再び歩くことは もうないと思われる。こんにち再び峠を往く価値とは一体何だろう?と考えると この世に「生きた証し」としてなら?再び歩く価値は充分にあるはず、息子、娘と行くならその価値もあがる。「これが 親父の歩いてきた山だ、沢だ」ということになるのだろうか。20数年ぶり?”老いた「会越」(あいえつ)”に火がついたが、これも”懐古趣味”という大枠の中なのだろう。自分でも何故なのか? その答えがわからないでいる(笑)。だが、通い終えて20数年が経ったと思うと 妙に不思議な懐かしさが遺る。若い時分に遠く仙台から通ったわけだが、それまでして「いったい何が「会越」へと心を焚きつけたのだろう?」、じつに!「会越」の魅力とは!?・・・と 何度も何度も「深淵の渕」に立って考えてみた。その答えを求むれば求むるほど 掴もうとすればするほど 答えは遠く、深く、奥まっていく、、、だから なお不思議なのだ。 再び 只見に訪ね行って「答え」を考えねばなるまい。 

でも そんなもんなのだろう。沢登りや冬山、雪山歩きは「生業じゃない」ということだろうし、「一趣味にしか過ぎない」ということでもあるからだ。つまり「会越」の深みにハマったのは山や谷や沢がもたらしてくれた20数年という「成り行き」、それらの「結果」、「そうなってしまった」というだけのこと、突き詰めてもしょうもない。 沢や雪山が面白かったから50年も「山」を続けられてきたということ 時に 会津の奥行きがこんなに在ろうとは…その時には気づかなかっただけだ。 が?、少なくとも言えることは、、、「情念」や「興味」を抱かない限り、20数年もの時を費やし「会越」を追い続けられるものでもない、、、ということだ。それだけは唯一、解っているつもりだ。


 

2.「中津山の侍たちと北越戦争」へ続く


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戊辰戦争150年 宮城・中津山の侍たち ”北越戦争” 阿部和夫 著  三陸河北新報社













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by tabilogue2 | 2018-11-01 11:12 | 八十里越・下田 | Trackback | Comments(0)

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秋の日差しに照り返す笹の道 通称:中東岳(猿鼻山)
いいんですよねえ・・・朝露をまとった笹の光りが、渋くて。。。

しずかに寄りそい来て、、、心の隙間をスッと埋めてくれる ありのままな自然。

もう ここまできたら ジタバタせずに 腰を据えよう 
向かいの黒々としたデッカイ大東岳を眺め そして飾りなく感動し
すぐまた右隣の笹原に覆われた中東岳の一本道をみて その光を新鮮に思い
そのまた右に屹立した小東岳の個性を ありったけの心で認め 
その奥に立つ、蔵王連山を崇める

なんか、、、心が落ち着くだろ?

とてもいい景色だ。手をかざす先に 光る山々。折り重なる藍と紫の縞模様。
身も心も 秋の日差しに ゆったりさせた

また ガンバロ っと。。。


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このコースは 岩がごろごろしているトラバースが100mと かれ沢状の急斜面200mとが 特徴で、、、
焦って登ったりすればそれこそ「苦しさ」に支配されてしまう。 ジックリ味わえたことにはならないので注意する
 気持ちに余裕を持ってこの斜面と付き合わないことには 途中、心臓の暴れは なんともならないぞ
この斜面は「こういうもんだ」と急でゴロゴロした「ありのまま」を登ろう さすれば辛さも なんと!楽しくなるw


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大東岳の冬枯れのてっぺんから 裾に広がるブナ林の・・・黒から赤茶色への変化
どっかで見たような変化だなあ???と思っていたら それが「イソヒヨドリ」の喉元の色と同じなので 
なんだか へんに?感動してしまった。。。「自然」って同じ色を使っているんだね。 

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小東岳までピストンしてきたという男性とお話した
私よりお若い60歳ほどと思われるが 息を切らさず登ってきていた

小東のピークからの眺めを見たかった と一言

凄いなあ 3時間かからずに往復できるって 凄いことなんだよ
朝の6時にコスモス畑のゲレンデを発ったのだろう かなり速い人だ
いまの自分なら 鞍部に下りる手前であっさり諦めてしまうが w

小東岳をショートーダケと呼ばずに コアズマダケとおっしゃる、、、この方
今じゃ忘れられた知識だが おそらく 大東岳をオオアズマダケと平然とおっしゃるだろう
こんな知る人ぞ知る会話に、、、「満足」を感じる自分だった


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この日は好天の休日 面白山高原駅 ホームにはたくさんの人たちがいた
15時の上り4両列車は山寺駅から既に立ちの乗客がいたが 続くこの駅で満員となった
いやあ驚いた すっかり休日の光景を忘れていた
 
さらに驚いたことに、、、奥新川駅で、下りの停車で1人下りたこと 
帰りの上り列車では7人ほどが乗ったこと ワオ 
いや驚いたというより、むしろ なんか ほわんと 嬉しい♪

あれだけ毎週通ったけど、下りる人は郵便配達のオジサンと私以外、外にいなかった。
もっとも2月じゃ 人影もないけどなあw 
でも今日は 目を白黒させてしまった ビックリしたなぁもぉ  

さらに学園祭でか? 国見駅と福祉大駅とで学生さんたちのラッシュアワーだった
世間の風が温かな一日だったな よかよかたい


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by tabilogue2 | 2018-10-22 08:59 | 面白山 | Trackback | Comments(0)

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日と月と星の三光ノ宮




三連休最後の今日は台風後の影響で風があって さらに 台風が連れてきた熱気のせいもあって暑かった。先週は栗駒山行があったばかりだし さらに今月はビッグイベントが控えているので ソレに向けて体力調整中。怪我しては元も子もないので 体力的には「流す」程度にして終えた。それでもまあ、7時間は森の中に居たことになる。

足元は 3kgの皮革重登山靴に変えて、太ももの筋トレを兼ねようと?ゆっくり登った。8人ほどに先を譲った。爪先で蹴って歩かない!、太ももで足をリフトして前に一歩出す・・・雪山の歩き方を秋のうちに我が身に覚え込ませるつもり。結果は太ももが締まって「張り」が出てきた感じ。だけど、靴下の厚さ不足か?足の甲がイタイのだなぁ(+_+) 

スマホデータによると歩行速度は3.7km/h。休憩をもう少し多めに入れて、3.5km/h以下にしないと訓練にならないかな。「爪先で蹴って歩かない!」 ゆっくり歩く癖をつけないと雪山では体がもたない。3.5km/hを上限にすることを冬山の基本型にしようかな。

今日は地図アプリ「YAMAP」を起動させ、バッテリーの消費量・残量を最終チェックした。本番に向けスマホ性能を把握。機内モード設定で、画面照度50%で、1日7時間の登山で、、、携帯の電池残量が60%だった。 これなら秋の遠征でも既存の外部充電用バッテリー1台携行で間に合いそうだ。「無駄」は極力排除、、、遠征はこれに尽きる。


「芋煮」ばかりが秋じゃない(笑)昨夜から「おでん」を煮込んだ。味の染み込んだ具材をジップロックに入れ升沢小屋まで持ち上げた。既成のおでんパックの大根は「筋」だらけでスカスカの冷凍品。「自家製」おでんはじゅわ~っと味が染み込んでほの甘く美味しい。具は好みのものばかりで、、、だいこん ハンペン ちくわ 揚げカマ 糸コン 結びコンブを洋辛子で戴く。小屋の夜、旨いヨ これ! バーナーでお湯を沸かし ジップロックのまま茹でて温め直して袋から取り出すと、、、そこらじゅうイイ匂いがするじゃないかw おでんの匂いが小屋に充満する前に熱々の「おでん」を戴いた。でないと他の人に迷惑をかけちゃう(´艸`)

さてさて、、気力体力の滋養という意味で食事は「遠征」の重要項目の一つ。緊張からの解放!。蜂蜜入り南高梅を仕込んだ「ごま塩オニギリ」。美味しかったなあ ますます遠征メニューが確定されてくるw ちなみに秋の遠征での”水分”は…というと 水500cc、ポカリ500cc、白湯500cc、缶ビール250cc2本、ウィスキーポケット瓶 計2.5kgのみ。果物の水分は蜜柑・梨、甘味はチョコレート・お汁粉、餅・フリーズドライカレー、牛肉、野菜、塩分はビーフジャーキー 水分さえ抑えればザックの重量は最低限に抑えられる。


昔はいっさいなかったことだが、、、ここ最近車で5合目、8合目までいくよなお手軽登山がふえた、、、リフト完備の名山歩きに慣れた、体たらくな精神を鍛え直すため ( `ー´)ノ 「山泊まり」して不便さ、難行苦行に当たらせる(笑)20キロまでも背負う必要はないけれど やっぱり山は泊まらないと「山旅」にはならない。山の「深み」も味わえない。山に来て 日帰りで娑婆に下りるなんて勿体ない話じゃないか。 山は、不便さ難儀さを乗り越えた向うに 奥深い楽しみに触れるチャンスがあるのだから。 そこが日帰り登山とは格段に違うところでもある。

かといって山小屋で宴会してちゃあ、「旅情」を味わうチャンスを失いそう まあ 得るものもあるけど。若さがあるなら野宿、”一人で野宿”がいちばん良い。百歩譲って、星を眺めるようなテントの夜が男には似合ってるとも思う。 さてと・・・、秋の遠征が終われば、いよいよ「冬山」。冬山と言っても 春の締まった雪じゃない。フカフカ モフモフ、、、この雪に泣かされる日ももう直ぐだ。行くぜ今年も 奥新川 面白山 後白髭 磐司尾根。。。雪の中で「鍋」を食べようぜい!

15年も使用したヘリテイジの冬用ヤッケを買い換えないと・・・重いんだなぁコレが。



以下、標高を上げるに連れて「ぶなの森の彩り」が変化してゆくのが判ります 船形山「升沢コース」画像です。ただ、細やかな葉っぱ等を撮るには「CCD搭載カメラ」の方がきれいだったような。もう10年前に消えちゃったけどね。


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by tabilogue2 | 2018-10-08 19:51 | 船形連峰 | Trackback | Comments(0)

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広角ズームレンズ12-24mmを1本だけ持って 山にいくというのはやはり物足りない
・・・ということが 結果的に言えますです(´艸`) 初めから分かってはいたんですが。。。
やっぱり、出るとこ出て 引っ込むところは引っ込んでないと💦ダメなんだ と思いました。

風景写真だから広角レンジで撮る というだけでは収まりそうにないというか?
広角を否定するつもりはさらさらないのですが、、、ただ、荒々しい岩肌はやっぱり望遠で狙いたいのです。
次回は 望遠も加えたいと思いますw (*´ω`*)イマサラ イウカ

(まるで小学生だな こんなこと日記風に書いてる自分は( ^ω^)・・・笑)



だいぶ以前、、、15年ほど前 

宮城県岳連:斉藤善雄先生の写真「火ノ沢」を観たときに 
過去に経験したこともないような(超?)強烈に頭を殴られた感じがしました ですよ。

眼前の滝、眼光するどくトップのリードの動きを見守る、不安な「眼差し」たち。 
不安と緊張、いざ行かんとする意欲、、、それらが入り混じった古川工業高校山岳部員たちの表情が凄かった。
シビレがくるほど。。。一度観てしまったら もうあの「眼差し」は忘れられません。。。

それに魅入って以来、、、人物の「表情」を撮ることに躍起になっていた自分だったようです。
だってねえ、数百数千もの風景画を観てきたにも関わらず たった1枚の「眼差し」に殺られちゃうんですよ。
一眼レフ(Nikon F4)を買ったのもその頃。東京出張で急にヨドバシで衝動買い。。。
もう20年過ぎましたかね? 甘チンです(´艸`*) 
ブログの世になって…フィルムカメラを引っ張り出し デジタルと並行で弄り始めたのが10年ほど前

そんなわけで、、、

「平面的な風景写真」を撮るとなるとw 何となく物足りなさを感じてしまう。
そういう、「誰でも罹るハシカ」に 私もかかりました。

この「不成就感」は一体何だろう?って、、、デジタルになって尚更。
なんて考えても 目指す到達点の違いか?空しい感じだけだったなぁ。
広角レンズで風景撮影というと、虚しさに襲われますwww。無心になれないのです。

風景を広角レンズで何枚とっても(極端に言えば)どれも同じようにしか見えません、なにが面白いんだろう?
飽きてはいないから 今でも撮ってるんですがねw でも正直なところ やっぱ 飽きちゃう感じ。




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赤色が滲んじゃいました💦




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剣岳の裏側




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名残ヶ原です こういうシーンは広角レンズの守備範囲




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産沼(うぶぬま) 残月をも入れ込める 12mm広角レンジ




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台風通過で すっかり葉を落としてしまった山頂付近のナナカマド



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宮城県側 栗駒中央コース こういう画角が広角レンズには似合ってるなぁ・・・






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by tabilogue2 | 2018-10-05 06:56 | 栗駒山 | Trackback | Comments(0)

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人物が左上に立っている展望岩頭です 見下ろせば”龍泉ヶ原”





広角写真ですが、、、それで どこに焦点をもってきてクローズアップさせるか?というのが目下の課題、、、
blogに載せている程度で終わっている自分にはまだ分かっておりません。機材が勿体無いw

いっぱい撮らないと理解は出来ないのでしょうが 
平面的な風景写真ばかり撮っていたのでは「腕」はあがらない というのだけは分かってきました

人混みの中に入って、、、 ソレだけを狙う、ズームで「表情」を狙う、「目」を狙う、
写真のコツ、、、それを風景写真に取り込めば良いのかな? その程度のヒントは理解できました。

だから「広角レンジに頼ってしまった写真はつまらない」と思ってしまうのですが。。。
風景写真の卓越な画を拝見していますと 必ずポイントをその画に置いていることに気付きます。

そこが違うんでしょうねえ。。。わかっていても、、、できないw もどかしいものですね(´艸`)




 
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展望岩塔付近から 秣岳  
まったく遠近感のない平面的だなあ ダメだわ、これ。。。手前側が強調されていないのが原因かも?




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御室付近の紅葉と大地森の紅葉 撮るには虚空蔵を少し藪を漕がねばならん
行けばよかったかな 広角レンズ1本縛りだから 自分が動かないと画が大きく撮れない 





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天馬尾根の池塘





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秣岳に向かう すると アオモリトドマツか ツガか わかりませんが、鼻にツーンと良い匂いがする 
この辺りが 自分は好きなんですが 天馬尾根は歩くにも景色を見るのにも最高の所ですね 
できれば午後の順光に出会うために 山頂から秣岳に向かって下りて来るほうがいいかな。。。

テント張れないので 朝は撮れません。。。 林道にテントを張れば? ここまで30分ほどですけどwww





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展望岩頭から 現役時代に踏査で歩いた小仁郷沢・龍泉ヶ原(と剣岳) 奥に秣岳と須川湖


欲を張って 全てを入れ込もうとして撮ると こんな何の特徴もない写真になってしまう
誰でも撮れるが 誰もが迷い込む、、、「風景写真の落とし穴」だ

それを「縦」構図にすれば 少しは間延びした部分がカットされて・・・いいのかな?


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by tabilogue2 | 2018-10-04 09:14 | 栗駒山 | Trackback | Comments(0)

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1626mの山頂付近は先日の台風で紅葉は終わっていました 現在は1300m前後です
眼下に広がる湿原、龍泉ヶ原の紅葉がとてもキレイでした。





今日はいつもの反省ですが、、、 少し広角に頼った写真を試みました 
風景写真を撮るなら12-24mm広角レンズのみ「1本しばり」と 強制的に広角レンズで撮影しました。
広角レンズで撮ってしまう風景写真ですが、、どうせなら、今日は「替えレンズ無し」でいきますw 

広角写真は 広角レンジの特徴で「平面的」、ノベタンになります! 何を見せたいのか?撮り手の主張が分からない! 
画角の中央に高いお山を配置して撮っても、その高さが消え 全て中央の被写体は低く写ってしまいます。

じつに今日は ソレらを避け、画面に強弱をもたせたかった わけなんですがねえw
撮りたいものがその中にあって、しかも画面の何処かで 主役性を帯びさせた写真が撮りたかったわけですが?
はたして 今日は上手く 首尾よく行ったでしょうか??? 

山は栗駒山

コースは少し欲張って(´艸`) 須川温泉から笊森コースを採り、
山頂は混んでいたので早々に退却し 展望岩塔手前で昼メシ&結構な枚数を撮りました
そのご 各ポイントで時間をかけて 順光を追って ラストは天馬尾根の草原と秣岳で締めとしました

どなたが撮っても 広角レンズでワイドに撮れば、いちおうサマになるのが「広角写真」ですが
ただ、プロ/アマの違いを言えば・・・広角レンズの画角には「主役不在」じゃダメらしい? 
広角レンズであっても「主役を据える」ことが肝心だ ということなんでしょうね。 

となると・・・
望遠ズームレンズで簡単にできたことが 広角レンズではほぼできないわけで???
 そこに「主役を据える」となると とてもとても むずかしいわけです(´艸`)







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↑ からわざわざ移動して 手前に黄色くなった草紅葉(脇役)を配置して
中央の紅葉(主役)を引き立てた ↓


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笊森コース栗駒山の山頂手前から撮影

右手の笊森と中程の避難小屋 笊森コース 真湯コース 東栗駒コースの3コースが俯瞰できます
それだけの証拠写真w 山頂から産沼分岐まで 紅葉が山裾を覆っています それだけの・・・w




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赤くなったモミジを手前に置いて 秣岳の手前に位置する4つのポコを高目に配置した

時間の制約がないので、、、
それもあってか とてもノンビリ歩けるところだった





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天馬尾根の草原 草紅葉




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草が栗駒山へと いっせいに靡いている





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秣岳って端正な三角形だな

ジグザグ登山道と雪崩に削られたアプローチが引き立てる



仙台5:00 須川温泉7:30 産沼10:00 山頂10:30 展望岩頭(ランチ)11:40
 草原12:40 秣岳13:40 下山口14:40 須川湖15:00 須川温泉Ⓟ15:20 湯浜温泉16:00
車を回収するのに30分の車道歩きがあるのですが、まだ余裕があり卒なくクリア。13kmの完歩でした。ほどよい疲れ。
















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by tabilogue2 | 2018-10-03 20:35 | 栗駒山 | Trackback | Comments(0)